2015年12月13日「わたしの祝福を注ごう」イザヤ44:1〜8

序−こんなに神様に愛されて、選ばれて、御言葉を与えられていた神の民がどうして偶像に走ったり、神様に背を向けたりしたのでしょうか。私たちも、ときおり霊的スランプに落ちてしまう時があります。そんな神の民に対する神様の語りかけから学びましょう。

T−霊的スランプにある者を呼ばれる方−1〜2
 神様は、霊的スランプに陥っている神の民をどのように呼んでいますか。1節。まず、神様がご自分の民を呼ばれるのに、「わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ」という呼び方をしています。神の民には、ヤコブとイスラエルという相反する二つの側面があるためです。二つの名とも、元々は、先祖の一人の名前でした。それが、神の民全体を呼ぶ名となっています。ヤコブという名の人でしたが、人物的には難のある人でした。それが、神様に個人的に出会い、御言葉によって信仰の人に変化した後、その名がイスラエルとなりました。創世記35:9〜10。イスラエルと呼ぶようにと神様から言われたのです。
 ですから、神の民をヤコブと呼ぶ場合は、御言葉によって変化する以前の罪の本性をあらわしています。狡賢いヤコブが人を騙したので、ヤコブは、「だます」ということばの語源ともなっています。創世記27:36。一方、イスラエルという呼び名は、信仰の人として生まれ変わって、聖い者となった本性をあらわしています。ヤコブが信仰と肉の思いの間で格闘していた時、神様の使いが現れてヤコブと格闘するようになりました。ヤコブは倒されてしまいましたが、その時から生まれ変わり、信仰的に生きて行くようになりました。創世記32:24〜28。私たちにも、この両方の本性があるということです。
 神の民が捕囚となったのは、イスラエルとして生きることができなくて、残っていたヤコブとしての本性で生きていたためです。小さなユダ王国が強大国の間で生きて行くためには、御言葉によってヤコブの肉の性質が変えられて、信仰で生きるイスラエルとならなければなりませんでした。神様は、ヤコブの本性を持っていることを承知で、イスラエルとして選ばれたのです。さらにどう呼んでおられますか。2節。神の民が「わたしの選んだエシュルンよ」と呼ばれています。エシュルンという呼び名は、イスラエルの愛称です。可愛らしい意味の接尾語ウンをつけて、愛らしい者を呼ぶ言い方です。イスラエルという国ができる以前荒野をさまよっていた時に、神様は民をエシュルンと呼んでおられました。申命記33:26。
 ですから、ここで「わたしの選んだエシュルンよ」と呼んでおられるのは、彼らを昔から愛らしく思っているという意味です。こう呼んでくださる理由は、なんでしょう。神様がヤコブを助けて、救い出そうとされているのに、肉と罪の思いに長く囚われていた彼らは、そんな神様を忘れてしまい、神様がともにいてくださることも分からなくなります。それで神様は、親が子どもを愛称で呼ぶように「エシュルンよ」と呼んで、「あなたが母の胎内にいる時からよく知っている、わたしがあなたを生んで育てた神なのだから、わたしを信じて従って来なさい」と言われたのです。イエス様を信じている私たちに対しても、そう呼んでくださいます。
 疑問を持つかもしれません。こんなに神の民が始まるときからよく知っておられる神様が、なぜバビロン捕囚にさせるのかと。それでは、こんなになってしまった後で助けようとしたら、遅すぎるのでしょうか。どんなに有能な医者でも、患者が信頼して委ねてくれなければ、治療することはできません。神様が神の民を助けたいとしても、彼らがヤコブの本性に固執しているなら、助け出すことはできません。私たちを愛して、共にいて助けようとされる神様ですが、私たちのヤコブの本性があまりにも強くて、固執している時は、神様は見守っておられます。
 
U−霊的スランプから救い出す方法−3〜5
 ヤコブのように、私たちの方で、人生の責任を自分では取れないことを認め、神様に降参するのです。その時から、神様の恵みと祝福が注がれて来ます。神様は、私たちが立ち返って、信頼して委ねるならば、私たちのたましいを治療して、回復してくださるお方です。3節。「潤いのない地、かわいた地」とは、彼らの渇いたたましいを譬えています。そこに水を注ぐとは、彼らを再び生きるようにさせるということです。
 神の民がバビロン捕囚になるのは、神様に拠り頼み続けなかったためです。神の民の力は、軍隊や財宝にあるのではありません。ただ神の御力にありました。彼らは、自分たちは信仰で生きなければならないということを忘れていました。私たちが、霊的スランプに陥るのも、同じです。自分の肉の思いでいっぱいになり、神様に拠り頼むことを忘れてしまうと、心は渇いて、空しくなります。自分の肉のプライド、思い通りにしたい我欲、そういう肉と欲に支配されるならば、霊的スランプに陥ります。神様は見えない御手をもって守ってくださると約束されています。私たちは、ただ御霊の御力で生きるようになっています。聖霊に満たされなければ、肉と罪の思いに打ち勝つことはできません。私たちの内に聖霊が臨むなら、肉と欲に打ち勝って、心が満たされて来ます。
 バビロン捕囚となった彼らに、どのように御霊の働きが起こるのでしょうか。どうして捕囚の地で聖霊に満たされるようになるのでしょうか。そこにも神様の御言葉がついて行くからです。彼らを愛して、彼らの罪を赦すという祝福が伝えられます。それを通して、彼らの心に神様を慕い求める思いが沸きあがって来るようになります。そうして、再び神様の祝福が彼らに与えられるようになります。霊的スランプから抜け出すには、御言葉を握って、祈ることです。そうすれば、御霊の働きがあふれ出て、死んでいたたましいが生きるようになります。ルカ15:24。水に潤う柳は、木々の中でも早く育つそうです。4節。そのように、新しい人として霊的成長することになります。
 誰が、「私は主のもの」だと言っていますか。5節。やがて、異邦人の中から福音を聞いて、主を信じるようになる者たちが出て来ます。イエス様が十字架にかかられることによって天国の門が開かれ、イエス様を信じることさえすれば、誰でもイスラエルとなって、ヤコブとなることができます。今イスラエルの名を名のるのは、誰ですか。私たちです。私たちも、霊的スランプから抜け出すヤコブの祝福を受けることができます。
 「私は主のもの」だという思いがないから、肉や欲、様々な偶像に自分を属させてしまいます。自分は自分のものだと肉の思いになれば、肉や欲、様々な偶像の囚われとなります。主のものになることが、私たちにとって幸いなのです。「私は主のものだ」と言ってみましょう。手に記すというのは、いつも覚えて、忘れないということです。詩篇100:3。「私たちは主のもの」です。主のものなら、主の祝福を受けることができます。

V−力ある人生を生きる方法−6〜8
 それでは、そのような祝福を受けて、御霊の力を受けて生きる秘訣は、何でしょう。肉の自分に死んで、御言葉を握ることです。イエス様の十字架に救われたというのは、イエス様の十字架とともに古い肉の自分は死んだのです。ローマ6:6〜8。神様は私たちをイエス様の十字架のゆえに罪と滅びから解放してくださり、ご自分の愛する子どもとしてくださいました。ヨハネ1:12。ヨハネ12:1。御言葉をつかんで生きるなら、神様が責任を取ってくださいます。神様が私たちを救ってくださるからです。6節。神様は、ご自分の民に必要なすべてを所有し、すべてのことを決定されるお方です。
 神様が演出家であり、私たちは俳優と見ることができます。一流の俳優は、監督や演出家の願うように演技するそうです。ですから、私たちは御言葉をつかんで、主の御心にそうように生きるのです。そうすれば、神様は御言葉につかんで生きる者の人生の責任を取ってくださると約束しておられます。御言葉で世を創造された神様は、御言葉で私たちを導き、御言葉で困難を解決してくださいます。
 ですから、神様は私たちに多くの御言葉をくださいました。8節。とりわけ、旧約の民は多くの御言葉を与えられました。ところが、彼らは、その御言葉がどれほど重要であるか分かりませんでした。7節。バビロン捕囚の時、偽りの預言を求め、偽者の預言者に聞きました。エレミヤ27:14。ヤコブ的な人は、自分の都合の良いことを言ってもらおうとし、肉の思いに合うことだけを聞こうとします。Uテモテ4:3〜4。現代も同じです。世には肉の思いを満足させる多くの情報が氾濫しています。神様はどんな人を祝福してくださいますか。御言葉を信じて霊的に変えられる人々です。こんなにも、あなたを愛し祝福してくださるお方に人生を委ねませんか。
 御言葉こそが世の何よりも確かであり、自分の肉の思いに立つことは危ないことです。8節。神様の別名の一つが「岩」です。この岩の上に立つなら、その人生はびくともしません。人の目で見れば、自分の力により頼んで生きる方が確かだ、神様に拠り頼む人は弱く愚かに見えるかもしれません。しかし、私たちが御言葉を握って、神に頼り、御言葉を証ししている間は、安全です。御言葉自体に力があるからです。もし、私たちが肉の思いを満足させるものに心を向け、その上に立とうとするなら、私たちは岩を失うことになります。霊的スランプに落ちないように、「私は主のもの」だと言って、御言葉を握って、神様に拠り頼んで生きます。詩篇71:3。



イザヤ44:1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
44:2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。
44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
44:4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。
44:5 ある者は『私は【主】のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『【主】のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」
44:6 イスラエルの王である【主】、これを贖う方、万軍の【主】はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
44:7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。
44:8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。



創世記32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。

申命記33:26 「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。

詩篇100:3 知れ。【主】こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。

ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

エレミヤ27:14 『バビロンの王に仕えることはない』とあなたがたに語る預言者たちのことばに聞くな。彼らはあなたがたに偽りを預言しているからだ。」

Uテモテ4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

詩篇71:3 私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。あなたこそ私の巌、私のとりでです。

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