2015年10月25日「恐れるな、虫けらのヤコブ」イザヤ41:14〜29

序−自分の弱さや欠けを言われれば、人はどう反応するでしょうか。肉のプライドをもって憤慨するでしょうか。自分はそうだ、とがっかりして意気消沈するでしょうか。そうだけれども、神様が付いているから、と受け止めるでしょうか。患難の中にいる神の民への励ましの預言から学びます。

T−虫けらのヤコブとは−14〜
 バビロン捕囚で恐れと絶望に打ちひしがれる神の民を何と呼んでいますか。14節。患難の中で恐れていた神の民が虫けらのようだというのです。苦難のどん底、失意と落胆にある時の人の姿が、ここにあらわされています。虫にあらわされているイメージは、小さい、弱い、無力感です。彼ら自身が自分たちをそう見ていたのです。それゆえに、侮辱されたり、踏みにじられたりされたということです。
 人は苦しみや悲しみにある時、失敗や挫折の中で、自分が自分自身を虫のように弱いちっぽけな存在と思い、人々からも蔑まれ、心踏みにじられるからです。詩篇22:6〜7。実際、エルサレムを再建しようとした時、周りの民族が嘲り、侮辱しています。ネヘミヤ4:1〜3。「私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります。」という詩人の嘆きは、辛い悲しい心境にある神の民、クリスチャンの心の痛みをあらわしています。
 でも、どうして神様まで「虫けら」と呼ばれるのでしょうか。確かに神様と比べれば、私たちも虫けらのようですが、神様はそれで侮辱されているのでしょうか。「恐れるな」と愛して励ましておられるのですから、そうではありあません。弱さや欠けを言われる時、私たちの取るべき姿は、自分はそんな者じゃないと憤慨するか、どうせ自分はこんな者だと自虐的になるか、そのどちらでもありません。肉のプライドを持たせたり、肉の自尊心に逃げ込むことが多いですが、それも必要ありません。確かに、私たちには、弱さや欠けがあり、失敗や挫折もあります。しかし、主が私たちを助ける、贖うと約束されているのですから、恐れなくていいのです。虫けらのような姿が、ある日美しい蝶になります。いや、わしのように大空を飛ぶようになります。イザヤ40:31。福音とは、救われる時はそのままでも、救われた後は恵みによって変えられるのです。
 罪に汚れて、滅んで行く姿は「虫けら」のようだとも言われています。ヨブ25:4〜6。ですから、贖いが必要です。「贖う」という言葉は、代価を払って買い戻すという意味です。私たちを罪と滅びから救い出し、悲惨と絶望から助け出してくださったイエス様こそ、贖い主です。Tテモテ2:6。イエス様は、私たちの救いのためにご自分が十字架にかかられるという代価を払われました。Tコリント6:20。私たちは罪に翻弄される自身の悲惨さを自覚したことがありますか。そんな虫のような私たちの身代わりとなられた救い主は、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」のです。イザヤ53:3〜4。ああ虫の自分のためにイエス様が…。感動し感謝します。

U−神の民の回復−15〜20
 神の民を救ってくださる神様は、どのように助けてくださるのでしょう。15〜16節。小さな弱い神の民も、主によって用いられるなら、「もろ刃の打穀機」の破壊力を持つというのです。山のように積まれた作物を力強く脱穀して、籾殻を風に飛ばしてしまうように、苦難や攻撃を砕いてくださるのです。神の民、クリスチャン、私たちを新しい脱穀機に造り変えて、苦難を砕いて、除くようにさせてくださるという約束です。
 福音には力があります。私たちを新しい命に生きる者とさせ、虫けらを脱穀機のようにして用いてくださるのです。「イエス様が死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」Tペテロ1:3。イエス様の十字架の死という代価を払って私たちを新しい命に生きるようにしてくださいました。
 この福音をしっかりつかんで生きるのです。しかし、人々はこの最も大事なものを放っておいて、別な何かを握っているのです。もし、私たちがイエス様の福音以外のものを当てにして握っているならば、虫けらのままです。苦難に耐えることができません。乗り越えることもできません。私たちを救ってくださる神様と人々を愛する心があれば、世に打ち勝つことができます。神様を知れば知るほど、人を知るようになるからです。
 どうして、神様は人をしばらくの間苦難や悲しみの中に置かれるのでしょうか。17〜18節。「悩んでいる者や貧しい者」とは、神様への信仰と御言葉を知っている神の民のことです。彼らは、神様を信じていたけれども、心には喜びがなく、葛藤と憂うつがありました。長く緊張と痛みを受けていました。患難と圧迫が続くので、神様から心が離れ、偶像へと心が向くようになりました。
 でも、心の渇きは満たされません。渇きはバビロン捕囚によってもっと酷くなります。しかし、神様はバビロンから解放して故国へ帰還させると約束されました。木々のなくなった丘に川を開き、荒野に泉を出し、彼らを捨てないと約束してくださいました。救い主イエス様は、言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4:13〜14。この救いに生きる者、その人々が集まる教会から、命の水が流れるようになります。
 一時期自分の思うようにならないからといって、神様から離れないようにしたい。自分勝手な神様を作ったり、偶像に心を移さないようにしたいのです。自分がどんなところから救われたのか。イエス様に出会う以前はどんな状態だったのか。空しく、苦しくて、心が渇いていたからこそ、イエス様の救いを求め、神様の愛とあわれみを探したからでした。ですから、心渇いているならば、イエス様から命の水をいただかなければなりません。主の臨在される礼拝において命の水を注がれ、渇いた心に御言葉が滲みて、賛美でたましいが潤わされますように願うのです。
 そうすれば、偉大な神様が働いてくださいます。19〜20節。神様は、驚くべき祝福をくださいます。荒野がオアシスに変わります。神様がそのように豊かな土地にしてくださるというのです。神様に導かれた民が、荒れ果てた故国を開墾することで沃地になります。人がイエス様の救いによって神様のもとに立ち返って来るならば、人が癒され、自然まで癒されます。なぜなら、自然が人の罪によって痛めつけられ、疲弊しているからです。私たちの信仰が回復されるなら、私たちの環境が回復します。荒れた家庭や職場が回復し、私たちの働きが実って行きます。

V−無力な偶像と人のプライド、歴史を支配される神様−21〜29
 預言者イザヤは、ユダの人々にこのような御言葉を伝えましたが、民の中には、そのまま聞こうとしない人々がいました。偶像によって、自分の力でそのようなものは得られると考えたのです。そう思うなら、神様のようにしてみよと言われます。21〜24節。彼らは、偶像に拠り頼み、罪を犯し、手は血で汚れ、くちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやき、虫けらのように行動していたのです。イザヤ59:2〜3。虫けらであることを忘れて、自分が神のようになり、高慢とプライドで生きていました。
 不思議なことに、人はどんなに尊いものを持っていても、その大切さが分からず、絶え間なく、他のものに目を向ける肉の習性があるようです。なぜ、全面的に神様の御言葉を信じることができないのでしょうか。偶像を信じて生きる人の方が良く暮らしているように見えるからです。むしろ、神様を信じるユダが最も弱く、力がないのです。どうして、苦難の中で神様に全面的に拠り頼まないのでしょう。自分の都合の良い神様を作り、自分の思うようにしたいからです。
 もちろん、どんな偶像も占いも、ユダの民をバビロン捕囚から救い出すことはできません。しかし、歴史を支配される神様は、一人の人を起こして、神の民を助け出すようにされると伝えます。25〜27節。BC539年にペルシヤ王クロスがバビロンを滅ぼします。そして、ユダの民を故国に帰還させ、神殿を再建するように命じます。エズラ1:1〜2。これが、歴史的事実です。人も偶像もその出現を預言することはできません。28〜29節。
 イザヤの後の預言者エレミヤは、バビロン捕囚から70年後に神様があわれんで帰還させる計画を知らせました。エレミヤ29:10〜11。それをバビロンで発見して、読んだダニエルは、悔い改めて、一層信仰に生きて、バビロンの地で帰還に備えました。ダニエル9:2。私たちには、神様の約束の御言葉があります。捕囚の最中のような状況であろうと、望みをもって、神様に拠り頼んで生きることができます。虫でも神様が用いてくださいます。
 このクロス王が登場して神の民をバビロンから解放するという預言は、さらに救い主イエス様の登場を示唆しています。イエス様の十字架の贖いによる罪と滅びからの解放を示しています。イエス様を信じたならば、罪と滅びの捕囚から解放され、永遠の命に生きている者となって、主に似た者へと造り変えられて行きます。あなたは、弱さや無力さを感じていますか。苦難のために、苦しみ悲しんでおられますか。罪と滅びから救い出してくださったイエス様に拠り頼みましょう。Uコリント1:10。



イザヤ
41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。──【主】の御告げ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
41:15 見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。
41:16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは【主】によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。
41:17 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、【主】は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。
41:18 わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。
41:19 わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。
41:20 【主】の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。
41:21 あなたがたの訴えを出せ、と【主】は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。
41:22 持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。
41:23 後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。
41:24 見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。
41:25 わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。
41:26 だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに「それは正しい」と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者もひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。
41:27 わたしが、最初にシオンに、「見よ。これを見よ」と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。
41:28 わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない。
41:29 見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなすことはむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない。



詩篇22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

ヨブ25:4 人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。
25:5 ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。
25:6 ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。

Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

ヨハネ4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

エズラ1:1 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
1:2 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。

イザヤ59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
59:3 実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。

エレミヤ29:10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

ダニエル9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった【主】のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

Uコリント1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

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