2017年4月2日「しかし、あわれみ豊かな神は」エペソ2:1〜6
序−アメージング・グレースという有名な賛美歌があります。「驚くべき恵み。私のように悲惨な者を救って下さった。かつては失われたが、今は見つけられた」という歌詩です。救いの驚くべき変化を賛美しています。今日の箇所を通して、私たちも驚くべき救いの変化を学んで賛美します。
T−罪の中に死んでいた者、世の流れに従い−1〜3
救いの恵みは、驚くべき変化です。どれほど大きな変化なのかを知るためには、それ以前の姿を見なければなりません。よくビフォアー・アフターと言って、何かをした後の変化の凄さを示すためにそれ以前の姿を取上げています。聖書もそうです。まず救われる前の姿、ビフォアーを説明しています。自分の過去の姿を見てみなさいと言われるのです。1〜3節。
私たちは、かつて罪過と罪の中で死んでいた人だと言われています。確かにここで言われているような姿は、悲惨であり、死んでいるのと同然です。罪にはそれるという意味があります。人が神様からそれて、反抗している姿をあらわしています。人は神によって造られた者であることを否定します。誰かが自分の上に君臨するのを嫌い、神が自分を創造されたことを否定するのです。
神様から離れているなら、人はいつも自分自身で十分だと思っています。本来、人は神様によって造られた者であり、神の助けを受けて生きており、神様と交わり、御言葉に聞き従っている時に幸いである存在です。にもかかわらず、自分で世を生きて行けるように錯覚してしまうのです。子どもたちがまるで自分一人で生きていると考えるのと同じようです。自分の能力を信じているので、神様の恵みや助けは必要ないと考えています。これが、アダムのときからの人の罪の性質なのです。
神様から離れ、神様に背いて、本当に一人で幸いに自由にしっかり生きて行けるのでしょうか。いいえ、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊、すなわちサタンに支配されてサタンに従って生きるようになったというのです。空中という言葉が、目に見えない存在だからサタンがいないと思い、支配されていることを知らないのを物語っています。そして、肉と欲の中に生き、肉の心の望むままを行って生きるようになりました。なぜ、妬みや争いが満ちているのですか。人を憎んで、怒って、妬んで、心がトゲトゲになって、不平と不満でいっぱいになるのですか。罪の中で死んでいるからです。
「世の流れに従い」というのは、以前の生き様を示しています。エペソの聖徒たちは、偶像アルテミス女神で有名な社会の中で、悪徳と欲望と淫乱に流されて生きていました。現代も、世に流されるという点においては、同じです。主の前に立ち止まり、御言葉の前に静まるならば、流されていることに気付かされます。Tヨハネ2:15〜17。
アメージング・グレースを作詞したジョン・ニュートンは、7歳で病気の母と分かれ、11歳から船長の父にならって、船乗りになりました。残忍な奴隷船で働くうちに心すさみましたが、嵐の中で回心し、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」を読んで、母から伝えられた信仰に立ち返りました。人生のどん底をさまよっていた自分を救い出してくださった神様の慈愛とあわれみを賛美するその歌詞が人々の心を打つのでしょう。
U−あわれみ豊かな神、愛のゆえに−4
サタンに支配され、罪の中で死んでいたという悲惨な姿が変化する機会があります。4節。「しかし、あわれみ豊かな神は」という接続語「しかし」が目に飛び込んで来ます。1〜3節と5節以下をつなぐ重要な語です。罪と咎に死んでいた、世の悪と欲に流されていた、サタンに支配されていた悲惨な姿であった、御怒りを受けなければならなかった私たちを神様はあわれんでくださいました。
しかし神のあわれみ豊かさを味わうためには、神がどういうお方かを知らなければなりません。絶対主権の創造主です。何でも御旨のままに行うことができ、私たちはなぜそうするのかと責めることもできません。また神は、聖なるお方です。罪を嫌い、憎み、罰しないではおられないお方です。人が罪を犯すたびに天から雷が降り罰を受けなければならないのに、罪を犯した人がよく生きているので、罰なんてないのだ、無条件で赦されるのだと思い違いをしています。やがて審判があるし、今は悔い改めを待ってくださっておられるのです。
そのような神は、同時にあわれみ深く恵みで愛に満ちたお方だと知ることができます。詩篇78:38。神様は、聖なる方で罪を罰しないではおられないお方であるにもかかわらず、私たちをあわれみ、愛し、私たちに恵みを与えてくださいました。私たちは、救いの恵みにおいて、神様の絶対的主権と聖さと御怒りを知れば知るほど、より大きな感動を覚えることができます。神様の愛とあわれみを受けた私たちが、どれほど悲惨であったかを知るならば、その恵みをそれだけ大きく感じることができます。
私たちは、罪に死んでいた人でした。死んだ人は何もできません。罪と咎のために死んでいたことを考えると、救いの恵みを受けたことがどれほど大きいことが分かって来ます。私たちは、サタンの支配下にあって、肉と欲の中でいました。世において人々が罪と悪を行うのは、サタンがその心を操縦しているからです。お酒や麻薬やギャンブル、争い憎しみ妬み、破壊と否定と混乱、そうした環境のせいだけでなく、環境を通してサタンが働いているからです。
いくら良くない環境にいたとしても、聖霊の働きの中にある人は、同じ環境でも罪にほんろうされることはありません。環境や人のせいにするのではなく、自分自身が、罪を赦し救ってくださる神の御前に出なければなりません。環境や人のせいにしている間は、変化も前進もありません。罪については、私たちはすでに死刑宣告を受けた者であり、到底自分では回復することのできない悲惨な境遇にあったのです。全的堕落と言います。神学者アウグスティヌスは告白論の中で、「人は一握りの土に過ぎず、罪によって死ぬしかない」と言いました。
V−キリスト・イエスにおいて−5〜6
では、絶対主権を持ち、罪を嫌い、怒られ、罰しないでなおかない神様が、なぜ罪に支配されて滅ぶしかなかった私たちを救ってくださったのでしょうか。5〜6節。あわれみ豊かな神は、イエス様の十字架の死と復活によって、罪のために死んでいた私たちを救い、死からよみがえらせてくださいました。神は、正義の神であるとともに、愛の神でもあられます。罪と肉の思いに支配されている時は、孤独感を感じることが多いでしょう。私を理解してくれない、私の側に立ってくれない、一人ぼっちだ、誰も慰めてくれない、寂しいという思いがあります。ところが、イエス様の十字架を信じて救われると、聖霊が内住してくださることを学びました。主が一緒におられ、同行してくださることを悟るようになります。
この5節6節にもそのことが強調されています。「キリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて」と、「ともに」が繰り替えされています。キリストと共に死からよみがえらされ、キリストと共に生きる者とされたと強く宣言しています。過去には、私たちは霊的に死んだ人でした。主を知ることができず、人を知ることができず、孤独でした。しかし、今、イエス様にある新しい命が私たちに与えられ、イエス様と一緒にいることによって、平安が与えられ、寂しい心が満たされ、天国への希望を見出したのです。
イエス様が私と一緒におられることの意味が分かるようになれば、どんなに感激でしょうか。イエス様に出会ってください。イエス様の十字架の死が私の身代わりだと信じてください。信じたなら、イエス様が私と同行していることを悟るように願います。イエス様は、ご自分と私たちの関係をぶどうの木にたとえられています。ヨハネ15:4〜5。イエス様はぶどうの木で、私たちは枝です。私がイエス様にとどまり、イエス様が私にとどまるなら、人生に実りがあります。枝はぶどうの木につながっていなければ、実ることができず、枯れてしまいます。
この3つの言葉は、「生かす、よみがえらせる、すわらせる」という言葉に、接頭語スン「ともに」を付けた合成語です。過去には霊的に死んでいたけれども、今はイエス様とともに生かされています。肉体は死ぬけれども、イエス様が復活されたように、私たちも復活する者になりました。イエス様が昇天されて、天国の御座におられるように、私たちもその日が来れば、天国に行くようになるというのです。これが、救われた後の姿、アフターです。
この3つの言葉はみな過去形になっています。イエス様を信じて救われた者は、この世に生きているのですが、すでに天国の国籍となり、神の支配を受ける神の民となって生かされているということです。救われたということは、もう一人ではありません。イエス様とともに生きる人生になりました。驚くべき救いの変化を享受しましょう。ローマ6:23。
エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
Tヨハネ2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。
詩篇86:15 しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。
ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
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