2015年11月22日「聞こえない者、見えない者よ」イザヤ42:17〜25

序−人は、人生という道に迷うことが多いものです。神様は、私たちの人生の道を導いてくださるのですが、神の民は、神様の導きに従わず、間違った道へ進みました。なぜ神の民がバビロン捕囚となったのでしょう。

T−偶像に従う者−
 神様は、私たち一人一人を成熟させ、神様の御心を悟ることを願っておられます。神様は、私たちの方が御言葉を読み、聞いて、黙想し、神様の御心を悟るようにしてくださいます。とりわけ、間違った道へ進んでいないか、罪に引かれていないか、悟るようにされます。罪がどれほど醜悪で、恐ろしいものか、ついには滅んでしまうことを教えてくださいます。
 ところが、ユダの民は、神様の導きを好まず、偶像に従ってしまいました。17節。偶像というのは、人の中にある肉と欲をそそのかします。人の罪の性質には、どうしても、肉と欲を満たそうとする強い思いがあるので、偶像がそれをそそのかすのです。御言葉は、その肉の思いを捨てて、自分の罪の性質を否定するので、おもしろくないのです。それに比べて、偶像は、すべて肉と心の思うままにしろというので、どれほどいいか分かりません。エペソ2:3。結局、ユダの民は、自分たちの肉と欲の思いをそそのかす偶像に従ってしまったのです。そういう意味では、偶像は、彫像や鋳像ばかりでなく、私たちの心に見えない偶像があるということです。
 肉の思いのまま生きている人々のほうが得で、自由で、良さそうに見えるでしょうか。でも、それは、罪に囚われている姿であり、滅びに向かっている姿です。それは、自分では分からないのですが、大変悲惨な姿です。神の民は、肉の欲を満たしてくれと偶像に頼みました。自分の肉の欲を満足させるために生きる人は、言わば偶像崇拝者と言えるでしょう。

U−耳の聞こえない者、目の見えない者たち−18〜20
 今ユダの国は滅びようとしています。間もなくバビロン軍が攻めて来て、エルサレムを陥落させ、神殿を燃やして、人々を捕囚とします。その原因はどこにあったのでしょうか。ユダの指導者が「耳の聞こえない者、目の見えない者」であったためです。18〜19節。神様は、ここで矛盾したことを言われています。どうして、耳の聞こえない者が聞いて、目の見えない者が見ることができるのでしょうか。これは、信仰的なことが見えなくなっている者が、信仰に目を開くように、神の御声を聞かなくなっている者が、御声を聞くようにということです。彼ら自身が、霊的に耳の聞こえない者、目の見えない者であるのを悟れと言っているのです。
 人は、自分が目の見えない者だと悟るなら、人々を導こうとはしません。自分が耳の聞こえない者だと認めるならば、あえて案内者になろうとはしません。しかし、なぜユダの指導者たちは、信仰的には目が見えず、耳が聞こえなくなっていたのでしょう。自分の肉の思い中心で、神様の導きは必要ないと考えたためです。自分の我を通すために御言葉に聞こうとしなかったからです。それでは、自分のことが見えず、自分の姿が分かりません。
 人が神様の御言葉を受け入れること自体が、恵みです。はじめは、御言葉を受け入れることができなくて、我を張っていても、ある時には、心が開かれ、自分の肉の思いを捨てて、御言葉を聞き入れるようになるのは、何と美しい姿でしょうか。それは、まさに神様のあわれみであり、聖霊の働きです。それが無ければ、どんなに素晴らしい御言葉であっても、心に入ることがありません。
 クリスチャンにとって最も恐ろしいことは、御言葉を聞こうとしないことです。教会で最も恐ろしいことは、御言葉が語られないことです。当時、ユダに御言葉を教える者がいなかったわけではありません。しかし、教える者たちは、自分の考えで、勝手なことを民に教えていました。神の民が、自分の肉と欲を満足させることを聞きたかったからです。それにそそのかされて、正しい御言葉を語らなくなったのです。人は、自分の肉の思いに合うことを言うように願い、要求するものです。どう対処しますか。
 表面的には、どんなに知識があって、素晴らしく見えても、正しく御言葉を伝えるのでなければ、聞いてはいけません。反対に、興味がわかなくて、退屈に見えても、御言葉を正しく伝えているなら、全身で聞き従わなければなりません。何をさしおいても、命の泉である御言葉を正しく聞くことが優先しなければなりません。どうしても自分の肉と欲を満足させることが重要になり易いからです。
 民が肉の思いに迎合してくれる指導者を好み、そうして、偽りを言う指導者だけが残りました。19節。この時、本来神様の御言葉を伝え、民を神の御心に導くべき神のしもべたちが盲目の者、聞こえない者となっていました。この節は神様の嘆きです。そのような人々が運転すれば、間違った道に行くでしょう。その様な人々が操縦する船に乗れば、暗礁に乗り上げるでしょう。ですから、ユダの民の問題は何かと言えば、神様の御言葉かそうでないかを区別しようとしなかったという点にあります。自分たちの肉の欲を満たす道を選んでしまったことです。イザヤ65:12。
 イエス様はこう言われました。マタイ15:14。「彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込む」と言われました。救い主イエス様が来られたのに、イエス様から人々を離そうとしていたパリサイ人は、まさに目の見えない者でした。しかし、彼ら自身は目が見えると思っていました。ヨハネ9:41 。民の指導者も、神様のことを知りながら、知らせませんでした。20節。私たちは、神様の導きを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、神様の御声を聞こうとしない者にならないようにしたいのです。
 なぜ、彼らは、目が見えない者、耳の聞こえない者となったのでしょうか。御言葉を窮屈な狭い考えだとみなしたためです。世は広くて多くのものがあるのに、御言葉は、これはするな、あれもするなと言っているだけだと思ったからです。自分の知恵や知識に自信を持ち、御言葉に聞き従おうとしなくなったからです。そういう彼らは、神様がすべてのことを統制し、支配されておられることを分かっていません。すべてのことを御手に治めているのですから、神様に聞き従うことが、世で幸いに生きるために大事だということになります。

V−神の民が大切にされる道−21〜25
 神の民を愛して、御言葉を与えてくださいました。神様は、ユダの民が御言葉を知るだけでなく、御言葉に生きて、その素晴らしさをその生き様を通して証しし、神の栄光をあらわす尊い者となることを望みました。21節。しかし、罪の性質としては、人は、自分の肉と欲を満たすために生きようとします。人よりも稼いで、所有して、やりたいことをやって、感情のまま怒りをぶちまけ、自分の思い優先して争います。その結果は、一時的な満足であり、空しさと不満の残る人生となります。
 そのように肉と欲を満足させる姿は、人の目には豊かな人生と映るかもしれません。神の民は御言葉に縛られて生きる愚か者だ、と人の目には見えるかもしれません。しかし、肉と欲を満足させる姿は神様の目に悲惨な人生と映ります。神様の目に美しく見えるのは、御言葉に従って生きる人です。人のものを羨んだり、貪ったりすることは、神様に逆らうことであり、罪を犯すことです。自分の肉や欲を十字架につけてしまって、ひたすら御言葉に聞き従う人が、神様の目には美しく、尊い者です。ガラテヤ5:24。
 聖徒が神様とつながっているなら、何も持っていなくても、神様の御力がその人にあらわれ、祈りに応えてくださいます。ですから、この世の成功や肉と欲を満足させる姿を羨ましがらないことです。ところが、御言葉を無視して、肉と欲に従って行くなら、どうなりますか。22節。ユダの民が御言葉から迷い出る時、責任を取ってくれる者は誰もいません。神様の恵みと慈愛は、ただ御言葉の中で生きる者に適用されるものです。
 先が不安ですか。神様は何と言われましたか。23節。御言葉に聞かないなら、確かに先のことは分からず、不安だらけです。しかし、御言葉に聞き違うなら、神様が導いてくださいます。世には、二つの道があります。一つは自分の肉と欲に従って生きる道であり、もう一つは神の御言葉に従って生きる道です。どちらを選んだのですか。自分たちが「主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった」という罪だけでなく、他の人を神様に立ち返ることをさせないで、滅びの道へ向かわせてしまったことです。神の民の人生は、自分のためだけの人生ではありません。
 それ以上そうさせないために、神様は彼らのすべてを奪い、捕囚とさせたのです。24〜25節。捕囚とさせたからと言って、神の民を裁き、見捨てられたわけではありません。愛するがゆえに懲らしめ、立ち返りを待ち望み、霊的成長を求められました。そのために、イエス様の十字架による救いが与えられています。イエス様が罪に対する神様の御怒りをその身に受け、十字架にかかってくださいました。Tペテロ2:24。
 肉と欲に囚われていた者に対して、このような素晴らしい愛と恵みあふれる赦しの福音が与えられたならば、人のすべきことはそれにどう答えるかにかかっています。黙示録3:19〜20。御言葉に聞き従い、イエス様とともに歩む人生です。私たちが自分の肉と欲のまま生きるのでなく、御言葉をつかんで生きるなら、多くの人々を正しい道に導くことになります。私たちが救われて祝福を受けるのはそのためです。



イザヤ42:17 彫像に拠り頼み、鋳像に、「あなたがたこそ、私たちの神々」と言う者は、退けられて、恥を見る。
42:18 耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ。
42:19 わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、【主】のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。
42:20 あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。
42:21 【主】は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。
42:22 これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。
42:23 あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。
42:24 だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは【主】ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。
42:25 そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。



エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

イザヤ65:12 わたしはあなたがたを剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行い、わたしの喜ばない事を選んだからだ。

マタイ15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。

ヨハネ9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

ガラテヤ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

ヘブル12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

黙示録3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

戻る