2015年9月27日「恵みを感謝し、主の栄光を表す」イザヤ39:1〜8

序−困難がなくなって、どのように過ごすでしょうか。願いがかなった後、どのようになるでしょうか。そこには、危険と誘惑が待っています。あのヒゼキヤ王が陥った例を学び、私たち自身も備えましょう。

T−恵みの後で、ヒゼキヤの油断−1
 奇跡的にヒゼキヤの病気が治り、彼の心に隙ができるようになった時のことです。ヒゼキヤ王の病気回復を祝い、遠くの国から使者がやって来ました。1節。遠くから使節団を派遣し、贈り物をくれたので、ヒゼキヤ王は大変喜びました。しかし、使節団の本当の理由は何でしょう。表向きは一般的な訪問を装っていましたが、対アッシリヤの共闘の誘いでしょう。おそらく使者が持参した手紙には、病気回復の祝辞とともに、対アッシリヤ連合策が記されていたはずです。バビロンは、当時アッシリヤ帝国に反抗する勢力として台頭して来た国です。アッシリヤに苦しめられていたヒゼキヤとしては、心強く思ったに違いありません。周りの国々は、ヒゼキヤ王を妬んでいたし、ユダだけ独立を保っていたのを羨ましがっていました。むしろ、ヒゼキヤ王が奇跡的に回復したのに憤慨していたことでしょう。バビロンのことをヒゼキヤは大変喜びました。
 バビロンが知りたかったのは、なぜユダのような小さな国が大国アッシリヤの攻勢に持ちこたえているのかということです。どうしてヒゼキヤ王が奇跡的に回復したのかということです。これは、今日でも、世の人々がクリスチャンに対して見るのと同じです。どのようにしてあのような問題を受け止められたのだろうか。なぜあのような困難を乗り越えたのだろうか。どこにそんな力が。そのように見ています。それは、クリスチャンが信仰によって霊的に変えられて、新しい命に生きる人になっているからです。Uコリント5:17。まったき信仰で拠り頼んで、祈りが答えられる者になっているからです。人が知りたがっているのはそういうことです。
 しかし、ヒゼキヤは、バビロンに対してそういうことをしていません。それに、これまでは何かあればイザヤを通して神様の御心を求めていたのに、遠くのバビロンから使者が来たことについて、なぜ彼らは来たのか、使者に何を言って、何を見せればいいか、神様に尋ねていません。神様の愛とあわれみを受けて癒されたのですから、なおのことその後も神様に聞いて、従って行こうとするのではと思うのですが。

U−自慢し、認められようとする偶像−2
 では、ヒゼキヤは何をしたのでしょう。2節。ユダのすべての宝物や武器をバビロンの使者に見せたのです。どうしてこんなことをしたのでしょう。見せびらかし、自慢としか思えません。その理由は、バビロンがユダと対等の外交関係を結ぼうとしたからです。周りの国は、妬み、敵対して、ユダを認めてくれませんでした。ところが、バビロンはユダを認めて、対等に扱ってくれたので、大変喜んだのです。喜んで、対アッシリヤ連合の力があることを示すために、自分たちは、貧しく弱い国ではない、軍事力もあるし、資金も十分にあることを示そうとしたのです。
 この姿どう思いますか。神の民、イエス様の弟子でありながら、世の評価を得るために、自分を大きく見せようとしたり、自慢したりします。ルカ9:46。人はどれほど世から認められたいかということを、ヒゼキヤの姿から知ることができます。誰でも、人から認めてもらいたいという欲求があります。「人に認められる」ということが偶像になっています。認められないということが、痛みと失意になります。私たちにも、同じ危険があり、サタンに付け入られ、肉の働く機会となってしまいます。ガラテヤ1:10。
 病床から奇跡的に回復した、他の国が認めてくれた、ということが相まって、喜びと高慢で、ヒゼキヤは自慢したくなり、さらに認められようと見せたくなったのです。バビロンからの使者は、ヒゼキヤにとって、一つの試みとなりました。U歴代32:30〜31。私たちにとっても、様々なこと小さなことが試みとなります。問題が一段落した、病気が癒された、仕事を成し遂げることができた、そういう時心に隙が出来ます。自慢したがり、高慢になりやすいのです。認められたい欲求が生じます。
 この時、癒しと守りを感謝しつつ、謙遜になって、バビロンにどう対処すべきか御言葉に聞くべきでした。どうしてユダが独立を保っているのか、なぜヒゼキヤが回復できたのかということを求めて来たバビロンに、何を見せてあげなければならなかったでしょう。武器や財宝よりも、こんな弱い小さなユダを天地の創造主なるまことの神様が守ってくださった、私の信じる慈愛の主が私を癒してくださった、という信仰のあかしを見せてあげなければなりませんでした。使徒3:6。
 「ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた」と記されています。U歴代32:25。私たちは、自分を大きく見せようとしたり、自分が誉められようとしたりする必要はありません。自分を通して主の栄光があらわされれば、アーメンです。「栄光は主に、恥辱は我に」とかっこいいことを言われた先輩牧師がおられました。主が自分を守って、導いてくださったのは事実ですから、それをそのまま証しするのです。その人を主が認めて、祝福してくださいます。
 自慢するなら、何を自慢すべきですか。驚くべき信仰の変化が教会の中に起こります。イエス様を信じた人が、新しい命に生きるようになります。自分の力だけを信じていた人が、謙遜な人に変わります。知識だけの信仰が、御霊と共に生きる信仰になります。祈らなかった人が祈るようになります。恐れと不安の中にいた人が、主にある平安を得るようになります。肉と欲の価値観に流されていた人が、御言葉に従って歩むようになります。そういうことを自慢しましょう。そのまま証ししましょう。

V−叱責とヒゼキヤの反応−3〜8
 その後、預言者イザヤが、ヒゼキヤ王のところに来ました。3〜4節。これは、質問ではなく、叱責なのですが、ヒゼキヤは分かっていません。おそらくバビロンの使者は、帰ってから「噂のような特別な力はないようです。ただ、弱い小さな国なのに財宝がいっぱいでした。いつか奪いましょう」と報告したはずです。ヒゼキヤが愚かな自慢をしたために、敵の欲を呼び覚ましてしまいました。人々が私たちの生き方が気にかかり、知りたい時には、私たちは自分の信仰を謙遜に明らかにしなければなりません。その時、御霊がその人の心をつかんでおられるからです。自分の力や財産を自慢しても、かえって人に妬みや欲を引き起こさせるだけです。
 彼らは遠い国バビロンから来て、彼らにすべての財宝を見せました、とヒゼキヤが答えると、イザヤは、実に恐ろしい話をしました。5〜7節。神様を自慢しないで、財宝を自慢したために、その財宝すべてがバビロンに運び去られ、ユダの王族が捕虜として連れ去られるということです。ここで人は、財宝を自慢することが罪なのか、ちょっと自慢しただけでどうしてバビロンに捕囚となるのか、そんなふうに思うでしょう。これは、財宝に彼の心があったことを示しています。マタイ6:21。彼が悟るべきことは、神様に癒していただいたことは、健康も大切だけれども、神様をもっと愛して、もっと御言葉に従って行かなければならないということです。私たちが覚えるべきことも、イエス様の十字架によって救われたなら、新しい命に生きて、主の栄光をあらわして生きて行かなければということです。
 バビロンに財宝が奪われるという知らせは、必ずしも悪いことではありません。捕囚にされるのに、財宝も武器も必要ありません。捕囚の地でしっかり信仰で武装すれば、生きて行くことができます。後のバビロンでのダニエルたちを見れば、分かります。ダニエル6:3。この裁きの預言は、ヒゼキヤ一人の失敗のためではありません。やがて国全体の腐敗が捕囚に会うほど酷くなってしまい、捕囚を経ることがなければ、信仰で再び生きるようにならないからです。
 ユダが認められなかったのも、のけ者にされたことも、信仰の純粋性を守るために必要だったのであり、それほどユダの民の信仰が弱かったからです。神様を信じながらも、もう一方では世の価値観を追求するという姿は、私たちへの問いかけとなっています。ユダは、そのために財宝すべて奪われるという代償を払うことになります。それでも、徹底して悔い改めれば、財宝を奪われても、捕囚になっても、再び復興することができます。
 ですから、ヒゼキヤは、その叱責を肯定的に受け止めています。8節。このヒゼキヤの反応は、誤解を与えるかもしれません。自分だけ助かればいいという自分勝手な姿だと見られるかもしれません。でも、ユダの罪を考えれば、滅びなかっただけでも大きな祝福であり、何も抗議することはできませんでした。ところが、神様は少なくともヒゼキヤの在任中は起こらないという約束を与えました。それは、彼らが再び神様の前に悔い改めて来る機会となったからです。U歴代32:24〜26。
 ヒゼキヤは、後の時代のために、後の王たちのために財宝を集めましたが、何の助けにもなりませんでした。信仰者は、信仰を受け継ぎ、伝えるために、心と体とお金を投資しなければなりません。信仰こそ宝だからです。Uコリント4:7。重要なことは、今です。今この瞬間イエス様を信じて、神様に拠り頼み、御言葉に従って生きることです。財宝を残せなくても、真の信仰を残すならば幸いです。自分を守ってくださる神様が次の世代をも守ってくださり、祝福してくださいます。イザヤ33:6。



イザヤ
39:1 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。彼が病気だったが、元気になった、ということを聞いたからである。
39:2 ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。
39:3 そこで預言者イザヤが、ヒゼキヤ王のところに来て、彼に尋ねた。「あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「遠い国、バビロンから、私のところに来たのです。」
39:4 イザヤはまた言った。「彼らは、あなたの家で何を見たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。」
39:5 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の【主】のことばを聞きなさい。
39:6 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と【主】は仰せられます。
39:7 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」
39:8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた【主】のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全だろう、と思ったからである。



ルカ9:46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

ガラテヤ1:10 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

U歴代32:30 このヒゼキヤこそ、ギホンの上流の水の源をふさいで、これをダビデの町の西側に向けて、まっすぐに流した人である。こうして、ヒゼキヤはそのすべての仕事をみごとに成し遂げた。
32:31 バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。

使徒3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、

マタイ6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

U歴代32:24 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかったが、彼が【主】に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。
32:25 ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。
32:26 しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、【主】の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。

イザヤ33:6 あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。【主】を恐れることが、その財宝である。

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