2015年11月1日「いたんだ葦を折ることもなく」イザヤ42:1〜9

序−人は、様々なことで痛み、傷つけられています。人間関係、病気や事故、経済的な危機、仕事の重荷など、人々を痛め傷つける原因は色々なところから来ます。神様は、心を痛め、傷ついている人々に寄り添い、助けてくださるしもべを遣わしてくださいました。

T−救い主はどんな方−1
 神の遣わしてくださるしもべとはどんな方でしょうか。1節。これは、イエス様のことです。マタイ12:18〜21。イエス様こそ、真の解放と平和をもたらす救世主の預言の成就なのです。この箇所を通して、イエス・キリストについて学びましょう。まず神様は、「わたしのささえるしもべ」、神様がその働きを確かにすると保証されています。「わたしの心の喜ぶ者」というのは、イエス様が神様の御子だからです。そして、「わたしが選んだ者」とは、神様が人々を救うために任務を与えられたということです。御子イエス様は、父なる神様が人々をどれほど愛しておられるかを知っておられます。それで、人々の救いのために十字架にかかられました。マタイ12:18〜21には、「わたしの愛する者」が加えられています。私たちに対する主の愛がひしひしと伝わって来るところです。
 そういうイエス様を、なぜ「しもべ」と言っているのでしょうか。神様の御子であり、すべての栄光を持っておられる神様です。しかし、その神の御子が、自らしもべの身分となられたのです。私たちの救いのために苦難のしもべとなられたのです。イザヤ53:3〜5。イエス様が私のために苦しみを受け、痛みを担われました。Tペテロ2:22〜24。イエス様が苦難のしもべとなられて、イエス様が負ってくださったので、罪の赦しを受け、心の傷が癒されます。
 イエス様が、持っておられる権能が、罪の赦しと御霊の力です。「わたしの霊を授けた」と言われている通りです。イエス様は、聖霊に導かれて歩まれ、奇跡を行い、十字架で死なれ、復活されました。ですから、イエス様を信じる者は誰でも、御霊の力で罪の囚われから解放され、罪に打ち勝つようになり、新しい人生を生きるようになるのです。人間の問題は、単純な貧しさや弱さにあるのではありません。イエス様が来られたのは、すべての人にある罪のためです。人の罪がこの世に不幸と悲惨をもたらし、争いと憎しみをもたらしているからです。
 しかし、もどかしく思うのは、人々がそのような罪の問題が自分にあると気付かないことです。自分たちが恐ろしい罪に囚われて生きていることが分からないというより、そういうことを認めたくない思いがあります。ですから、まず罪に支配されて悲惨な状態なのだということを悟ることが必要です。それを気付かせてくれるのが、私たちが人生の中で受ける様々な痛みや傷です。救い主イエス様へ救いと癒しを求めます。

U−イエス様の救いの方法−2〜4
 主のしもべが世に来られる姿は、人々の耳目を惹く英雄のような救世主像とは、程遠いものです。2節。世の人の姿では、大きな声を出して、人々の関心を集めようとするものです。イエス様は、いくらでも大きな声でご自分の偉大さをアピールすることがおできになる方ですが、まったくそうされませんでした。
 イエス様は、謙虚さを身に付けた平和の君です。神の御子として権利を一切主張されませんでした。イエス様は、神様の御心に従順でした。十字架に釘打たれ、死なれました。イエス様は、罪人に寄り添い、神の愛を伝え、赦しと希望を持つようにされました。心傷ついて落胆する者のかたわらに静かに寄り添い、「あなたは、何のためにそのように落胆しているのですか」と聞いてくださるお方です。ルカ24:17。
 今傷ついている者、痛んでいる者に、こうささやいてくださいます。3節。「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」とは、素晴らしい詩的な表現だなと思います。「葦」とは、本当に弱いものです。有名な「人間は考える葦である」という表現もあります。なぜ、葦が弱いことの表現に使われるのでしょうか。川辺に生える葦は、風が吹くとしなり、強く吹くと折れてしまうからです。痛んでいるものは、折って切られてしまいます。しかし、イエス様は、いたんだ葦を折ることがない、と切ってしまわれないというのです。「くすぶる燈心を消すこともなく」のくすぶるとは、ランプの油が無くなりかけて、火が消えそうになっている様子です。臭くなるし、煙が出るので、その前に消されてしまいます。油を足さなければ、そのまま消えてしまいます。
 「いたんだ葦、くすぶる燈心」といっても、葦やランプの話をしているのではありません。問題や困難のために心痛め、望みを失っている人々のことです。バビロン捕囚を思うと辛くて、神様にも心が向かなくなっていた神の民の姿もそうです。神様の助けを求めて祈って来たけれども、もう待つこともできないという状態です。これ以上どうなるというのですか、何の望みもないのではないですか、そういう思いになっている状況です。心痛め、心が苦しくなっている姿です。
 「いたんだ葦、くすぶる燈心」は、苦難の中で呻吟しているクリスチャンの姿です。世の目で見れば、もう折られて、消えているも同然です。しかし、いたんだ葦が伸び出し、茂ります。くすぶる灯心が再び燃え出して、世を明るく照らすようになります。聖霊が臨めば、教会やクリスチャンは、絶望的な状況だとしても、再び燃え上がることができます。私たちは、これを求めなければなりません。世的な望みがないとしても、すべてが終わったわけではありません。聖霊の力が供給されるなら、新しく力を得ます。イザヤ40:31。私たちの信仰を燃やすのは、御言葉と聖霊の満たしです。私たちの信仰の火を灯し続けるために、私たちに礼拝が与えられています。ですから、毎週の礼拝を誠実にささげたいのです。
 私たちは、苦難や問題が続くと、変わりやしない、自分はだめだと思いがちです。今の自分は変わりようがないと考えてしまいます。しかし、「折ることもなく、消すこともなく」という否定表現は、肯定の強調です「いたんだ葦を強くする、くすぶる灯心を燃やす」ということです。イエス様は、傷ついて痛んでいる私たちを見てどうなりますか。4節。「彼は衰えず、くじけない」というのは、イエス様が私たちの弱さや足りなさに失望されないということです。私たちの救い主だからです。
 私たちは、自分自身に失望することは多いし、他の人について失望することも多いでしょう。気分を害したり、落胆したりします。それでも、私たちが記憶しなければならないことは、この御言葉です。イエス様が忍耐を持って、私たちに対してくださいます。痛んで傷ついた私たちを癒して、造り変えてくだり、その私たち通して世を直されるのです。私たちが証し、福音を伝えて行くことで、島々とは遠いところにいる人々、すなわち世界の人々にも福音が広がって行くということです。

V−主のしもべの働き−5〜9
 天地の創造主なる神様が、イエス様の救いの働きを行わせてくださると約束されています。5〜6節。どんな妨害や圧迫があろうと、すべて御心をなしてくださるという約束です。イエス様を信じた者は誰であろうと、救いの約束の中にあるということです。救い主イエス様は、世の光として来られました。ヨハネ8:2。福音は、救いを求める者の光であり、希望です。
 イエス様の救いの働きは、人々を罪の囚われ、患難から解放することです。7節。患難の中で霊的に目が見えなくなることがあります。肉の思い中心で生きていれば、罪の囚人となります。この状態は変わりようがない、いや肉の自分は変わりたくないということになります。苦難の中にいると、ずっとそこから出られないように思い込みます。ですから、イエス様の働きは、罪と滅びからの解放であり、失意と絶望からの解放なのです。
 全面的にイエス様を遣わされた神様を信頼しなければなりません。偶像や何かに頼っても解放されません。8節。木や石で作られた偶像でなくても、自分なりの考えや思いが中心になっていれば、それが偶像です。だめだ、無理だ、変わらないと思い込んでいるのも、自分が作っている偶像です。そんな偶像を信じるのですか。ただ、自分のために十字架にかかられたイエス様に信頼しましょう。
 主なる神様が神の民に約束された言葉は何ですか。9節。ユダが滅び、バビロンに捕囚になっても、神様の救いはそこから新しく始まるというのです。これが、福音のメッセージです。もうだめだ、絶望だ、何も残っていない、そういう状態から新しく始まるのです。どん底まで落ちたら、そこから新しく起き上がり始めるのです。雛が殻を割って世に出て来るように、新しく始まります。殻の中に自分を入れていませんか。イエス様を信じてイエス様を拠り頼むというのは、殻を破って、光の中に出て来ることです。イエス様を信じるあなたの新しい救いの人生が今始まります。
 恐れと疑いのために、信仰が消えそうになったことはありませんか。患難のために一歩も進めない人がいますか。イエス様に信頼してください。今までどんなに弱い者であったとしても、今弱い者ではありません。今までどんな状態だったとしても、いたんだ葦ではなく、くすぶる灯心ではありません。痛んでいる葦は癒され強くされ、くすぶる灯心は輝き出します。イザヤ61:1。



イザヤ42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
42:2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
42:4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
42:5 天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる【主】はこう仰せられる。
42:6 「わたし、【主】は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。
42:7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
42:8 わたしは【主】、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。
42:9 先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」



マタイ12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。
12:19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
12:20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

イザヤ61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

Tペテロ2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

イザヤ40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

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