2015年10月11日「比べることのできない神様」イザヤ40:12〜31

序−神様から素晴らしい慰めのメッセージをいただきました。しかし、民の中には、慰めを受けられない人々がいました。疑問や疑いを神の民が持っていたようです。そこで、神様がどんなお方であるかを教えています。信仰といっても、どのように信じているのかということが重要です。あなたの神はどんなお方ですか。

T−主の偉大さ、自然に現された神様−12〜17
 どんなに素晴らしい神様の慰めと励ましを聞いても、実際に慰めと励ましを受けられるかは、どんな神様を信じているのかにかかっています。神様がどんなに偉大なお方であるか、この地球と宇宙をもって考えさえています。12節。神様は、宇宙を正確に量って造られました。皆既日食が見えるのも、月と太陽の直径の比と地球からの距離の比が、1対400だからそうです。宇宙や自然の広大さを思うと、それを造られた神様がどれほど偉大なお方であるか考えるようになります。ローマ1:20。
 世にある物は、誰かが作ったものです。存在するということは、すべて誰かが作ったということです。神様がどんなに偉大なお方であるか、世のどんな偉大なものも神様の前には、無いもののようです。15〜17節。その偉大な神様が私たちを造ってくださいました。それも、その神様に似せて人間を造ってくださいました。
 ところが、人は造られた存在なのに、人が神を作ろうとする愚かな姿をあらわしています。自分の頭の中に神様を入れようとします。アリが象を見て理解できるのでしょうか。13〜14節。神様は、誰かから教えてもらったわけではありません。神様が人に知恵を与えてくださいました。神様があまりに偉大な方なので、人間の力で知ることは到底できません。神の偉大な創造の御業の中では、人は無きに等しい存在です。
 でも、そんな私たちを救うために、神様は一人子を犠牲にしてくださいました。Tペテロ3:18。圧倒的な愛がここにあります。ヨハネ3:16。大自然を見る時、この偉大な神様の愛を覚え、神様を恐れ、感謝しましょう。星空を見たら、「人とは、何者なのでしょう。天地の造り主がこれを心に留められ、これを顧みられるとは」と詩人になりたいと思います。詩篇8:3〜4。
 人は、勝手に自分の頭で神様を作っています。ご利益の神様、自分の都合の良い神様をイメージし、勝手に要求し、文句を言うのです。そんな神様に誰が知恵と悟りを求め、自分を委ね、命をかけて従おうとするでしょうか。ですから、残念なことに、イエス様を信じていながら、「神様は私のことを分かっていない、私を見捨てている」と言う人がいます。神様が、どんなに偉大なお方であるかを知らないのです。偉大な神様が、塵に過ぎない自分を省み、愛してくださったかを考えないからです。
 バビロンに捕囚の知らせに絶望と空しさに打ちひしがれた神の民が、捕囚からやがて解放されるという慰めのメッセージを受けました。しかし、受けたとしても、彼らの神様のイメージが自分の作った都合の良い神様のままでは、到底解放されるという約束を信じられません。その患難を受け止め、取り組んで行くことはできません。ですから、慰めのメッセージの後に、こうして神様の偉大さが教えられているのです。あなたの神様のイメージはどうですか。どんな神様を信じているのですか。

U−神を何になぞらえ、どんな姿に似せるのか−18〜26
 人は、その偉大な神様を何になぞらえ、どんな似姿に似せようとしたのでしょうか。18〜20節。偶像といっても、その正体は何でしょう。偶像とは、細工職人が、青銅や鉄を溶かして作ったかたまり、木や石を刻んだものにすぎません。その中にいかなる生命も力もありません。ただそのように見えるように人の顔のように作っているだけです。
 なぜ、人はそのようなものを神としてしまうのでしょうか。そんな金属や木のかたまりが、幸いを与えてくれると信じるのでしょうか。自分の願望を叶えてほしいからです。人が偶像を信じる最も大きな理由は何でしょう。満足することのない欲望があるためです。お金に対する欲望がお金を自分の偶像となります。評価を得て自慢したいという欲があれば、人に認められることが偶像となります。
 人は神様に造られた存在ですから、神様を見せてあげなければなりません。しかし、罪のために到底できません。福音によって新しく造り変えられた今は、神様を見せてあげることができます。造り変えられる前の肉と欲の思いがろ過されないで、そのままあらわれるようになるなら、偶像礼拝となるのです。偉大な神様に造られた私たちは、それだけ尊い存在なのですから、神様以外のものを拝んだり、それに仕えたりしてはいけません。
 でも、人は、罪のために様々な偶像を作り、拝んで、神に似せて造られた自分を汚すのです。私たちに偉大な神様があらわれるためには、私たちがイエス様を信じて救われて、霊的に造り変えられ、自分自身を完全に神様に委ねることです。それが、私たちにとって幸いです。
 どんなに優れた作品であっても、作者より偉大ではありません。その作者なら、もっと優れた作品を作ることができるからです。どんなに人が優れているとしても、人より偉大なのは、創造主なる神様です。21節。「あなたがたは知らないのか。聞かないのか」というのは、必ず知らなければならない、必ず聞かなければならないということです。人と世を造られた神様がおられるのに、その方がどういう方であり、どういうことをされる方であるか知らないなら、人生はなぞなぞとなってしまいます。
 人が自分を造られた神様を知ることは、単なる知識ではありません。自分がどういう存在であり、どう生きるかを知る重要な鍵なのです。患難に出会い、絶望し落胆する時、真に神様を知ることなしに、その神様に信頼し、自分を委ね、慰めと平安を得ることはできません。自分の都合の良いご利益神や欲の満たしを願う偶像神では、本当に信頼し、委ねることなどできません。慰めも平安もないのです。「今苦しい状況にあり、自分の思うように行かないけれども、私は真実な力ある主を信じ続ける」というように神様に委ねて、従って行くなら、慰めも平安も与えられます。
 現代では、ますます人は力や知恵があることで、自分が神のようになっています。人間自身が偶像になっていますが、神様の目にはどう見えているのでしょう。22〜24節。人は小さな力のない存在だ、イナゴのようだと言っています。高慢になって周りの人々を従わせようとし、王様のようになる人もいます。しかし、世の君主たちでさえ、風に吹き飛ぶもみがらのようだと言っています。知恵も力も神様から与えられたものなのですから、自分の肉の欲を満足させるのに使うのではなく、神様を喜ばせるために、人々に仕えるために、命も知恵も力も使うべきです。
 いったい神様を何になぞらえ、何と比べることができるのでしょうか。25〜26節。偶像でもない、まして自分でもない、天地万物の創造主、唯一の神、真の神です。私を造り、私を愛し、私を生かしてくださる方です。イエス様によって私を救ってくださる主です。

V−神の民を知っている神様、その主を待ち望む者は−27〜31
 神様は、ご自分の民を瞳のように愛してくださったのですが、神の民は何と言っていたのでしょう。27節。不信仰には原因があります。患難の中で神様に拠り頼むことができないのは、真の神様を知らないからです。この質問は、民の勝手な信仰のもろさと不信仰の危うさをさらけ出しています。バビロン捕囚を聞いて絶望しながら神様を信頼できなかった民、患難の中で失意と空しさに沈んでいながら偉大な神を知らないクリスチャンが陥っている残念な悲しい姿です。
 「神様は、私の窮状を見ていない、私の訴えを聞いていない、私は見捨てられている」という呟きです。「ユダを強い国にしてくれ、どうしてバビロンに滅ぼさせるのか、自分たちの好きにさせてくれ」と訴え、文句を言っていたのでしょう。神様は、聞いてくれない、苦しい状況を分かっていないというような不信のつぶやきは、多くの神の民、クリスチャンをより苦しいところに自ら陥らせています。そのような状態では、慰めのメッセージも心に入って来ないでしょう。偉大な神様に目を向けさせるのです。
 神様から目が離れると、不信仰が近づいて来ます。不信仰が満ちて来ると、言ってはいけないことばを吐き、自分と周りの人々を困難に陥れるようになります。どんなに目に見える現実が厳しくても、救いに基づく神様の愛は変わりません。どんな状況であっても、偉大な神様に目を向け、拠り頼み、委ねて行くならどうなりますか。28〜31節。何もかも終わり、何の望みもないと絶望と空しさに陥っていた者が、希望と力を与えられます。聖霊の力が注がれます。テトス3:4〜5。
 苦しくて悲しくて身動きできなくても、偉大な神様に心がつながると、歩き出し、走り始めます。心が疲れて倒れていた者が立ち上がります。聖霊の御力が注がれ続けられるからです。「主を待ち望む者は新しく力を得る」、このメッセージは、混沌とする現代に生きる私たちに励ましを与えてくれます。激動する人生において、私たちに必要なことは、力の源である偉大な主とつながり続けることです。プライドや自分の思い中心では、必ず疲れ果てます。疲れを覚えるなら、立ち返って恵みをいただきましょう。失望と落胆に陥っているなら、恵みにあふれたお方、イエス様を遣わされた偉大な創造主に立ち返って、拠り頼みましょう。詩篇8:3〜4。



イザヤ
40:12 だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。
40:13 だれが【主】の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。
40:14 主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。
40:15 見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。
40:16 レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
40:17 すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
40:18 あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
40:19 鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。
40:20 貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。
40:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
40:23 君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。
40:24 彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。
40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と聖なる方は仰せられる。
40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は【主】に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。




ローマ1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

Tヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

詩篇8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

テトス3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、
3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
3:6 神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

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