2018年1月7日「障害を克服する」マルコ2:1〜12

序−大統領選挙に敗北したクリントン氏は、ガラスの天井を敗れなかったと言っていました。ガラスの天井とは、駄目だ無理だという思いが作る障壁のことで、キャリアアップなどを阻むものになぞらえたりします。誰の心にもガラスの天井があるでしょう。私たちは、信仰でもってそれにどう取り組むのでしょうか。今日の箇所に登場する人々の姿を通して学びます。

T−精神的、物理的障害を克服して−1〜4
 カペナウムの町にイエス様が来られたといううわさが町中に広まりました。「イエスという方が神の国の福音を教えて、人々の病気を癒している」といううわさを聞いたある中風の人は、どうしてもイエス様に会いたいと切実に願いましたが、自分一人ではそこに行くこともできない、無理だと思いました。でも、その話を知らせてくれた友人たちが、我々が連れて行こうと行って、イエス様のおられる家へと出発しました。1〜3節。
 こうして、今回の出来事が始まります。この中風の人が、行きたいけど駄目だ、一人では無理だという心の障壁、障害を持ったままならば、話はそこで終わりです。皆さんはどうですか。よくそう言わないですか。彼には、信仰の友人たちがいました。伝道者4:9〜10。彼らが、寝床ごと彼をイエス様の所へと運んでくれたのです。私たちにも、信仰の友がいるのではないでしょう。信仰に生きるには、チームワークが必要です。こうして、まず、一人では無理だという障害をチームワークで克服できました。
 しかし、四人が中風の人を運んでイエス様のおられる家に着いてみると、大勢の人々が集まっていたので、入り口から入ることができませんでした。とてもがっかりして、落胆したでしょう。やっぱり無理だったと引き返したのでしょうか。彼らは考えました。どうにかして会わせたい、何か方法は無いだろうか、話し合い、祈りました。ヤコブ1:5。そして、行動しました。何と、屋根をはがし、中風の人を寝床ごとつり降ろしたのです。4節。主に会いたいという情熱があれば、方法を見つけることができます。私たちも、仕事や家庭、勉強の問題についてこのように取り組みましょう。
 4人の友人が中風に苦しむ友達をイエス様の前に連れて来るには、様々な障害、障壁があったでしょう。障害物は、屋根だけではありません。人には、世間的体面、長い間の習慣、時間や距離(何と思われるか、したことがない、時間がかかる、遠い)など数多くの障害や障壁が心に潜んでおり、それらを克服して来なければなりません。私たちにも、数多くの障壁や障害が私たちの思いを制限し、行動を妨げて、前進や向上をさせません。仕事や学びのこと、進みたい道、やらなければならないことについて、私たちも、様々な障害を克服しなければなりません。
 私たちへの適用のために、彼らの障害物と克服を調べてみましょう。人々が一緒に何かをする時、勝手な思い、不一致という障害物があります。4人一緒に行動するには、心一つになるということが障害を克服します。一つとなるということは、奇跡が起こる重要な要因です。教会も、聖徒たちが一つとなる時、聖霊が働き、奇跡が起きます。私たちは、一致したとりなしの祈りが癒しを引き出すことを体験しています。
 この場面の一番の障害は、群集でした。その家まで運んで来ても、人々が多くてイエス様に会うことができませんでした。友人たちは、この障害を克服して、イエス様に会いました。エリコの町のザアカイも、12年間長血を患っていた女も、物乞いのバルテマイも、群集のためにイエス様に近づけなかったが、そのような障害を克服して、奇跡の主人公になりました。ルカ19:4,マルコ10:46,ルカ8:43。人のせいで機会を逸することがありませんでした。
 そして、屋根に穴を開けるという手間、費用を惜しみませんでした。犠牲を払うことを厭わず、時間や労苦という傷害を克服したのです。時間や費用を言い訳にしたら、中風の友達の癒しは起こりません。私たちには、どんな障害物や心の障壁があるのでしょうか。見えざる屋根が自分の思いや行動を妨げているのではないですか。自分の精神的、物理的障害を克服するには、どうしたらよいのでしょう。祈りながら、黙想してみましょう。信仰をもって、取り組みましょう。

U−罪という障害を克服して−5〜9
 イエス様は、彼らの行動を見て、それが彼らの信仰のあらわれと見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。5節。なぜ、病気の癒しを言うのでなく、罪の赦しを言われたのですか。ここに、人が新しく生きるための大きな障害があります。罪という大きな障壁が、人が新しく変わることを妨げています。病気であろうと強健であろうと、罪という障害があって、その人の魂が病んで行きます。その罪が癒されて、たましいも健康で生きることができます。たましいの癒しのためには、罪の囚われから解放されなければなりません。
 罪の赦しは、この中風の人、本人に信仰があったからです。罪の赦しは、周囲の人の信仰で受けることはありません。「彼らの信仰」には、中風の人自身も含まれています。どんな人にも罪はあります。新しく生きるためには、罪の赦しが必要です。この人にもあったでしょう。不自由な体になって、誰かのせいだと恨んだかもしれない、自分のせいだと自分を責めていたかもしれない、思ったようにしてもらえず怒りや不満を持っていたかもしれない、こんな状態にしたと神様をのろったかもしれません。
 罪の赦しと罪の囚われからの解放があってはじめて、断絶していた神様との間に和解が生じ、たましいは癒され、健康な心で生きることができます。病気の癒しだけで、罪の赦しが伴わなければ、かえって悪い結果を及ぼす例もあります。この場に、律法学者という御言葉をよく知っていながら、自分の病んだたましいに気付かず、罪の赦しを求めなかった人々がいました。6〜8節。罪に気付かないという大きな障害があったのです。
 私たちは、この律法学者を他人事と見ることはできません。彼らの悲劇は、罪の赦しを知りながら、罪の赦しを求めていないことです。私たちも、御言葉を知っていながら、御言葉に信頼していないなら、彼らと同じです。罪を学んでいながら、自分の罪に気付かないなら、何と空しいことでしょうか。罪の赦しを知っていながら、罪の赦しを求めないなら、何と愚かなことでしょう。罪と言う最大の障害物は、そのままです。神様のあわれみと恵みを受けて変わることはありません。
 イエス様が、「あなたの罪は赦されました」と言えるのは、イエス様が信じる人々のために十字架にかかってくださったからです。イエス様は、私たちの最大の障壁、障害である罪のため、罪の赦しと罪からの解放のために、私たちの代わりに十字架にかかり、苦しみ、死なれました。身代わりの十字架という大きな犠牲を払ってくださいました。Tペテロ3:18。
 人は、精神的な障害を多く抱えています。多くの人々が深刻な精神的障害をもって生きています。私たちも、克服すべき精神的障害があります。失望落胆、不安や恐れが心を病むようにさせ、誰かを憎んで、赦せない思いが心を傷つけ、神様を信頼していない罪が不信仰へと運びます。

V−不従順という障害を克服して−10〜12
 様々な精神的、物理的障害を克服し、罪という最大の障害を克服したこの中風の人に最後にもう1つの障害を克服する必要がありました。イエス様は、この中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。11節。病気の癒しを宣言してくださいましたが、それで、病気は癒されて、歩けるようになったのでしょうか。
 ここで注意すべきことがあります。イエス様が言われたのは、「起きなさい」と言うだけです。手足が麻痺している中風の人にとって、このイエス様の命令は実現不可能なことです。そんなこと無理だ、私にできるわけがないと言っていたら、家で空しくベットに横たわっていた時へ戻ってしまいます。私たちにも、様々な局面で御言葉の約束が与えられ、具体的な導きが与え与えられます。しかし、そこで御言葉はそういうけれども、無理だ、私にはできない、と見えない屋根でおおってしまうのです。
 この中風の人はどうしまたか。12節。「すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、出て行った」というのです。これが、信仰です。そんなことは普通起こるわけがない、無理だと思われますか。お医者さんがリハビリすれば動くようになりますと言っても、しなければ動かないままです。努力すれば勉強ができるようになると言われても、しなければできるようになりません。これを無理だ、なるわけがないと言われますか。
 今日でも、イエス様の御名によって、立ち上がることができることを信じてください。中風の人が立ち上がって、出て行くのを見た人々は、神をほめたたえました。12節。私たちが御言葉に従順になって、立ち上がり、信仰に生きて、変えられるなら、人々への素晴らしい証しとなります。この新しい年も、障害を信仰で克服して行く歩みとなりますように願います。私たちも、信仰の友とともに様々な障害を乗り越え、飛躍と前進の一年となりますように祈ります。ローマ12:12。





マルコ2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。



伝道者4:9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
4:10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。

ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

ローマ12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

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