2015年8月23日「苦難と、懲らしめと、侮辱の中で」イザヤ37:1-20

序−悲しみ、苦しむ時、私たちが行うことは何でしょう。人をうらむこと?
不運をのろうこと?自暴自棄になること?私たちが苦境にある時、どこに心を向けますか。何をすることができますか。アッシリヤの大軍に攻撃され、あざけりと脅かしに直面したヒゼキヤ王の姿から学びます。

T−苦難と、懲らしめと、侮辱の日に−1〜4
 アッシリヤの大軍がエルサレムを囲み、ユダの王ヒゼキヤは大きな困難に直面していました。アッシリヤは、ユダを散々にあざけり、ヒゼキヤを悪く言って、早く降伏させようとしました。それに対するヒゼキヤ王の反応はどうですか。1節。「衣を裂く」とは、強い悲しみや憤りを表したものです。どうしようもない状況で辛くて仕方がない心です。困難から民を助けることの出来ない自分を嘆き、滅びるしかない民のことを憂えています。家庭や職場の問題で悩み、人間関係に苦しむ時、自分の弱さを認めていいのです。自分が強いふりをする必要はありません。
 ただその時、嘆いたり、怒ったりするだけなら、私たちの心はサタンの調略に落ちます。神様は思い通りにしてくれないと神様から心が離れたり、あいつのせいだと人を恨んだり、もうだめだと自暴自棄になったりするでしょう。それは、自分がイエス様に救われた者だ、神様に愛されている者だということをすっかり忘れている姿です。ヨハネ3:16, ローマ8:32。ヒゼキヤ王は、衣を裂いた後、何をしていますか。大事なことは、「主の宮に入った」ことです。苦しむ者は、主に祈るのです。
 私たちが悲しみ、苦しむ時すべきことは、「あわれみを受け、助けを受けるために、大胆に恵みの御座」に出ることです。ヘブル4:16。何もかも失っても、これだけあれば、私たちは立ち上がることができます。ですから、ラブシャケのあざけりの狙いは、神の民が神様に拠り頼まないようにさせることでした。信仰を失わせ、神様から引き離すことでした。
 そして、主の宮に入ったヒゼキヤ王は、何をしていますか。2節。預言者イザヤに高官たちを遣わしています。なぜ、このような状況で、武器も軍隊もない預言者に人を送っているのでしょうか。預言者とは、御言葉を伝える人ですから、神様の御心を聞こうとしているということです。私たちにすれば、御言葉に聞くということです。
この時、ヒゼキヤはエルサレムと自分の状態を伝えています。3〜4節。「苦難と、懲らしめと、侮辱の日」と表現しています。今、自分にいいことはまったくない、ただ苦難と絶望、あざけりと侮辱だけがあるというのです。「子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がない」と辛く苦しい状況を表現しています。徹底して自分の弱さを主の前に表しています。神様は、私たちが自分の弱さ、罪、傷害、失敗、困難を告白して、真に神様を拠り頼むことを望んでおられます。
ここで、「懲らしめ」と言っていますが、神様からの懲らしめを考えて、悔い改めています。ヒゼキヤ王ほどの信仰の人でも、何か悔い改めることがあったのでしょう。民のせいだ、アッシリヤのせいだと言ってばかりにはいられません。信仰で歩んで来たヒゼキヤではあっても、民の不信仰のためにエルサレムが懲らしめを受けているなら、そのためにその民の王として赦しを祈っているのです。私たちも、家族や友人や職場の人のために、そのように祈りたいですね。

U−苦難と侮辱の日に与えられた御言葉−5〜7
 神様に拠り頼むヒゼキヤに幸いなのは、「苦難と侮辱の日に」神様の御言葉を聞くことができることです。私たちも御言葉に聞くことができます。神様が備えてくださった御言葉は何でしょう。6〜7節。何と言う祝福でしょうか。どれほどヒゼキヤの痛んだ心を癒し、清々しくしてくれる御言葉でしょうか。これより喜びを与える言葉はないでしょう。
 私たちはイエス・キリストの血で救われた者です。私たちの救いのために神の御子イエス様が身代わりに十字架にかかられたのです。創造主なる神様が自分の神、自分の味方なのです。ローマ8:31。逆に、神が義としてくださった者を攻める者を神様が裁かれないでしょうか。イエス様に救われた、十字架の血によって義とされたということが重要です。救われることは、イエス様の十字架の死が私の罪と滅びの身代わりだと信じるだけで簡単ですが、救いの恵みは適当ではありません。救った者を守り導き、祝福するという神様の約束は変わりません。
 世を蹂躙したアッシリヤ王を打ち倒すのに、神様は大軍を要しません。「彼のうちに一つの霊を入れる」と言われています。「ある思いを入れた」ということです。他の国が自分たちを攻めようとしているという思いです。すぐにも本国へ戻るようになるのです。アッシリヤ軍がどれほど強いとしても、主の前には籾殻のようであり、風に飛ばされるものにすぎません。詩篇1:4。そして、本国へ戻った後、剣で殺されるというのです。
 これが、主なる神様の御業です。ですから、私たちの頭の中だけで決め付けないことです。もうだめだ、他に道がないと思わないことです。主の前に助けを求めるクリスチャンも、自分を苦しめた上司が突然異動した、辛く当たって来る人の態度が変わった、どうにもならないと思った事情が動き出した、いつの間にか病が好転していた等々を経験します。御言葉に聞きましょう。御言葉から励ましと望みを与えられます。エレミヤ29:11。思いもよらないことを発見します。悲しみ、苦しむことに意味があったことに気付かされます。詩篇119:71。

V−脅かしとヒゼキヤ王の祈り−8〜13,14〜20
 その後急にエルサレムを囲んでいたラブシャケは退いて行きました。アッシリヤ王セナケリブが、クシュ、すなわちエジプトが攻めて来ると聞いて、移動したからです。8〜9節。クシュの王ティルハカがついに動き出したという情報を得ました。そのままエルサレムを囲んでいたら、後ろからエジプト軍に攻められることになります。そこで、セナケリブ王は、再び、ユダに使者を送って、降伏を迫ります。9〜11節。
 降伏を迫る文書は、ヒゼキヤ王へのあざけりと脅かしに満ちています。神様への信頼から引き離し、目の前の困難で絶望させようとする調略です。これに対する態度は、恐れたり、動揺して騒ぐことではありません。主を固く信頼して、信仰によって一致することが重要です。クリスチャンが一致して、団結して、神様に拠り頼んでいるなら、どんな敵も勝つことはできません。信仰の敵サタンは、そのことをよく知っています。信仰で一致していれば、どんなに世で生きにくくても、状況が絶望的であっても、サタンは試みることができません。
 私たちも、しばしば困難の中であざけりを受けることになるでしょう。その時、妬まれるほどに徹底的に主に拠り頼むことです。そうすれば、だれでももう脅かしてもだめだ、信仰をなくさせることはできないと認め、クリスチャンの信仰心をくじくことはできないと分かるようになります。世の人々は、そのような主を固く信じている人を妬み、嫌いますが、一方ではそのような信仰の人を尊敬するようになります。
 その降伏を迫る文書を受け取ったヒゼキヤは、どうしたでしょう。14〜17節。「主の宮に上って行って、それを主の前に広げて」祈りました。こういう信仰って、いいなと思います。主の前に大胆に出て行っています。ヒゼキヤ王にとって神様はとても実際的な方なのです。「敵はこんな手紙を書いて来ました。読んでください。こんなに酷くあざけり、侮辱していますよ」と神様に訴える、実に生き生きとした信仰です。詩篇3:1〜4。彼にとって、神様は目の前におられて、生きておられて、自分の訴えを聞いて、手紙を読んで、応えてくださるお方なのです。
 このような祈りをされていますか。私たちは、ヒゼキヤの祈りから学ばなければなりません。いくつか特徴を見てみましょう。まず、苦難をなくしてくれ、ばかりの祈りをしていないということです。彼は、何よりも神様がこのすべてのことを見て、聞いておられる方だと知っています。彼が尋ねているのは、神様はこのようにのさばっている悪者をどうされるのですか、ということです。17節。自分勝手に戦うのではなく、神様の作戦指導に従って私も動きますと言っているのです。
 また、自分の信仰を告白しています。16節。唯一の神、万軍の主を褒め称えています。自分の信じている神は、天地を造られ、統べ治めておられる主だと表しています。神様は、私たちが悲しみ、苦しむ時、真実な信仰の告白を聞きたいと願われます。困難を通して神様を新しく発見することを求めておられます。これが、苦難の中で与えられる信仰の実です。
 そして、神様の栄光のために私たちを勝たせてください、と祈っていることが特徴です。20節。ヒゼキヤは自分たちが滅びることをよしとしても、それによって悪者が神様を永遠にあざけることがあってはならないと言います。自分たちが勝利することで神様の栄光が悪者たちにも分かるようにしてくださいと祈るのです。何と偉大な祈りでしょうか。ご利益信仰なんてふっとんでしまいます。自分の思う通りにしてくれないと不機嫌になっている姿が恥ずかしくなります。自分の中にあるすべての高慢や嘘、我がままや自分勝手が何と自分を危うくさせているか分からせてくれます。
 苦難と、懲らしめと、侮辱の日に、私たちからもこのような信頼の祈り、偉大な祈りが出て来るように願います。使徒4:29〜30。



イザヤ
37:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、【主】の宮に入った。
37:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。
37:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。
37:4 おそらく、あなたの神、【主】は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、【主】は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」
37:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
37:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。【主】はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。
37:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」
37:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリヤの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いたからである。
37:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「彼はあなたと戦うために出て来ている」と聞いた。彼はそれを聞くと、使者たちをヒゼキヤに送って言った。
37:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。
37:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。
37:12 私の先祖たちはゴザン、ハラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々が彼らを救い出したのか。
37:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」
37:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、【主】の宮に上って行って、それを【主】の前に広げた。
37:15 ヒゼキヤは【主】に祈って言った。
37:16 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の【主】よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。
37:17 【主】よ。御耳を傾けて聞いてください。【主】よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。
37:18 【主】よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。
37:19 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。
37:20 私たちの神、【主】よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが【主】であることを知りましょう。」




ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
ヤコブ5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

ヘブル4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

詩篇3:1 【主】よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。 セラ
3:3 しかし、【主】よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、【主】に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。 セラ

使徒4:29 主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
4:30 御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

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