2015年9月13日「慟哭から感謝へ」イザヤ38:9〜22

序−この箇所は、ヒゼキヤ王が人生で最も苦しく悲惨な状態を経た時書いた証し文のようなものです。9節。ヒゼキヤが経験した絶望感と恐れ、その心情の変化、信仰の変化を書き残してくれました。ヒゼキヤの経験した信仰の変化は、すべての人に必要だからです。この真実な信仰者の姿を見ることで、私たちも共感し、慰めと励ましを受けることができます。

T−ヒゼキヤの慟哭、嘆き−9〜13
 まず、ヒゼキヤが死を覚悟した時のどんな思いになったかを記しています。10〜11節。民を導く責任を担っていたヒゼキヤ王にとって、まだ道半ば、もう王の役目を担うことができない、人生が終わり働きも中断の思いが強かったのです。彼の使命は、信仰に立つ王として、民の信仰を回復し、国を再建することでした。ところが、その最中に働きを中止せざるを得なくなったのです。「生涯の半ばで、私の残りの年を失って」しまう、そういう残念な心情が表現されています。人は、何かをする意欲も大事ですが、神様から何かをする機会を与えられることがもっと重要です。
 残念な思いは、それに加えて、人々との関係も終わりだという思いも強かったのです。特に愛する人々をもうこれ以上見ることができないということが、最も心が痛むことでした。愛する人々と会って話しをして、一緒に食べて、ともに礼拝をささげるということができなくなる、そういう残念な心情に満ちています。信仰者にとって、愛する人々とともに礼拝をささげるということが、最も美しいことであり、貴重なことだからです。
 どういう立場であれ、担っている仕事や責任を途中で取り上げられ、道半ばで中断せざるをえないということは、人にとってとても残念なこと空しいことではないでしょうか。愛する人たちと一緒に礼拝することができない、交わりをすることができないことは、大きな痛みです。しかし、イエス様を信じる者には、イエス様の十字架と復活によって死が滅ぼされ、福音によって天国へのいのちが与えられます。Uテモテ1:10。
 その苦しみの中で、ヒゼキヤにとっても恐れがありました。心理的な恐れと痛みです。12節。今自分は神様から見捨てられているのではないかという恐れは、とても大きいです。「私の天幕を引き抜く、私のいのちを機織のように巻く」とは、主が人生をはかなく終えさせるのではないかということを意味しています。これまでの生活や働きが終わってしまう人生のもろさを感じています。今自分が死ねば、国もなくなるのではないかという恐れが生じていました。でも、私たちには、「地上の幕屋がこわれても、神の下さる天にある永遠の家があり」ます。Uコリント5:1。つまり、イエス様に救われた者は、天国へ続くいのちに生きているのですから、はかない人生ではありません。
 ヒゼキヤは、神様から見捨てられたと思った時、人生は空しい、働きも空しいと思ったのですが、神様にしっかり結びつき、神様に信頼して、委ねたなら、そうではなくなりました。私たちは、信仰の生涯を走り終えた使徒パウロの証しを思い出すべきです。Uテモテ4:7〜8。
 もう死んでしまう、何もかも終わりだと思ったヒゼキヤの苦しみ、絶望は大きいものでした。13節。あまりに辛くて耐えられず、悶々としながら眠ることができず、祈り続け、泣いて叫んで朝を迎えているという状況です。私たちも、こんな心境になる時が、人生の中ではあるものです。悶々としているだけでは耐えられません。もう祈るしかありません。私たちのために十字架にかかってくださったイエス様は、十字架にかかる前の晩、苦しみもだえながら祈られました。ルカ22:44。ああ、私の救い主イエス様は、私のために苦しみもだえて、祈られました。ですから、私たちも苦しみもだえながらイエス様に祈ります。

U−主に願う−14〜16
 神の民には、クリスチャンには、どんなに絶望的な状態になっても、何もできない何もないように見えても、あわれんでくださる神、愛してくださる主がおられます。ですから、ヒゼキヤは悲しみと絶望の中で、慟哭し主に祈り願いました。14節。呻いていても、気持ちが衰えても、主に心を向けています。自分ではどうにもならない、自分ではどうすることもできない。ただ、主に拠り頼みます。祈ることができるというのは、大変な恵み、特権です。「私の保証人となってください」と祈り願っています。
 イエス様は、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」悪い裁判官に裁判をしてもらおうと、しつこく訴えるやもめの話しをされました。ルカ18:1〜5。人の恐れない、神も恐れない裁判官でも、そのしつこい訴えを聞き入れてくれました。祈る気になれない、祈ったって無駄だなどと言って、祈らない人がいます。でも、苦しくて、空しくて、どうしようとないなら、私たちにできることは最後まで祈り、訴えることではないでしょうか。私の保証人となってくださいと祈り願います。
 実は、私たちには確かな弁護士がついています。Tヨハネ2;1。私たちの罪のために十字架にかかられたイエス様が私たちのためにとりなしておられます。ローマ8:34。どう祈ってよいか分からない私たちの祈りを御霊様がとりなしてくださるので、呻くだけでもいいのです。ローマ8:26。そうして行く中で、信仰が変わって行きます。絶望の信仰が、希望の信仰に変えられます。ヒゼキヤは、これまでも主が自分と共におられ、自分に語り、自分のために働かれておられたことを悟りました。15節。
 ここで重要なことは、「主が私に語り、主みずから行われた」こととは何かということです。神様の約束の御言葉と御業を悟るようになったということです。私たちが、主を信頼して、祈り願うと、御言葉が心の耳に響いて来ます。神様のこれまでの守りや導きを思い出します。詩篇107:19〜21。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た」と神様は、ヒゼキヤの祈りに応えられました。5節。ヒゼキヤは、今までの苦痛の人生とは違うものになりました。「たましいの苦しみのために、静かに歩みます」と変わりました。心が苦しくても、体が病気であっても、神様の御言葉をつかんで、確信をもって静かに歩むように変わりました。
 主は、悔い改めて、真実に神様に拠り頼んで来る者を見捨てられません。ですから、ヒゼキヤも、御言葉に従って歩みます、と応答しています。16節。神様の御言葉の応答を受けたならば、私たちの方でも、それに応えて、弱さを抱えながらでも、信仰で歩む思いを告白します。あの使徒パウロも持病を抱えながら、宣教の生涯を送りました。病気のヒゼキヤもそう応答しました。それでこそ、「どうか、私を健やかにし、私を生かしてください」と願いが真実となります。

V−感謝の賛美−17〜22
 神の御心を求めて祈る祈りは、やがて感謝と賛美で満ちるようになりました。17節。なぜなら、祈りの応答を受けるようになるからです。寿命をのばしてあげよう。アッシリヤから助けだそう」(5,6)という神様の応答を聞いて、慰めと励ましを受けます。私たちも、苦しみと悲しみの中で、神様に祈るなら、涙を流しながら訴えるなら、私たちにも応えてくださいます。何と、ヒゼキヤは、自分の苦しみが有益だったと告白しています。「私の苦しんだ苦しみは平安のためでした」と言うのです。
 どういうことでしょうか。この苦しみを通して、罪の赦しと体の癒しを経験し、主にある平安を与えられました。詩人も、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と告白しています。詩篇119:71。ヒゼキヤは、神の民の王だから信じていただけでなく、苦しみを通して、一人の人として真実に神様を信じるようになり、全面的に主に拠り頼む者となり、真の平安を与えられました。
 もがき苦しんでいた時、彼のたましいは「滅びの穴」に陥っていました。主に祈りながら、我と我が身を委ねた時、「滅びの穴から引き戻された」と告白しています。これは、苦しみの中で神様に立ち返り、まったき神信頼に導かれ、信仰の確かさを味わった者が証しする共通の表現だったようです。詩篇40:2。まったくヒゼキヤの思いと同感です。苦しみに出会う以前よりも、平安になり、その信仰の人生は岩の上に立てられるようになりました。苦しみや悩みの中にありますか。神の御声を求めて祈りましょう。主は、耳を傾けてその祈りを聞いてくださいます。
 こうして、滅びの穴から引き上げられたならば、神様に感謝し、賛美せざるを得ません。18〜20節。神様の偉大な恵みを体験した人は、自分がなぜ生きるのか知るようになります。それは、恐ろしい死の恐怖が近づく前に滅びから救い出してくださる神様の救いを証しすることです。よみにくだれば、救いを求めることができなくなるからです。生きている間にイエス様に出会い、福音を聞き、救われなければなりません。それで、ヒゼキヤは、この救いを証し、この文を残したのです。ヨハネ20:31。
 今私たちがすべき緊急なことは、世で肉の思いを満足させることではなく、生きている間にいのちの元である創造主なる神様を知って、イエス様による救いを受けることです。救われたならば、その素晴らしい救いを証しすることです。ルカ8:39。ヒゼキヤも、「私たちの生きている日々の間」主をほめたたえ、主の栄光をあらわして行くと決意しました。私たちが、このヒゼキヤの証し文を学ぶのは、学ぶことによって私たちもヒゼキヤになれるからです。詩篇63:4。



イザヤ38:9 ユダの王ヒゼキヤが、病気になって、その病気から回復したときにしるしたもの。
38:10 私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は、私の残りの年を失ってしまった。
38:11 私は言った。私は主を見ない。生ける者の地で主を見ない。死人の国の住人とともに、再び人を見ることがない。
38:12 私の住みかは牧者の天幕のように引き抜かれ、私から取り去られた。私は、私のいのちを機織りのように巻いた。主は私を、機から断ち切る。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。
38:13 私は朝まで叫びました。主は、雄獅子のように私のすべての骨を砕かれます。あなたは昼も夜も、私を全く捨てておかれます。
38:14 つばめや、つるのように、私は泣き、鳩のように、うめきました。私の目は、上を仰いで衰えました。主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。
38:15 何を私は語れましょう。主が私に語り、主みずから行われたのに。私は私のすべての年月、私のたましいの苦しみのために、静かに歩みます。
38:16 主よ。これらによって、人は生きるのです。私の息のいのちも、すべてこれらに従っています。どうか、私を健やかにし、私を生かしてください。
38:17 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。
38:18 よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。
38:19 生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。父は子らにあなたのまことについて知らせます。
38:20 【主】は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、【主】の宮で琴をかなでよう。
38:21 イザヤは言った。「ひとかたまりの干しいちじくを持って来させ、腫物の上に塗りつけなさい。そうすれば直ります。」
38:22 ヒゼキヤは言った。「私が【主】の宮に上れるそのしるしは何ですか。」



Uテモテ1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

Uコリント5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

ルカ22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

ルカ18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

Tヨハネ2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。

ローマ8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

詩篇107:19 この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
107:20 主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。
107:21 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。

詩篇119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

詩篇40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

ルカ8:39 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

詩篇63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。


戻る