2015年9月6日「患難が続く中で」イザヤ38:1〜8

序−何か問題を抱えているところに、別な患難が加わって来るということがあります。それはあまりにも厳しい辛い状況です。ヒゼキヤ王が、アッシリヤの脅威に対峙していた時のこと、ヒゼキヤ王自身に大きな患難が加わっていました。そのような状況でヒゼキヤ王はどうしたのでしょう。どうなったのでしょう。

T−患難に患難が迫る時に、慟哭して祈るヒゼキヤ−1〜3
 38,39章は、色々な理由から36,37章の前に起きたことのようです。アッシリヤが大軍をもってユダに進入して来たという大きな患難の時、ヒゼキヤ王は、個人としても、患難と向き合っていました。それは、自分自身の重い病気でした。敵の大軍に加え、自分の病気です。難しい仕事を負いながら体調も悪くなっている、経済的苦しさを抱えているのに家族に問題が起こったというような時、私たちはどうなるでしょうか。苦難に苦難が重なるなら、私たちはどうするのでしょうか。
 ヒゼキヤ王は、早く回復して、民を励まし、戦おうとしていたのでしょうが、預言者を通して、病床のヒゼキヤに聞かされたことは、ヒゼキヤを絶望させるような知らせでした。1節。ヒゼキヤ王は、不信仰な民を戒め、民の信仰を回復させました。アッシリヤの大軍が押し寄せて来ましたが、病を押してアッシリヤに対しようとしているところです。そこに、死が近づいているから身辺整理をしなさい、という神様からの知らせを受けたのです。今やヒゼキヤ王の状況は、完全に自暴自棄に陥るものでした。
 最も絶望的な状況で、ヒゼキヤ王ができることが何かあるのでしょうか。すべてを放棄して、その時が来るのを待つだけなのでしょうか。嘆いて神様に怒りをぶつけることでしょうか。しかし、信仰の人ヒゼキヤは、そうではありませんでした。主に祈りました。2節。「顔を壁に向けて」というヒゼキヤの姿に、彼の思いがあらわれています。もう何か他のものをあてにしていません。ただ、主だけに心を向け、神様だけにしがみついて、一心不乱に祈っている姿です。詩篇6:6。
 ヒゼキヤは、神様の御前に大声で泣きながら祈りました。ただ泣くというより、痛哭や慟哭という激しい泣き方です。死の恐れや悲しみで、こんなに激しく泣いているのではありません。死の恐れもあったでしょうが、主に仕えることができない、王として働けないので嘆きました。状況は、王として主に仕えて主の働きにまい進していた時です。心を尽くして、国を守ろうとしている最中です。残念でならない、道半ばという思いでいっぱいだったでしょう。今自分がいなくなったら、ユダの民はどうなるか。混乱は必至です。そういう思いが、彼を慟哭させたのです。
 人が泣くことは重要です。対面を取り繕うとしていると、神様の前に泣くことをしないかもしれませんが、神様の前でこそ泣いて、大いに心の中を聞いてもらうことが必要です。父なる神様に子どもように祈っています。イエス様を信じて救われた私たちは、神の子どもとされています。ヨハネ12:1。ヒゼキヤ王は、何を祈ったのでしょうか。3節。誤解しないでください。ヒゼキヤは、自分がこれまで多くのことをして来たので、神様に要求する資格があるということではありません。自分が信仰でしっかりやって来たのだから、癒してくれと言っているのでもありません。
 ただ、「主よ、哀れんでください。再び立ち上がって、主の働きをさせてください。もう一度私に機会を与えてください。召される時まで続けて忠実に仕えさせてください」と祈ったのです。人は、そのような時どんな祈りをするでしょうか。ヒゼキヤは、「寿命を延してください」などとは祈っていないのです。彼は、イザヤの告げるのを聞いて、「神様の御心なのか。そうであるならば、私に命の日のある限り、何をすべきだろう」と考えたのです。詩篇104:33。
 信仰の人でも、なぜこんなことが次々起こるのかと考え、誰かのせいだとうらんだり、怒って神様に背を向けたりします。それよりも、このことが何をもたらすか、今何をすべきかを考えるのです。それがあって、すでに学んだあの信仰の人ヒゼキヤ王につながっているわけです。

U−祈りに対する神様の驚くべき応答、二つの応え−4〜6
 神様は、そのヒゼキヤの慟哭の祈りへに応答してくださいました。4〜6節。主は、ヒゼキヤがもう15年生きるようにしてくださいました。信仰の祈りがどれほど力あるものか、私たちは知ることができます。
 ヒゼキヤの祈りを神様が聞いてくださった理由は、何でしょう。彼が、ただ神様だけ拠り頼んでいたからです。病気になって、人の生き死にを司られているのは、創造主なる神様だと悟って、神様だけに信頼したからです。ただ神様の前にありのままの自分をさらけ出し、涙を流しながら祈った時、神様はそれをご覧になられ、祈りに応えられたのです。神様がヒゼキヤに求められたのは、まさにこれです。神様がヒゼキヤを王として立てたのは、神様の御言葉に忠実に従って来るためでした。
 厳密に見ると、ヒゼキヤの祈りは、自分が神様に懸命に仕えて来たことを思い出してください、と言っているだけです。つまり、今この状況で召されるわけには行きません。民のために仕えてさせてくださいと要請したということです。ただ病気を癒してください、もっと生きるようにしてください、とは祈ってはいません。
 ですから、この15年はただ寿命が延びて喜ぶということではありません。これまで以上に神様に忠実に従って、信仰によって民を導き、主の栄光を表していきるための15年とならなければなりません。私たちの寿命も同じではないでしょうか。ただ長生きできればいいというものではありません。とりわけ、イエス様の十字架によって救われて新しい命を与えられている意味は何でしょう。Uコリント5:17。イエス様が私のうちに生きているというように、主の栄光をあらわしながら生きるのです。
 もはや自分の肉の思い中心に生きるのではなく、家族のため、友人や地域の人々のために生かされて行く、人々の救いと導きのために用いられて行くのです。ガラテヤ2:20。それぞれ置かれたところで、神様の業を担うために生かされているということを覚えたいのです。そう生きることを期待しておられる神の御心を忘れてはなりません。それがあれば、寿命の長い短いは関係がありません。信仰をもって神様の栄光をあらわして生きるかということにかかっています。ウエストミンスター小教理問答問い1。
 ですから、神様はヒゼキヤの祈りに応えられたのは、寿命を延してやることだけではありません。もう一つ約束があります。6節。アッシリヤの侵略から、ヒゼキヤとユダを救ってくださると約束してくださいました。事実は、すでに学んだように、アッシリヤの大軍に囲まれて、滅亡寸前まで行きました。しかし、この約束のゆえに、どんなことがあっても、ヒゼキヤは、神様を信頼し続け、拠り頼み続けたのだ、と理解できます。ユダの国と神の民を救うという神様の恵みは、ヒゼキヤの業績やその忠実な信仰によっていたのではなく、神の民とエルサレムを救おうされる神様の御心に基づいていたのです。U列王20:6,Uサムエル7:16。
 このような祈りに対する神様の応答を知ると、すごいなと思います。神様は、病だけいやされるのでなく、大きな困難からも救ってくださいます。ただ私たちが神様に拠り頼むことだけすれば、ならないことは何もないと言ってもよいくらいです。ですから、私たちは、神の国とその義、すなわち神様のご支配とイエス様の救いを祈るならば、後のことは神様の御心に委ねていいというのです。マタイ6:33。私たちは、祈ります。そうすれば、揺り動かされることはありません。神様は、私たちが手をこまねいて、眺めておられることを喜ばれません。

V−幼子のような信仰ゆえに、しるしまで−7〜8
 苦境のゆえに、神様は約束の言葉だけでなく、しるしまでくださいました。7~8節。これが奇跡か自然現象かを論じるより、なぜこのようなしるしまで与えられたのか考えましょう。今絶望的な状況ですが、ヒゼキヤは御言葉だけで信じることのできる信仰の人でした。にもかかわらず、神様がヒゼキヤに奇跡を見せてくださった理由は、彼の信仰が幼子のような信仰だからです。子どもように祈るヒゼキヤにしるしを与えられたのです。
 神様は、彼の父アハズ王に、北イスラエルとアラムが滅びるしるしを求めよと言われたのですが、アハズはしるしを求めようとしませんでした。イザヤ7:12。しるしを求めない方が信仰的なようですが、不信仰の王でした。ところが、ヒゼキヤは、神様からしるしを求めよと言われた時、躊躇することなく求めました。明らかに、不信仰の父アハズとヒゼキヤ王の信仰が比較されています。ここには、信仰か業か、神信頼か自分信頼かという危険な交差があります。ヒゼキヤの信仰は幼子のような信仰でした。神様が求めなさいと言えば、素直に求める信仰でした。マタイ7:7〜8。これこそ、神様が私たちにも求める信仰ではないでしょうか。
 この幼子のような信仰があったゆえに、ヒゼキヤはアッシリヤの侵攻と嘲りに耐えることができたのです。祈るならば、神様の前にならないことはありません。状況が困難であればあるほど、絶望的であればあるほど、もっと祈りましょう。神様は、イエス様の十字架の身代わりによって私たちを救ってくださり、私たちを神の子どもとしてくださったのですから、幼子のように祈れと言われました。マタイ7:9〜11。



イザヤ
38:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」
38:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、【主】に祈って、
38:3 言った。「ああ、【主】よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
38:4 そのとき、イザヤに次のような【主】のことばがあった。
38:5 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、【主】は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。
38:6 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』
38:7 これがあなたへの【主】からのしるしです。【主】は約束されたこのことを成就されます。
38:8 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。



詩篇6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。

マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
7:10 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

U列王20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。

マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

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