2015年7月19日「主を待ち望む」イザヤ33:1〜12

序−神の民の特性として、困難や人が与える痛みを通して、悔い改めと信仰の恵みに導かれることがあります。何もない時よりも、神様の民の信仰は、もっと良くなり、祝福も大きくなるのです。困難や肉の人の言動に悩まされる私たちも、そうではないでしょうか。

T−アッシリアの横暴と神の民の祈り−1〜2
 まず、エルサレムを攻めているアッシリアに対して、不思議な警告がされています。1節。「ああ」とは、「わざわいかな」と表現されるべき嘆きの感嘆語です。多くの悪い国、悪をなす国々がある中で、アッシリアはとりわけ悪辣な国でした。他国の比ではありませんでした。普通悪い国は、悪い国同士戦います。踏みにじられたから踏みにじり、裏切られたから裏切るというように、互いに仕返しをエスカレートして戦いになります。しかし、アッシリアは、そうではありませんでした。
 「自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切る」という国がアッシリアでした。そうして、武力と悪辣さをもって、オリエント世界に初の大帝国を築きました。人を踏みにじったり、人を裏切ったりしていない正しい人々まで、無差別に攻撃して蹂躙していたのです。仕返しするならば、悪者同士で戦えばいいのに、まったく悪意のない人々を攻撃するのは、悪者だとしても強国としては恥ずかしい姿です。
 とりわけ、ユダ王国に対しては、妬みがあったようです。神の民が正しく生きようとする時、人々から妬まれるということがあります。肉の価値観に生きる者からすると、自分たちと同じように悪を返すことをせず、同じように欲を見せることなく、懸命に信仰に生きる姿が妬ましく、うとましくすら感じられるのです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず」という、肉の人に見られない高尚な大胆な生き方が、肉の人々を刺激するためです。Tペテロ3:9。もし私たちが正しく歩み、人に悪をなしていないにもかかわらず、不当な取り扱いを受けることがしばしばあります。真摯な信仰の姿が妬まれていると思いましょう。
 「悪をもって悪に報いず」ならば、悪い者の攻撃に対して、正しい人はどのようにしなければなりませんか。2節。神に祈ります。「私たちは主を待ち望みます」というのは、切実に神様の助けを懇願する祈りです。神様の民でありながら助けを祈っていなかった民が、肉の人の小細工は捨てて、神様が顧みてくださらなければ滅びてしまうという覚悟で祈っています。確かな望みをもって忍耐しています。
 「私たちの腕となってください」とは、神様が御力をもって、苦難の泥沼から自分を救い上げてくださるというイメージです。「朝ごとに」とは、熱心に祈る神の民の姿です。祈りの生活を象徴しています。その祈りは、確信をもって神様に拠り頼む祈りです。悪者に踏みにじられ、裏切られ恨みつらみで心いっぱいになるなら、自分の心も肉の思いになるでしょう。悪をもって悪に報いることになりかねません。イエス様の十字架によって救われた私たちです。ですから、救いの恵みを覚えて、私たちはただひたすらイエス様に助けとあわれみを祈り求めるのです。朝ごとに祈ります。

U−困難を通して神様が行われること−3〜6 
 患難や問題も私たちにとって無駄ということではなく、それによって私たちが整えられ、恵みを受けるという益があることを学んでいます。ですから、悪者を通して聖徒たちも養育されるということにもなります。まず、神様が世の悪や汚れを聖めてくださいます。3節。仕返ししなければ、肉の者が栄えるだけだと思うかもしれません。しかし、「主が立ち上がられるなら」、悪い者がどんなに強いとしても、一瞬に倒されてしまいます。悪辣で強大なアッシリアも、あっという間に滅んでしまいます。それが、変わらない歴史の物語るところです。
 ただ注意しなければならないことは、そのような状況の中で、神の民が信仰に立たなければならないということです。信仰に立ってこそ、真実に神に拠り頼み、悪に悪をもって報いる不毛から守られます。イエス様の救いに生きる信仰がなければ、肉の者と同じようになる他ありません。
 次に、神様は、神の民をしっかり養育してくださいます。4節。油虫とは、バッタの種類のことです。この地域では、無数のイナゴやバッタが大発生して、押し寄せて来ることがしばしばあります。そのようにアッシリアが攻めて来るのです。しかし、アッシリアが国々からバッタのように襲って奪った分捕り物もすべて置いたままで、そのアッシリアがイナゴのように飛んで逃げてしまうというのです。事実、エルサレムを囲んだ無数のバッタのようなアッシリア軍が混乱の中で引き上げた後、多くの戦利品がユダのために残されました。
 たとえ、現実には、私たちに何かが加えられなくても、苦難は私たちに有益を与えます。なぜでしょう。あまり祈らない者に、多くの祈りをさせるようになります。その祈りも無駄にはなりません。涙の祈りの中で、神様の真実さと信仰の素晴らしさを味わうようになります。神様の祝福を受けるようになります。それは、信仰の分量に応じて受けるとよく言われます。苦難の分量に応じて、祝福も大きくなると言います。詩篇90:15。悔い改めて、神様に祈り叫んだ後、神様の祝福が臨みます。
 そして、私たちが拠り頼む神様が、どれほど偉大なお方であるか表されています。5節。確かに私たちは神様の偉大さは知識としては知っています。しかし、神様がどれほど偉大なお方で、力ある方なのか、私たちに確信があるでしょうか。イエス様を信じたと言っても、「神様に頼んだとしても、はたしてこの問題が解決されるだろうか」という思いが生じていないでしょうか。信仰の困難がここにあります。
 患難の中で確信をもって祈り、大きな祝福を体験すれば、神様は生きておられる方、力ある偉大なお方であることが分かります。教会の中でも、兄弟姉妹が大きな困難に出会いながらも、必死に信仰をもって真実に主に祈り、みな執り成し祈って行く時、神様の大きな守りと導きを体験して来ました。困難を通して、神様の御力はもっと現れるようになります。私たちの困難が大きければ大きいほど、偉大な主の働きが現れるのです。
 その結果、神の民は、もっと神様の御言葉のままに生きようというようになります。信仰で生きてみた結果、神様の祝福と守りの応答を経験し聖徒は、信仰の素晴らしさを確信するようなり、もっと信仰によって生きようとなります。それで、「シオンを公正と正義で満たされる」と言われるのです。信仰が世に現れるためです。

V−現在の患難と将来の救いの約束−7〜12
 このような信仰は、ユダの神の民がはじめから持っていたものではありません。ユダの指導者たちは、幾つかの方法を取ってみました。7節。まず、「勇士たち」を送って、戦いました。そして、「平和の使者」を送って、交渉をしてみました。いずれも効果はありませんでした。アッシリアの目的が、エルサレムを倒して、略奪することだったからです。世の方法を尽くしてみても、だめでした。
 アッシリアがどれほど破壊と略奪のかぎりを尽くすのか、表現されています。8〜9節。アッシリアの軍勢が通り過ぎた国々は、何も残りませんでした。地は荒れ果て、町々は破壊され、道を通る人はいなくなり、道もなくなります。条約を結んだとしても、「破られて」意味がなくなります。条約は見せかけであり、相手方を油断させるものに過ぎませんでした。契約という世の中でもっとも当てにされるものが、じつは当てにできなかったのです。今も昔も変わりありません。人は、昔も今も罪人だからです。
 アッシリアは、破壊者です。人間的な方法は何ひとつ役に立ちませんでした。ですから、私たちが患難や肉の人の横暴と取り組む時、祈らなければなりません。自分で祈ることが辛いならば、信仰の友に祈ってもらうことです。問題や病気のためにとりなしの祈りが必要です。真実な信仰の友の祈りは、どれほど力強いことでしょうか。
 3節で主を待ち望んでいた者、主に祈る者に対して、主は応えてくださいます。10節。「今、わたしは立ち上がる」と言ってくださいます。なんと言う恵みでしょうか。私たちが主を待ち望む前から、主が私たちを助けようと待っておられます。イザヤ30:18。私たちを取り巻く状況が厳しく、肉の人の横暴が取り巻いても、この時という時に、祈り待ち望む者のために、偉大な神様が立ち上がられるのです。
 そうなれば、神の民を攻撃することは、意味のないことになります。悪者のしていることは、空しいことになります。11〜12節。アッシリアのすることはわらのようであり、焼かれて粉々になる石灰のようになり、刈り取られて火をつけられるいばらのように、アッシリアもなくなってしまうというのです。どんなに強い者でも、悪者は、一時期には勢力を奮っていたとしても、一瞬に瓦解してしまいます。
 ですから、私たちは、困難や肉の者たちの策動を絶対的だと見ないことです。結局神の民は、困難を通して信仰が成熟し、主の祝福を受けるようになります。主が私たちの力です。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という約束を握りながら歩みます。イザヤ40:31。



イザヤ
33:1 ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。
33:2 【主】よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。
33:3 騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。
33:4 あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。
33:5 【主】はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。
33:6 あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。【主】を恐れることが、その財宝である。
33:7 見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。
33:8 大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。
33:9 国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。
33:10 「今、わたしは立ち上がる」と【主】は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。
33:11 あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。
33:12 国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。



Tペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

Tテサロニケ5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。  

イザヤ30:18 それゆえ、【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。【主】は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。

イザヤ40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

戻る