2015年10月4日「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」イザヤ40:1〜11

序−私たちは、目の前のことしか考えません。今起ころうとしていることだけに反応するでしょう。国が滅ぼされ、バビロンに捕囚にされるという預言を受けただけならば、神の民は恐れと絶望に打ちひしがれしまいます。しかし、ご自分の民を愛され、顧みてくださる慈愛の神は、バビロン捕囚のさらに先の預言を教えてくれます。それは、私たちのためにです。

T−慰めよ。わたしの民を−1〜2
 私たちは、ひどい状況になる時、落胆し、絶望します。それがどうにもならない、変わりようがないように見えるならば、苦しくて、辛くて、悲しくて仕方がない思いになります。そんな思いに続くならば、体や心まで痛んでしまいます。今ユダの民には、考えられないような患難が近づき、もうそれが来れば何もかも終わり、何の望みもない滅亡しかないという思いになっています。
 確かに、世の人々の目で見れば、戦いに負け、王も民もバビロンに連れ去られるなら、どう見ても、滅亡です。どう見てもその民はおしまいです。しかし、信仰の目で見れば、どうでしょう。2節。「労苦は終わる」「その咎は償われる」「罪に引き替え、二倍のものを主の手から受ける」という約束が与えられています。贖いとは、罪を犯したけれども、罪の値を償うことによって赦されることです。ユダは、その不信仰のために、バビロンによって攻め滅ぼされ、捕囚となるけれども、完全な滅亡ではなくて、捕囚期間という罪の代価が支払われるならば、再び戻ることができるということです。そして、祝福が与えられるというのです。
 これは、すごいことです。もう終わりだ、もう変わることがない、もうだめだとしか見えない時、その先の展開があるというのです。それは、神の民であるがゆえに、罪の赦し、主による回復があるからです。私たちイエス様の十字架に贖われた、つまりイエス様の十字架の死という罪の代価が支払われたために、罪の赦しと天国への命が与えられています。Tコリント6:20。新しい人生とよみがえりの命が与えられています。
 ですから、何と言われていますか。1節。そのまま苦難が続く、苦しみや悲しみが続くと思うなら、苦しくて、辛くて、悲しくて仕方がありません。神様は、暗澹たる思いの中にいるご自分の民に、慰めが溢れることを約束されました。ユダの不信仰の結果、国の滅びとバビロン捕囚という悲惨を受けるけれども、そのまま見捨てるのではなくて、慰めと祝福の言葉を与えて、辛い状況に耐えることができるようにしてくださるのです。
 イエス様を信じた、主の十字架によって救われたというなら、私たちも、この神様の慰めの御言葉を苦難の中で聞くことができる者となっています。この「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神が言われる」というのは、神様がご自分の民を慰めてくださるということです。様々な苦難や問題に労苦する私たちも、「あなたの労苦は終わります。その咎はキリストの十字架のゆえに贖われました。主の祝福と恵みを受けなさい」という「慰め」を聞くことができます。神様の約束の御言葉を聞くすべての者に言われた御言葉です。
 それも、「優しく語りかけよ」というのです。「心に語りかける」という意味です。他の箇所では、「ねんごろに話しかける」と訳されています。ルツ2:13。問題で労苦し、希望を失い、苦しんでいる者に、その心の傷をいとうように主が優しく自分に語りかけるのです。
 「その労苦は終わり、その咎は償われ、罪に引き替え、二倍の祝福を主の手から受ける」という約束は、今も人生途上での様々な苦難や問題によって苦しみ、悲しんでいる者にとって大きな慰めです。とりわけ、希望がないように思う時、先がまったく見えない状況で、この慰めを聞くことのできる私たちは幸いです。どうしてそのようなことが可能なのでしょう。自分の罪の以上の代価をイエス様が十字架にかかって払ってくださるからです。ですから、イエス様の救いの福音を聞き入れるならば、罪の囚われから、悲惨な状態から解放されるというのです。

U−荒野に呼ばわる者の声−3〜6
 神様の慰めの内容は、バビロン捕囚からどのように帰って来るかということを知らせています。3〜7節。「『呼ばわれ』と言う者の声がする」というのは、「道を整える」ということです。荒野を王様が大軍を率いて進む場合、先触れの者は、道を平らにして、山を削ったり、谷を埋めたりして道路を作ったそうです。このように神様がご自分の民を率いて、帰らせてくださるということです。患難という山あっても、問題という谷あっても見捨てないで、道がないなら、道を作って、困難な人生を歩ませてくださるというのです。
 歴史的には、ユダの民がバビロンに捕囚になって70年が過ぎると、バビロンは滅び、神様がペルシャの王クロスを用いて、エルサレムに帰してくださるということです。バビロンの捕囚が近づいていたヒゼキヤの時代には予想もできないことでした。これが、ご自分の民を愛される神様の守りと導きなのです。私たちの人生でも、患難や問題で荒野のような人生となったとしても、道を開いてくださいます。新約聖書では、バプテスマのヨハネが「荒野で呼ばわる者」と言われています。ルカ3:3〜5。このイザヤ書で預言されている「主の栄光」こそが、イエス様です。5節。
 イエス様が来られたということが世に知らされています。イエス様の所に来る道が整えられています。どれほど世に「荒野で呼ばわる者の声」があるか分かりません。クリスマスを知らない人はいません。人々が福音を知るようにと、聖書が翻訳され、宣教師がやって来ました。キリスト教を知らないという山がどんどん削られ、偶像や迷信という谷だ埋められて来ています。私たちのすることは、この道をさらに整えて、周りの人々の心に、救いの道が開かれて行くようにすることです。
 その福音の内容はこうです。6〜8節。人という存在は、結局は草のようなもの、その栄光もすぐに枯れる花のようだと教えています。現代になっても変わりはありません。健康な時はずっとそのままだと思います。自分の思うように生きている時は、何でもできるように感じます。しかし、そうではありません。あっという間に枯れてしまう草、すぐにしぼんでしまう花のような儚さは、私たち日本人には、よく分かる表現です。生まれて来た意味が分からず、労苦して人生を過ごし、やがて死んでしまう、そういう空しさに打ちひしがれるでしょう。
 しかし、人の命とは、神様から与えられたものです。空しく終わるものではありません。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」と知らされています。イエス様の十字架の死という代価をもって買い取られた私たちの命は、地上の生涯だけでなく、天国へ続く命となっています。イエス様を信じて救われた者は、新しい命に生きています。神様から命を与えられて世に生まれ、主に生かされて、主に用いられて、主の栄光をあらわしながら人生を歩み、やがて主のもとに凱旋するのです。私たちが信じている福音とは、まさにこれなのです。Tペテロ1:23〜25。

V−良い知らせを告げ知らせる声−9〜11
 こうして、イザヤの預言は、バビロン捕囚の預言に恐れ、絶望に陥りそうなユダの民と王に、その先のバビロン捕囚からの帰還という大きな希望を教えてくれただけでなく、その先の救い主イエス様の到来について教えてくれました。10〜11節。今私たちは、そのイエス様のもたらしてくださった救いを受けている、救いの知らされているということがどんなに恵みであり、幸いなことでしょうか。
 神様の偉大さがよくあらわれるのは、私たちの救いです。その力をもって抗う者を打ち倒すよりも、神様は、背いて反抗する者を福音で捉えて、御言葉によって造り変え、神様に従う忠実な者としてくださいます。これがイエス様による救いです。自分の罪と滅びのために十字架にかかってくださったイエス様の救いを知るならば、分からないで反抗していた者も十字架のもとにぬかずくしかありません。
 まさにそのイエス様の姿は、羊飼いのようです。ヨハネ10:1〜11。「御腕で統べ治める」と「御腕に子羊を引き寄せ」とは、神様の御力と優しさが対照的に表現されています。この主の御腕で守られる私たちは、何と幸いなことでしょうか。捕囚だけなら、人生は空しい、草や花のように人の命は儚いということになります。しかし、捕囚から帰還できるという約束は、捕囚も患難も、主の民にとって終わりではないということです。
 この慰めのメッセージは、幸いです。今患難に出会っている者に、世の患難に囚われている者に慰めと希望を与えてくれます。ヤコブ1:1,Tペテロ1:1。苦難で終わりではない、帰るべきたましいの救いがあります。Tペテロ2:25。ですから、救いの恵みに与った私たちのするべきことは、何でしょう。9節。「良い知らせ」とは、福音のことです。絶望と空しさに陥っている人々に福音を伝えることです。絶望と空しさのために頑なになって聞こうとしなくても、福音を伝える者は、恐れないで、躊躇しないで、やさしく語りかけ、慰め御言葉を伝えるのです。救い主イエス様を見てください、と証しします。イエス様の十字架による救いのメッセージは、良い知らせ、福音だからです。イザヤ52:7。ですから、私たちが患難に会おうとも、気落ちせず、主の慰めの言葉を聞いて、信仰の目で、見るように願います。



イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
40:5 このようにして、【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたからだ。」
40:6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
40:7 【主】のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。



Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Uコリント1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

ルカ3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

Tペテロ1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

Tペテロ2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

イザヤ52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。

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