2015年7月12日「のんきな、うぬぼれている者よ」イザヤ32:9〜20

序−自分を取り巻く環境が大きく変化している時、それでも、それに対処することなど考えず、このままで大丈夫だと安逸に逃避する人がいます。人は、変わるよりも、心の安逸主義に陥りがちです。このままうまく行く、思うようになるはずだという勝手な思いを持つのです。ユダの神の民もまた、このような安逸主義に陥っていたのです。

T−安逸な女性たち−9〜10
 アッシリアの侵略に備えて、指導者たちがエジプトに頼り、間違った導きをして、南ユダ王国を滅びに向かわせていた時、女性たちはどうしていたのでしょう。9節。女性たちは、「のんきに、うぬぼれていた」というのです。女性たちがのんきでいた理由はなんでしょう。知らなかったか、気に留めなかったようです。まもなくアッシリアが攻めて来て、エルサレムも廃墟となるということを知らなかったために、のんきにしていたのです。うわさ話にはのぼっていても、あんまり気にしていなかった。私たちのエルサレムが陥落するはずがないとうぬぼれていたのです。
 どうして、指導者でもない女性たちに警告されているのでしょうか。女性たちは家庭を預かり、支えている人たちです。その家庭の要が、のんきに、うぬぼれていたなら、民全体がそうなるからです。国の指導者たちよりも、重要だということです。為政者たちが罪に陥っていても、国全体がそうなることはないのですが、女性たちが神様から離れ罪に陥っていたなら、深く家庭の中に罪が浸透します。影響力は、大きいのです。国や地域を良くするのも女性たちにかかっています。
 元々預言者が男性たちに神様の御言葉を伝え、男性たちが家の者たちに教えるようになっていました。しかし、今や民の置かれた状況は、危急存亡の時です。女性たちがしっかりして、その危機に備えなければならなかったからです。一年後にはどうなると警告されていますか。10節。今ブドウがたわわに実っているけれども、来年には収穫がなくなる、取り入れもできなくなるというのです。
 考えられる理由は、気候の変動で収穫できなくなることです。そうでなければ、彼ら自身がどこかへ行ってしまい、刈り入れができなくなることです。つまり、侵略されて、どこか遠いところへ連れて行かれるということです。このままのんきに、うぬぼれていることはできないぞと警告されています。
「のんき、うぬぼれ」という思いは、自分中心であり、別に変わらなくてもいい、何とかなる、私は特別だ、自分の思うようになるだろうという肉の思いです。人の肉の思いは、自分が変わりたくない、このままでいい、何とかなるだろうという安逸主義に陥らせます。しかし、それは、私たちを罪の縄目でしばり、私たちを滅びに向かわせるサタンの誘惑です。
 他の人々もそのように生きているのだから、死後のことは考えないで、今がよければいいなどと考えるのです。でも、永遠のことが分かってこそ、天国の確信があってこそ、今をしっかり生きることができます。イエス様の十字架が私のためだと信じてこそ、罪の縄目から解放され、新しいいのちで生きることができるようになります。今というときにイエス様を信じてください。Uコリント6:2。
 救われているからと言って、自分だけの平安、自分だけの救いに安住していていいのでしょうか。「のんきに、うぬぼれて」いることは危険です。アモス6:1,3。罪の思いに陥って、肉の言動をする、人をあざけり、人を傷つけるようになると警告されています。ヨブ12:5。安逸をむさぼっている人々は、ほしいままに悪事を行うようになると言われています。ゼカリヤ1:15。

U−危機の時、しなければならないこと−11〜14
 警告された女性たちがすべきことはなんでしょう。11節。「着物を脱ぎ、荒布をまとう」ということは、捕囚にされて、奴隷にされて引かれて行く姿です。イザヤ20:2〜6。「のんき、うぬぼれて」いた女性たちも、「おののく、わななく」ようになります。そのような危険な状況で神の民がすることは、荒布を着て、徹底して悔い改めることです。徹底して神様を信じて、御言葉のまま生きてみようと決心することです。
 11節のことは、「のんきに、うぬぼれている」女性たちに、実際に困難が訪れて来る時を予想してみなさいということです。実際にそのような格好をしてみなさい、と勧めています。一瞬に何もかも失い、身一つだけになるという状況になったら、どうするのですか。そのままでいいのですかと言っています。12~14節。その時、ブドウの実りの最盛期です。美しい光景だったでしょう。それらが蹂躙され、畑はみな荒地となってしまうのです。彼らの楽しい家、栄光を誇る都エルサレムは、すべて破壊されて、荒涼とした光景となってしまうというのです。
 それに気付いたら、「のんき、うぬぼれて」いた女性たちも、「胸を打って嘆く」しかありません。警告だけでなく、自然もずっと実り続けるとは限りません。天候不順、暴風雨などによって、田畑は荒地と化すこともあります。大災害によって、町や都市が破壊され、荒涼とした光景に変わることもあります。私たちの置かれている状況がいつ変化するか分かりません。家庭や職場の環境がいつまでも同じとは限りません。いつまでもこのままとのんきにしていることはできません。私は力がある、これは大丈夫だとうぬぼれているわけにも行きません。
 でも、急変するその時、私たちのすべきことは、絶望することではありません。状況を嘆くことでもありません。ましてや、誰かのせいだと人を恨むことでもありません。主に立ち返ることです。主の前に悔い改めることです。悔い改めて、主をしたい求め、信頼することです。私はイエス様の十字架によって救われている者だと思い出すことです。真実に救い主イエス様を愛することです。実りがなくても、荒野になったとしても、神様の恵みは終わらない、それでも聖徒たちを主は見捨てないと確信することが、とても大切です。申命記31:8, Uコリント4:8〜9。

V−破壊の後の回復−15〜20
 神の民にとって、破壊や荒廃で終わりではありません。神様のご計画は、苦難やわざわいが目的ではありません。「平安と希望を与える」ものです。エレミヤ29:11。ユダの民に対しても、「しかし、ついには」神様は顧みてくださり、聖霊を注がれます。15節。恵みの回復です。聖霊を注ぐとは、神様の御業がなされることです。荒野が果樹園となり、さらには森のようになるまで主の恵みは注がれます。聖徒が主に立ち返るならば、聖霊に満たされ、新しくされます。詩篇104:30。信仰の恵みが回復します。
 新しい環境は、神様の真実と霊的原理によって回復されます。16~17節。神様の義がなされる時、神様の民として回復されるのです。イザヤ1:27。イエス様に救われるとは、イエス様の十字架の身代わりによって、罪をさばく神様の義が満たされ、私たちの命が回復することです。Uペテロ1:1。人がイエス様を救い主として信じるならば、荒野のような人生が園に変えられることが始まります。ですから、荒野が園になるまで、主を求め、従い続けるのです。神の民は自分ではどうすることもできませんでした。その回復は、ただ神様のあわれみにすがるだけです。そして、「とこしえの平穏と信頼をもたらす」のです。
 イエス様の救いの中にあってはじめて、人は本当の心の平安、たましいの安らぎを得ることができます。神の民として回復される聖徒たちは、本当の平安を味わうことができ、主の御手の中にあって、本当の「安らかな憩いの場に住まう」ことができるようになります。18節。「のんき」と約された「シャナーン」という言葉は、ここでは「安らかな」と訳されています。神様を離れて安逸と高慢で生きている時は、はなはだ危ういのです。いつその環境が変わり、状況が急変するか分かりません。それに対処することができません。
 しかし、神様に立ち返ってこそ、まことの平安が訪れます。イエス様をわが救い主と告白し、人生を委ねるときから人生が始まり、主の御手の中で憩うことができ、たましいの安らぎが来ます。マタイ11:28〜29。福音の特徴は何でしょう。イエス様の身代わりの十字架によって信じる者の罪が赦され、命が回復され、心が「安らか」になることです。
 神の民や聖徒たちが、神様から離れ、安逸と高慢の中にいるなら、豊かに見える「あの森」も、安全に見える「あの町」も倒される時が来ます。19節。しかし、神様のあわれみが、それを回復させてくださいます。ですから、私たちがすべきことは、そのあわれみと恵みに応えて行くことです。20節。民の新しい信仰生活は、それは本当に幸いな生活として描いています。主の恵みの中で働き、生きることが幸いです。主の祝福の中で与えられるものが、私たちに安らぎを与えてくれます。まさに、「ああ、幸いなことよ」です。
 同じ働くのでもまったく違います。ガラテヤ6:8。結局、御言葉に従って生きて行くなら、幸いを刈り取ることができます。信仰と言っても、御霊によって造り変えられないなら、その生活は生まれたままで生きるものであり、「のんきに、うぬぼれている」生活です。今、安逸と高慢から抜け出し、イエス様のもとに行きます。そして、その救いによる赦しと恵みを感謝し、本当の安らぎを味わいながら生きます。マタイ11:28〜29。



イザヤ
32:9 のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。
32:10 うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。
32:11 のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。
32:12 胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。
32:13 いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。
32:14 なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。
32:15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。
32:16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。
32:17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
32:18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。
32:19 ──雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。──
32:20 ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。



Uコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

ヨブ12:5 安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。

ゼカリヤ1:15 しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行った。

申命記31:8 【主】ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

Uコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

イザヤ1:27 シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

ガラテヤ6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

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