2015年8月9日「やる気を失わせる言葉の攻撃」イザヤ36:1〜12

序−今日の箇所は、アッシリアの攻撃を扱っています。しかし、武器での攻撃ではなく、言葉による攻撃です。私たちも、しばしば言葉による攻撃を受けることがあります。特に信仰のやる気を失わせるような攻撃は、辛いし、苦しみます。神の民はどう受け止め、対処したのでしょうか。

T−引き入れられた患難−1〜3
 ヒゼキヤ王の時、アッシリアは大軍を送って来ました。1節。そもそも、父アハズ王時代、アラムと北イスラエルに攻められた時、信仰的でなかったアハズ王は、金、銀をアッシリア帝国にあげて、二つの国を攻撃してくれるように頼みました。その結果、アッシリアは二つの国を攻め滅ぼしましたが、ユダまで攻撃し始めました。ユダがアッシリアを引き入れてしまったのです。U列王16:7〜9。
 まず、アッシリア王セナケリブは、周りの町々を攻め取りました。そして、本営のラキシュからラブ・シャケをエルサレムに遣わして、降伏交渉をさせることにしました。2〜3節,U列王18:14〜15。ラブ・シャケとは、献酌官という意味ですから、王の側近ということです。ヒゼキヤ王は、父アハズ王とは違い、大変信仰的な王で、主に信頼し、御言葉に従って生きようとしていました。実際に、多くの偶像を取り除き、宗教改革をした王でした。U列王18:3〜5。「ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」と言われたヒゼキヤは、自分の失敗でない先王の失敗のために、今災難を受けています。
 彼の胸中にどんな思いが去来していたのでしょうか。「この災難は、まったく父の誤りが招いたものだ。私は、ずっと御言葉に純粋に従おうと努力してきたのに、その結果がこれなのか」と落胆し易い、恨みたいところです。私たちも、自分は信仰に忠実に歩もうとしているのに、周りの人のせいで苦難に会うこともあるでしょう。「私はイエス様を信じて、御言葉に生きようとしているのに、人のせいで、こんな状態になるなんて!」と心がしおれ、やる気を失いそうになるかもしれません。
 このような状況において、ヒゼキヤにとって心しおれない糸口となるものは、何でしょうか。その会見の場所は、以前イザヤが、アッシリアを恐れて動揺していたアハズ王に神様の御言葉を伝えて、励ました所です。イザヤ7:3〜4。つまり、どんなに絶望状態になったとしても、その場において、預言者を通して神様の御言葉を聞けという意味です。ヒゼキヤ王は、心萎えて、信仰のやる気を失いそうになった時、神様に立ち返りました。御言葉に問題の答えがあります。御言葉に聞くなら、解決があります。

U−何に拠り頼んでいるのか−4〜7
 アッシリヤ王からラブ・シャケがエルサレムに遣わされたのは、ユダを脅かし、あざけって降参させるためでした。時間とコストを省こうとしたのです。これは、人がやっとのことで事をなそうとしている時、その人が持っている弱点や問題点を暴いて、責めて、あざけり、その結果、やる気を失わせ、その人自身が自暴自棄になって倒れるようにさせるやり方です。
 ラブ・シャケの主題は、「拠り頼む」ことについてです。文字通り「おまえは何に拠り頼んでいるのか」ということです。5回も繰り返されています。これは、神の民自身の主題です。彼は、ユダが拠り頼む二つの点について、攻撃しています。一つは、エジプトの助けにならないぞ、ということです。4〜6節。言われた通りの金銀を差し出したのに、なぜアッシリアは攻撃して来るのでしょうか。ヒゼキヤ王は、大変信仰的で、宗教改革を行ったくらいで、偶像崇拝を要求して来るアッシリアに対しては、反発していました。それで、指導層の一部は、反アッシリア親エジプトを主張していたようです。それで、攻めて来たのです。
 実際にユダは両方に朝貢していたのでしょう。そういうことで「口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいる」と追求しているのです。エジプトを「いたんだ葦の杖」と酷評しています。川辺に生えている葦では、とても杖にはできません。それでも切り口で手を切ることがあります。頼りになんかとてもならない、怪我するだけだと言って嘲っています。レトリックを駆使して、ユダの弱った心をさらにしおれさせるのです。
 ユダの指導者層の親エジプト派に、自分たちの考えが間違っていたと思わせるのを目的としていたのです。神の民のやる気をそぎ、信仰に生きようとする思いをしおれさせようとする彼のあざけりは、とても上手です。おそらくラブ・シャケは講和交渉のプロなのでしょう。しかし、その背後には、騙す者と言われるサタンが働いています。人の信仰のやる気を失わせようとするサタンが教えているからです。誰かが自分のやる気を失わせるようなことを言っていたら、サタンが働いていると思って、主に心を向け、御言葉に聞きましょう。
 彼は、ヒゼキヤ王の宗教改革までもあざけりの材料としています。7節。どうしてこんなことを言っているのでしょうか。ヒゼキヤが、宗教改革によって偶像をみな片付けてしまったので、こうなっているのだ、ヒゼキヤのせいだ、と民に思わせようとしました。アッシリアは、偶像を拝む祭壇が多ければ多いほどご利益が増えると考えていたからです。でも、神の民にはどうでしょうか。おかしいですね。
 私たちは、他の人から攻撃を受けることがあります。その時その言葉があまりにも妥当で、強いために、その言葉のままにしおれて、やる気を失い、絶望してしまいます。その時、私のために十字架にかかられイエス様に救われたことを思い出すと、ふと我に返り、「ああ、今騙されていたんだな。そんな話はでたらめだ」と悟るようになります。

V−あざけりに対するには、主に拠り頼むこと−8〜12
 ラブ・シャケのあざけりはエスカレートして、ユダの人々が無能だとますますあざけっています。8節。古代の戦争で重要な馬が、アッシリア軍には多くいて、すぐに2千頭は用意できるくらいでした。一方、ユダには、馬もいなければ、乗る人もいないとあざけるのです。他の国であれば、とっくに降伏しているのに、どうしてお前たちは、何を頼りにこのように持ちこたえているのだ、という意味です。
 事実、主なる神を知らない人々には、苦難に耐える神の民を見て、理解ができないのです。誰も助けてくれないとしても、神の民は信仰者としての自尊心を捨てません。それは、聖徒たちには、神様に対する望みがあるからです。終わりまで奇跡を信じます。スポーツを点差があっても最後まで期待して見るのに、神様のなさることを最後まで見ないのでしょうか。クリスチャンの醍醐味は、ここにあります。可能性がないと人が見る時、そこから神様の可能性が始まります。
 ユダをあざけることで調子に乗ったラブ・シャケは、とんでもないことまで言い出します。9〜10節。ユダの王がアッシリアの司令官一人より劣るのは、確かです。エジプトの軍隊があてにならないことも歴史が証明しています。やがて、アッシリヤは、エジプトまで打ち破り、広大な帝国を築くことになります。しかし、ここでユダを打つことが主なる神様の御心だ、そのために我々アッシリアが出て来たのだというのです。そう言って、神の民の心をなえさせ、失望させようとしています。
 信仰のないラブ・シャケに、主なる神様の御心を言う資格はありません。かりにユダをアッシリアによって戒めることが神様の御心だとしても、それは預言者を通して、神様が教えます。ラブ・シャケは、自分が言うことが嘘であることをさらけ出したかっこうになりました。ヨブ11:2〜3。人が私たちの信仰のやる気を失わせようとあざけるならば、そういう姿を見せることになります。信仰の耳で聞けば、揺さぶられることはありません。どんなに妥当に聞こえても、あざけりにはほころびがあります。
 そのようなラブ・シャケに対して、ユダ側の代表は、ユダのことばで話さないで、エルサレム住民に聞かれては困るので、アッシリアのアラム語で言ってくれと頼んでいます。11節。これは、自ら弱みを見せている愚かな行為と言うほかありません。ラブ・シャケの思う壺です。住民に聞こえるように大きな声で、住民を脅かします。12節。しかし、神の民をあざける最も恥辱的な表現も、それを聞いた住民は、自分たちの置かれている現実を悟るようになります。
 私たちも周りからあざけりを聞く時、自分勝手な行動を悟るようになります。あざけりだとしても、的確なことを言っていれば、謙遜に聞いて、自分を整えることも必要です。しかし、人のあざけり、人々が攻撃する言葉は、真実より大げさに、やる気を失わせようと言っています。サタンが人のあざけりを通して私たちを騙そうとしています。心にためてはいけません。その言葉自体が毒だからです。イエス様がサタンの試みを受けられ、御言葉をもって退けられたのは、私たちのためです。マタイ4:1〜11。
 私たちは、私たちを無気力にさせる毒をどれほど聞いているでしょうか。神様の御前に出て、祈ることです。失敗や過ちは謙遜に聞いて、毒のあるあざけりを心で反芻してはいけません。大事なことは、中途半端ではなくて、徹底して神様に拠り頼むことです。信仰の勝利があります。よく聞くならば、ラブ・シャケは、あざけりの中で、「おまえは何に拠り頼んでいるのか」と問いかけ、「おまえは私に『主に拠り頼む』と言っていた」と思い出させています。神様はすごいお方です。ヘブル11:6。



イザヤ
36:1 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
36:2 アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。
36:3 そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。
36:4 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。
36:5 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。
36:6 おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。
36:7 おまえは私に『われわれは、われわれの神、【主】に拠り頼む』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『この祭壇の前で拝め』と言ったそういう主ではないか、と。
36:8 さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。
36:9 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。
36:10 今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、【主】をさしおいてのことであろうか。【主】が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ。」
36:11 エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」
36:12 すると、ラブ・シャケは言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」
  


U列王18:1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。
18:2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。
18:3 彼はすべて父祖ダビデが行ったとおりに、【主】の目にかなうことを行った。
18:4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。
18:5 彼はイスラエルの神、【主】に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。

ヨブ11:2 ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。
11:3 あなたのおしゃべりは人を黙らせる。あなたはあざけるが、だれもあなたを恥じさせる者がない。


イザヤ7:3 そこで【主】はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、
7:4 そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。


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