2015年7月26日「救いの宣言、祝祭の都シオン」イザヤ33:13〜24

序−聖徒たちでも、自分に関わることが中々うまく行かず、悪いニュースばかり気になると、こんな世で生きるのは空しい、私の人生は苦しいという思いになります。どうして神様はこんなにしているのかと神様に不満を持ち、心が神様から離れるようになります。そのようになっていた神の民を神様はどうしてくださったのでしょうか。

T−遠くの者よ。近くの者よ。−13
 神様は、神の民を励まし、救おうとして、エルサレムから遠いところにいる人や近くにいる人々に驚くべきニュースを聞かせようと、呼びかけます。13節。エルサレムは、アッシリアの攻撃にさらされています。ところが、他の周りの国々はアッシリアに滅ぼされてしまったのに、ユダだけは持ちこたえ、エルサレムは存続しています。これは、近くにいる者に留まらず、遠いところにいる者にも大きなニュースです。すでに滅ぼされた国々よりはるかに小さいユダだけが、どうして守られていたのか気になります。そのような弱い小さい国がどうして強大なアッシリアを退けることができたのか、何か秘訣があるのだろうか、と思うのです。
 この「遠くの者、近くの者」と言っても、距離だけ「遠くの者、近くの者」でなくて、心情的に遠くにいる者、近くにいる者という意味です。どんなにエルサレムで生きていたとしても、信仰が薄れて、神様から心が離れているならば、どうしてユダが守られているかなど気にならないのです。この人たちの気になっていることは、どうして神の民なのにアッシリアに攻められるのか、なぜ神様はあんなひどいアッシリアをそのままにしているのかということです。神様から心が離れて、「遠くの者」になっています。それに比べて、遠くで苦しんでいる者だとしても、神様の約束を信じて御言葉を握って生きている人は、ニュースを聞いて「やはり神様はご自分の民を守ってくださるのだ」と悟るようになる「近くの者」です。
 私たちの心は、どうでしょうか。神様に対して「近くの者」でしょうか。「遠くの者」になっていないでしょうか。神様の臨在を意識して、信仰で生きているなら、神様の御力を体験することができます。私たちにとって大切なことは、目に見えることだけではありません。自分が困難で労苦していても、世で問題が多くても、重要なことは、神様がどのようにしてくださるかということです。それが信仰者の歴史の出来事でも、誰か他のクリスチャンの証しでも、自分にも同じ祝福が臨みうるからです。私にもそのようにしてくださると信じることができるからです。ルカ18:7。
 かつて、私たちは、神様から遠く離れていた者です。エペソ2:16〜18。しかし、イエス様が私の罪と滅びの身代わりとなってくださったことで、神様に近づくことができる者とされました。どんなに大きな恵みでしょうか。なぜ離れているのですか。近づくことができるのですよ。イエス様の救いを信じて、大胆に主の御前に出ようではありませんか。ヘブル4:16。

U−神様とともにいる者−14〜16
 でも、イエス様の救いがなければ、罪のままでは神様に近づくことができません。14節。いくらエルサレムに住んでいても、罪の思いのままいれば、神様の近くにいることにはなりません。あなたのために十字架にかかり、罪の赦しと真の命を約束してくださったイエス様を信じてください。火のような滅びを免れ、天国への命に生きることができます。イエス様とともに生きることができます。
 神の民であるならば、神様の御前に立ち返り、主の祝福を味わいながら生きる者となりましょう。15節。このような人こそ、エルサレムで生きることができるのであって、日々肉の思いになって、人を傷つけているならば、エルサレムに住む人ではありません。つまり、いつも肉の思いで生きて、肉の言動となっているならば、主の近くにいる者ではなく、主から遠くにいる者だいうことになります。詩篇24:3〜4。
 どのような人が、神様の近くにいる人となるのでしょうか。15節をよく見てみましょう。「正義を行う者、まっすぐに語る者」です。神様は、いくら世が横暴な者の天下であるように見えても、神の民が正しく生きることを願われます。神様の民は、強いことよりも、正直で聖いことを願われました。アッシリア的な人々が跋扈し、人の利得を奪おうとし、賄賂の多い世であっても、「強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者」であることを願われました。なぜ、神様は、神の民が正しく生きることを願われたのでしょうか。神様は、世がどんなに悪くても、アッシリア的な人々が我が物顔でのさばっていたとしても、ご自分の民が、神の民として生きることを通して、世を変えようと、世を救おうとされておられるからです。ですから、私たちは、世がどんなに問題が多くても、横暴な人々に翻弄されたとしても、神の民として、イエス様の弟子として、地の塩、世の光として世で懸命に生きるのです。それが、救われた恵みに応えようとする姿です。
 世がどのようであっても、悪い事件や問題が多いとしても、サタンに騙されないでください。「耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者」となることを父なる神様は願っておられます。なぜ、このようなことを言っているのでしょうか。アッシリアが席巻する世が、そういうことを垂れ流しているのを、そのまま聞いて、目にしているなら、悪い影響を受けて罪を罪と思わなくなったり、あるいは、悲惨な現実に信仰の思いが萎えてしまうからです。
 かつて情報化時代と言われていた時代は、できるだけ多くの情報を得ることに人々の意識が向けられていました。しかし、近年そのような多量の情報の洪水に対して、情報を減らし、絞るという考え方が出て来ました。情報が多いと、それに向けられる注意が減るからです。情報で社会が作られ、大衆の考えも情報で操作されてしまうと言われます。
 血なまぐさい事件や悪い情報にさらされることに関して、私たちはよくよく注意しなければなりません。あまりに暗い悪い世を疎んじ、信仰に生きる意欲が失われかねません。神の民のように、神様に文句を抱くようになるかもしれません。かつて情報は、送り手と受け手のやりとりと考えられていましたが、最近は、情報も摂取することで血や肉、知識に変わって行くと考えられています。
 ですから、私たちは、世の情報を注意して受け入れ、それ以上に御言葉を摂取しなければなりません。御言葉を守り努める者に、平安が約束されています。16節。どんなに強い敵が押し寄せて来たとしても、堅固な城の中で十分な食料と水が確保されていれば、滅ぼされることはありません。御言葉を摂取して生きることほど、堅固な生き方はありません。患難が押し寄せて来たとしても、守られ、主の慰めと励ましがあるからです。

V−この方が私たちを救われる−17〜24
 神様の救いは偉大です。17節。やがて強大なアッシリアが滅ぶのを見て、神様がどれほど偉大な王、麗しい王であるか悟るようになります。事実、神様の救いは、聖徒たちの困難が大きければ大きいほど、私たちに主があらわれるようになるからです。人の問題は、単純な患難や痛みにあるのではありません。人の根本的な病は、神様との間違った関係にあります。
 エルサレムの人々の痛み、苦しみはアッシリアによるものでした。18節。これは、アッシリアによって過酷な税金を取られたことを表しています。アッシリアの支配は、強圧的であり、酷いものでした。支配者の言葉による命令がわからず、酷い目に会いました。19節。でも、神様の救いがなされ、アッシリアが一掃される時が来るのです。アッシリア的な人々に痛めつけられたとしても、やがて神様は、「もう横柄な民を見ない」ようにしてくださいます。主に「近くいる者」として、聞きましょう。
 神様の救いの中心は、福音です。福音には力があります。私たちが偉大な神様に立ち返って行くならば、どんなことが待っていますか。20節。祝祭の都、シオン、エルサレム」とは、恐ろしい戦いが終わり、平安の中で神様に感謝の礼拝をささげる聖徒たちの姿です。神を信頼する信仰によって守られ、勝利して、平安を得るとき、私たちは心から感謝の礼拝をささげます。そのような恵みと祝福を感謝し、賛美する礼拝を祝祭と言います。私たちのささげたい礼拝も、祭典的礼拝です。
 今私たちが出会っている困難は、私の困難ではなくて、神様の取り扱うものとしてもらうのです。人々との葛藤も、仕事の困難も、自分で全部負うことではなく、神様に委ねなさいということです。まず、祈って委ねます。御言葉に素直に従おうとします。少しずつ実践して行けばいいのです。そして、自分一人で悩んだり、苦しんだりしないことです。とりなし祈ってもらうのです。
 世には、アッシリア的な姿があります。人の横暴や悪い事件が多いです。しかし、神様が三権すべてを取り扱っておられます。威厳のある主が私たちとともにおられ、主が私たちを治め、主が私たちの王となられ、この方が私たちを救われるのです。21〜22節。主に近くいる者となれば、その絶対的な支配の中で生き、悪い者から守られ、罪赦されて、主の栄光をあらわしながら生きることができます。23〜24節。もしあなたの心が主から遠いならば、すぐに立ち返り、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうでありませんか。ヘブル4:16。



イザヤ
33:13 遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」
33:14 罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」
33:15 正義を行う者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、
33:16 このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。
33:17 あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。
33:18 あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。「数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。」
33:19 あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。
33:20 私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。
33:21 しかも、そこには威厳のある【主】が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。
33:22 まことに、【主】は私たちをさばく方、【主】は私たちの立法者、【主】は私たちの王、この方が私たちを救われる。
33:23 あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足のなえた者も獲物をかすめる。
33:24 そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。



ルカ18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

エペソ2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

ヘブル4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

詩篇24:3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
24:4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

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