2015年8月2日「神の忍耐のうちに」イザヤ34:1〜35:10

序−アッシリアの滅亡が示されて、ユダの民は落ち着きますが、そこへバビロンが代わって登場して来ます。神様の御心を求める預言者が祈ると、神様が教えてくださったのは、やがて起こる全世界的な裁きでした。どう受け止めればいいのでしょうか。

T−国々に対する裁き 神の忍耐のある間に−34:1〜17
 今度のメッセージは、ユダの民に対してだけではありません。非常に大事なメッセージを聞くようにと、諸国民に呼びかけています。1節。大々的患難が、ユダの民だけでなく、諸国の人々にも及ぶというのです。やがて全世界に裁きが臨むというのです。2〜4節。世には悪がはびこり、人々は相争い、国々は戦い、神に敵対し、自ら滅びに向かって行くような姿です。世の民ばかりか、神の民までも、神様の御旨からしばしば離れていたのです。裁きは、罪に対する聖なる神様の怒りです。罪の結果が滅びだからです。ローマ6:23。
 現代社会も、人々から愛や思いやる心が消え、自制心をなくし、肉と心の望むままを行っているようです。国々もことさらに中傷し、わざと敵対しているような有様です。エペソ2:3。終末の裁きが近づいているかのようです。マタイ24:7〜8。このようなメッセージを聞く時、人々は何をする必要があるのでしょうか。人々の罪に対する神の忍耐を思わなくてはなりません。ローマ3:25。これまでの罪の姿を神様が忍耐をもって見のがして来られただけなのです。人のすべきことは、神様の忍耐を軽んじるのをやめて、悔い改めて、立ち返ることです。
 危機が訪れ、患難が近づいても、神様を軽んじ、悔い改めることのなかった人々としてエドムを取り上げられています。5節。なぜ、エドムを取り上げたのでしょうか。そもそも、エドム人は、イスラエル人と最も近い関係にありました。イスラエルの先祖ヤコブの兄エサウから出た民族でした。しかし、信仰の民から良い影響を一つも受けることができないで、憎しみと妬みをもって痛めつけ、聖いことには反発していました。エドムは、農業牧畜が盛んであったばかりでなく、交通の要衝にあって商業貿易も栄えていました。そのために大変おごり高ぶっていました。そのような人々の代表としてエドムが取り上げられています。神様は、そういう国や民であっても、神の民のそばに置き、信仰の影響を受け、立ち返って救いを求めて来ることを忍耐しておられました。
 しかし、やがて「主の復讐の日」が来ます。8節。神様に敵対する勢力は滅ぼされるというのです。6〜7節。エドム人は、家畜を自慢していましたが、その家畜が戦争で死んでしまい、滅んでしまいます。そうして、人も家畜もいなくなった所に野性の動物が住みつき、雑草が繁茂するようになります。9〜15節。もう再建されることがないということです。神様が忍耐されても立ち返らなかった彼らは、結局滅びてしまいます。これが、聖書の教える歴史観です。「主の書物を調べて読め」と言っています。16節。つまり、時代が変わっても、国々が隆盛衰退を繰り返しても、御言葉の真理は変わることがありません。マタイ5:18。
 私たちクリスチャンは、この御言葉の真理に立っています。揺れ動いてはいけません。騙されないでください。時代がどんなに変わっても、世がどんなに混乱しても、御言葉はすたれることがありません。私たちが小さな存在でも、私たちの信仰を通して世に影響力を与え、人々を、世を変えることを主は期待されるのです。周りの人々が福音を聞き、創造主に立ち返るように、祈り、努めることが私たちのすることです。せっかく福音の近くにいながら滅んでしまったエドムを新たに生み出してはなりません。

U−救い主の到来、荒廃からの回復−35:1〜
 裁きの預言の後には、祝福の約束が続いています。神様は、訳もなく私たちを患難にあわせることはなさいません。1〜2節。日照りで植物が枯れ果てた地に恵みの雨が降り注いだら、地は潤い、植物は一斉に芽を出し、花を咲かせるようになります。それを見る人々の喜びはいかばかりでしょうか。それまで、心が荒廃し、憂うつで苦しんでいた人も、救い主が自分の人生に来てくださったならば、この表現のように渇いた心が潤い、喜ぶようになります。もし、試練に苦しめられている神の民が、そのような救いの希望を知ることがなければ、いつまでこんな状態なのか、何のために苦しんで生きるのかと嘆くままです。
 しかし、救い主の来られるメッセージが、神の民に慰めを与えます。神様は私たちを良く知っておられ、私たちを救うためにことを進めておられるのだ、という知らせは、どんなに大きな喜びと慰めとなることでしょうか。人間にとって最も深刻な問題は何でしょう。長い間神様を知ることがなく、神様の恵みを受けることができないことです。苦しい状況がずっと続くと思いこんでいることです。人が変わるのは、人自身の努力ではなくて、神様の一方的な恵みによります。私たちにも御霊が注がれ、満たされてなければなりません。そうすれば、「主の栄光、私たちの神の威光を見る」ことになります。救いの恵みを体験するようになります。
 私たちは、試練に会うことで恐れや不安におそわれます。心が痛み、なえてしまいます。そんな恐れと不安の中にいる神の民を「強くあれ、恐れるな」励ましています。3〜4節。救い主が来られれば、ひとりひとりに驚くばかりの変化が訪れます。罪の赦しと御霊の注ぎを受けて、荒廃していた心と人生が潤い、たましいが生き返るようになります。ですから、私たちの人生の中で、神様を知る、救い主イエス様に出会うということより、もっと偉大なことはありません。
 「心騒ぐ者」とは、信仰の力を頭では知っていても、試練に揺さぶられ、私の人生は荒廃したままだ、変化など困難だと思い込んでいる人です。私たちは、自分の力では何もできない者だとよく知っています。クリスチャンは、祈りの答えがない時、最も憂うつになり、恐れます。しかし、時が至れば、祈りの答えがあらわれ始めます。約束通り、変化が訪れます。私たちに力が与えられ、現状の変化に取り組ませるようになります。
 イエス様が来られる時、障害のある者たちが癒されると言っています。5〜6節。聖書には、イエス様に出会って、病が癒される例があります。霊的な障害である場合なら、イエス様の救いに与ることによって、心変えられ、思いが変えられ、内側から癒しが始まります。生き方が変わり、肉体にも変化が生じて来ます。ですから、イエス様は、肉体の癒しに先立ち、罪の赦しを行われたのです。マタイ9:2,9。さらには、イエス様のみもとに来るならば、祝福を体験するようになります。たましいが潤され、体が癒されるだけでなく、環境の治療も行われるようになります。荒廃した環境が回復して来ます。6〜7節。

V−贖われた者たちは帰って来る−35:8〜10
 自然の荒廃が回復され、心と体の癒しに加えて、霊的祝福が与えられます。8節。荒野や砂漠の特徴の一つに、道がないことがあります。だから迷うわけです。荒れた人生、渇いたたましいは、進むべき道を失っているから迷い、進むべき道が分からないので苦しいのです。しかし、イエス様を信じて、救われた者は、御言葉の示されて道を進むことができます。「大路」なので、迷うことはありません。私たちが人生を生きて行く中で、多くの困難や病、心苦しめる事件が起こります。そのような時、神様の御言葉を聞いて、助けを受けることより尊いことはありません。
 今日多くの人々が人生の道を失い、あっちの道こっちの道とさまよい、あれこれと行ってみます。どれが正しい道か探すためです。私たちは、思うようになることが大きな道を進んでいることではありません。御言葉に導かれて、御霊とともに人生を歩めることが、「大路」を歩むことです。私たちが世に生きている中で重要なことは、救われて神様の御前に出て行くことです。そのような道を行く資格を何と言っていますか。9〜10節。「主に贖われた者たち」の「贖う」とは、代価を払って買い取ることです。私たちの命のために、その代価としてイエス様の血が十字架で流されました。イエス様の十字架を通らないで、その道に入ることはできません。ヨハネ14:6。罪の赦しを受けていなければ、「汚れた者」です。
 「そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず」とは、救いを受けたなら、どんなことがあっても、恵みは奪われることがないということです。ジョン・バンヤンの天路歴程に天国へ旅するクリスチャンが、二匹のライオンが道に横たわっているのを見て、恐れて進めないでいる時、だれかがよく見ればライオンは鎖につながれて教えてくれました。
 人生を歩む時、私たちを驚かし、恐れさせることが多くあります。しかし、霊的に見れば、恐れ驚くことではないことが分かります。そして、困難の中でも、神様は「楽しみと喜び」をくださり、「悲しみと嘆き」を取り去ってくださいます。神様と一緒にいるために、祈りの応答も与えられます。イエス様がすでに世に来てくださいました。私たちの人生に来てくださいました。イエス様を信じて、天国への道を歩んでください。今は恵みの時、今は救いの日です。Uコリント6:2。預言通り、救い主が来られました。誰であろうとイエス様を信じて、その御名を呼ぶ者は救われます。ローマ10:13。主の御霊が私たちに臨めば、渇いた心、傷ついたたたましいが癒され、荒廃した人生に喜びと感謝が回復します。10節。


イスラエルの人々が神様の戒めを受けていた時に、最も神の民を苦しめたのが、このエドムであったからです。神の民から地理的にも福音に最も近い民であったのに、救いに関心がなく、物質的な貪欲に囚われ、自身満々の人々でした。
やがてイエス様が来られることで、この世に起こる変化を予言しています。



イザヤ34:1 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。
34:2 【主】がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。
34:3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。
34:4 天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。
34:5 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。
34:6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。【主】がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
34:7 野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。
34:8 それは【主】の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。
34:9 エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。
34:10 それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。
34:11 ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。
34:12 そのおもだった人たちのうち、王権を宣言する者が、だれもそこにはいない。すべての首長たちもいなくなる。
34:13 そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。
34:14 荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこにはこうもりもいこい、自分の休み場を見つける。
34:15 蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして、自分の陰に集める。とびもそれぞれ自分の連れ合いとそこに集まる。
34:16 【主】の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、【主】の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
34:17 主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。

35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。
35:3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
35:5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。
35:7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
35:10 【主】に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。



ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ローマ3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
Uコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

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