2015年12月6日「新しい事が起ころうとしている」イザヤ43:14〜28

序−昔はよかった。過去のようにはならないからだめだ。人はしばしば現実を否定し、将来を悲観して、そう言うようです。私たちはどうでしょうか。過去の出来事に囚われていないでしょうか。過去のことで現在のことを決め付けていないでしょうか。聖書から学びましょう。

T−バビロンの手から救い出す−14〜15
 絶望的な状況にある神の民に、神様がどういう方であるかを知らせています。14節前半、15節。「あなたがたを贖われた聖なる方、創造者、王」とは、神の民の先祖たちを救い出した神様は、この時も変わりないということを強調しています。そのような偉大な神様は、昔も今も変わらない、ご自分の民の責任を取ってくださるということです。
 神の民は、自分たちの国が滅び、バビロン捕囚になるような患難が起こるならば、もう神様は見捨てられた、頼りにならないと絶望しました。神様に対する信仰というか、概念が欠けていました。一応神様を信じてはいても、どのような状況になろうとも、神様を信頼し続けるという信仰がありませんでした。先祖たちを救い出された神様は生きておられる方だというならば、神の民が患難にある時神様はどこにおられるのか。彼らは、都合のいい神様を心の偶像としていたので、自分たちが患難に遭うというような場合、神様がいないように思ったのです。
 クリスチャンが真実な信仰に立ち返るならば、まず発見することは、神様がいつもともにおられたという事実です。フットプリントという詩では、患難の間は足跡が一人分でイエス様はともにいてくれなかったと嘆いていたのですが、自分を背負ってくれたイエス様の足跡だったということでした。自分勝手な信仰であった神の民が真実に神様と出会う所とは、どんな場所でしょう。最も悲惨で低いところにいる時でしょう。そこでもっとも謙遜な姿になるからです。肉の熱心やご都合信仰では、神様に会うことができません。ですから、私たちは、困難な厳しい状態の中であっても、謙遜と真実さをもって神様と出会うようになります。
 民が偉大な神様に心を向けるようにさせて、神様は何と言われますか。14節後半。カルデヤ人とは、バビロンのことです。バビロンを倒して、神の民を苦しみから救い出すと約束されました。それ以上バビロンが神の民を抑圧しないように追放するというのです。心が真実に神様に向かうようにならないと、御言葉を聞くようにならないので、まず神様がどういう方であるかを思い出させたのです。ですから、私たちも問題がどうだとか、あの人がこうだとか言ってばかりいないで、真実に神様に立ち返って、神様を信頼することが、何よりも重要です。

U−新しい方法で救い出す−15〜21
 なぜバビロン捕囚になるけれども、帰還することができるという知らせを受け止めることができなかったのでしょう。まず、出エジプトの状況を取り上げておられます。16〜17節。出エジプトのように、奴隷状態だった民族がそろって脱出できた例は世界史の中で他にはありません。それが、どれほど神様の御力と守りによったか。どれほど雄大な導きと豊かな取り扱いだったのか。十の災難、紅海の渡渉など、驚くべきばかりの脱出劇でした。しかし、神の民は、その偉大な過去にとらわれ過ぎました。
 神の民は、先祖たちが経験した偉大な出来事を忘れることなく伝えて来ました。誇りに思っていました。それが肉のプライドとなって、出エジプトの偉大な民が、バビロンに滅ぼされるはずがない、捕囚に会うことなどありえない、バビロンに対してモーセのような偉大な指導者があらわれ、紅海渡渉のような奇跡でバビロンを追払ってくれるはずだと思いたかったのです。しかし、当時の状況は、バビロンに滅ぼされそうであり、捕囚が起こるかもしれない危急存亡の時でした。
 もし出エジプトのようなことが起こらないで、バビロンに国が滅ぼされ、捕囚にされるならば、自分たちは終わりだとしか考えられませんでした。その先のバビロン捕囚からの帰還など思い描くこともできませんでした。過去の経験というのは、励みや希望の元になることもありますが、どこまでも経験であるがゆえに、経験の外に出ることはできません。それ以上のことはありえない、考えることはできないのです。
 私たちも、ここに陥るのです。昔は良かったのに今はこんなだと嘆いたり、今まで出会ったことのない患難に絶望したり、過去見聞きして来た以外のことは考えられないと諦めるのです。そのように神様の導きを自分の経験知の中に押し込めてしまうのです。それでは、あなたの神様はあなたの経験なのですか、ということになります。よく世では「経験知を生かす」というのですが、それは「問題や状況に対して過去の経験の中から似たものをさがして来て、それをあてはめて解決すること」です。それでは、経験以上のこと、過去の出来事以外の問題には適用できないことになります。ユダの民はそこにはまり込んでいたのです。
 私たちの信じている神様はどんなお方なのか、ということに立ち返らなければなりません。私を贖われた聖なる方、造り変えてくださるお方です。イエス様の十字架によって、一方的に滅びから救い出して、私を尊い者として愛してくださるお方なのです。私の救いのためにイエス様を世に遣わされ、十字架に渡されたほどの神様が、私の経験し考えること以上のことはできないというのでしょうか。ローマ8:31〜32。
 経験知信仰という偶像に陥っていた神の民に対して、神様はこう言われました。18節。確かに神様は、過去驚くべき方法で神の民を救って導いてくださいました。しかし、今はそれを「思い出すな」、そのような方法でしか助けられないとは「考えるな」と言われるのです。経験知信仰から抜け出せと言うのです。私たちも、経験知信仰に陥っていないでしょうか。過去の経験だけ見て、それ以上のことを考えないのなら、あの時は良かった、あのようにできればいいのに、今の問題はどうにもならない、と思うようになります。
 イエス様に救われた者は、御言葉の約束を握って生きる者であり、神様の導きを信頼して従う者となったはずではないでしょうか。もはや、彼らは過去にこだわるべきではありません。将来のために生きるのです。過去のことを考えるな、思い出すなと言われるのは、新しい方法で救い出してくださるからです。19節。新しい日が大きすぎるため、過去経験した出エジプトの出来事さえも忘れてしまうほどだというのです。
 確かに、バビロンからエルサレムに帰還する時には、モーセのような偉大な指導者はいません。十の災難も紅海の渡渉などもありません。一度に全民族が大移動するということもありません。実際、神の民がバビロンから解放される時、ペルシャ王クロスを用いられました。帰還の許可ばかりか、神殿再建の許可も、財宝も返してくれて、と再建のための材料まで付けてくれました。いつでも帰ることができます。
 こんな解放や帰還の出来事は過去にありません。考えることもできなかったことです。このようなことの代表的なことは、イエス様による救いです。何と、神様は、私たちを救うために御子イエス様を世に遣わし、私たちの身代わりに十字架に渡され、私たちを罪の奴隷と滅びの縄目から解放してくださいました。ローマ8:2。とても考えられない方法です。
 ですから、イエス様に救われた私たちに対しても、神様は新しい事をしてくださるし、今もうそれが起ころうとしているのです。昔はよかったと言って現実を否定したり、将来を悲観してはなりません。神様が臨んでくだされば、過去の経験しなかった、理解を越えた大いなる事を神様が導いてくださるというのです。エレミヤ33:3。荒野に川が流れるように、荒れたたましいに聖霊の泉が注がれて生き返ります。20〜21節。獣のようになっていた人々も、人間性を回復し、神様を賛美するようになります。
 
V−あなたの罪を思い出さない−22〜28
 では、どうして、バビロンに滅ぼされ、捕囚になってしまうような者たちが、こんなすごい解放と救いを受けるようになるのでしょうか。神様は、神の民として選ばれた彼らが、世の人々と同じように生きて、神様に背いたことを怒っておられます。22〜24節。結局、彼らは裁かれ、国が滅ぼされ、バビロン捕囚となってしまいます。27〜28節。
 しかし、その罪を責められる神様は、同時にその罪を赦してくださる神様です。25〜26節。神様は、自分の罪を悔い改めて御前に出て来る者に、限りない愛と赦しをくださいます。「共に論じ合おう。あなたのほうから述べたてよ」というように、神様は、私たち方から問題をあらわにし、悔い改めることを喜ばれます。過去に囚われている罪を悔い改めて、新しい道を歩んでほしいということです。私たちに熱心に呼びかけておられます。主の御前に出ましょう。問題を持って進み出ましょう。
 何と!「わたし、わたしはあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と強く宣言されました。愛と赦しに満ちたこの御言葉に感動して、悔い改めるしかありません。ただ宣言するのではなく、イエス様の十字架があるから宣言されました。ローマ8:1, ヘブル8:12。過去の出来事や過去の問題に囚われていないでしょうか。イエス様のゆえに罪をぬぐい去り、思い出さないと言われます。悔い改めて、主の新しい導きと救いを信じて、従って行こうではありませんか。使徒3:19。



イザヤ43:14 あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、【主】はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。
43:15 わたしは【主】、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」
43:16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、
43:17 戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した【主】はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
43:22 しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。
43:23 あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。
43:24 あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
43:26 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。
43:27 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。
43:28 それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。」



ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

エレミヤ33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

ローマ8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ヘブル8:12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。

使徒3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。

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