2018年1月14日「たましいの医者であるイエス様」マルコ2:13〜17

序−自分の内面と向き合うことがあるでしょうか。そうすると、自分が抱えている問題ややりたいことの理由が見えて来ます。考えるほどに醜い目的が出てきたり、思ってもみなかった自分が見えて来たりします。そして、葛藤を覚えることになります。今日の箇所に登場する人も、そうだったようです。そこから私たちへのメッセージを受けたいと願います。

T−葛藤する心−13〜14
 イエス様が湖のほとりに出て行かれると、群衆が集まって来ました。イエス様は、彼らに教えられたが、その群集をあとにしてカペナウムの収税所へ行かれました。13節。そのような行動をとられたのは、わけがあってのことでした。その収税所で、レビという人に目をとめて、「わたしについて来なさい」と言われました。14節。なぜ、この人に目をとめられたのでしょう。この人の内面をご覧になったからでした。
 このレビという人の職業は、取税人です。現代でいえば税務署員、それならば、実直な公務員というイメージですが、当時のイスラエルでの取税人はかなり様相が違います。イスラエルを支配していたローマ帝国は、税を取り立てるのに、内情を知っている現地の人々を取税人としました。取税人は、ローマに納める税の他に自分の収入とするための分も取り立てました。決まった額さえ納めれば、後は自分のものです。ですから、ローマ圧制の手先、反逆者とみなされ、民の取税人に対する憎悪は凄まじく、嫌われ蔑まれました。多くの取税人は、嫌われれば嫌われるほど、威張って冷酷に徴収し、裕福な生活を追求しました。
 こんな取税人に目をとめて、イエス様は弟子として召し出されました。レビも、すぐに立ち上がって従いました。なぜでしょう。イエス様はレビの内面を見ておられましたが、レビ自身も自分の内面と向き合っていたからです。レビは、自分の内面を見つめなおして、葛藤していました。裕福で権力を持っていたけれども、幸福ではありません。これでいいのだろうか、こんな人生でいいのだろうか、と悩んでいたのです。人々に憎まれ、蔑まれながら取税人として生きて来て、心は傷だらけでした。何とかしたいと思いながらも、変わることができませんでした。仕事をこなしながらも、彼の内面は、日々葛藤の中にありました。
 私たちは、自分の内面と向き合っているでしょうか。自分の中にどんな葛藤がありますか。どんな問題を抱えていますか。生活の有り方、人間関係、仕事や勉強の取り組み方等、どうでしょうか。自分の内面と向き合ってみるならば、自分の肉の思いに気付かされたり、思っても見なかった自分が見えてきたりするでしょう。レビのように葛藤を覚えるでしょう。以前から気付いてはいても、どうにもできなかった、変わることができなかったということもあるでしょう。
 その仕事柄、レビは世情に詳しく、イエス様についての情報もしっかり得ていたことでしょう。御国の福音を伝え聞いて、イエス様なら、私の心を癒して、人生の問題を解決してくださると思っていた。それで、レビは、イエス様に呼ばれた時、すぐに従うことができました。私たちも、葛藤の中で、「わたしについて来なさい」と自分を呼んでくださるイエス様の声を聞きましょう。

U−イエス様に従った姿−15〜16
 イエス様に従うということは、イエス様を救い主として信じて、自分の人生にイエス様を迎えることです。黙示録3:20。イエス様に救われて、心の葛藤を癒していただいたレビは、変わりました。内面の傷が癒された変化の証拠がすぐあらわれています。15節。それまで孤独だったレビは、嬉しくて、感謝して、イエス様や弟子たち、そして大勢の客を家に招いて、食事をもてなしました。
 レビが招いた人々に目をとめましょう。イエス様たちだけでなく、取税人や罪人たちも招きました。自分と同じ取税人たちとユダヤ人の律法で罪人扱いを受けていた人々も招待しました。他の人々から招待されることのない人々です。なぜ、そのような人々を招待したのでしょう。自分がイエス様に出会って、葛藤と痛みから救われて、癒されたからです。彼らも救われて、癒されてほしかったからです。これが、証しの原点です。私たちの周りにも、イエス様に出会う前のレビのような状態の人々がいます。もちろん、表面的には、葛藤や問題がないように生きているでしょう。でも、その内面には、隠された痛みがあります。葛藤をかかえています。ふとした時にあらわれ、深く交われば、話してくれます。私たちは、どう反応しますか。どう助けることができますか。レビの姿が教えています。
 人々の人生の傷がどれほど大きいでしょうか。どれほど葛藤を抱きながら生きていることでしょうか。私たちは、自分が傷の痛みと癒しを体験しているなら、そのような人々にも、レビの内面を見たイエス様の視点が必要です。自分も傷んでいたなら、この人もきっと傷んでいるだろう、自分も葛藤していたならば、この人も葛藤して苦しんでいるにちがいない、そう思うならば、助けないではいられません。証しも伝わります。
 ところが、そのような視点のない人々が登場します。16節。ユダヤ人社会の指導者であったいわゆるパリサイ人です。彼らは、よく聖書を知っていました。社会の指導者です。外見は立派に見える人々でした。彼らは、「イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしている」と批判したのです。自分たちは、立派だとして、罪人や取税人を蔑み、一緒に食事をすることを禁じていたのです。
 彼らには、大きな問題があります。自分の内面を見ていないということです。だから、罪人や取税人を蔑みました。御言葉を学んでいるなら、自分たちの罪も分かっているはずです。ローマ3:23。御言葉と肉の思いの間で葛藤するはずです。御言葉を読み、黙想するならば、内面が病気になっていることに気付きます。しかし、自分の内面を見ることなく、人々を批判して蔑んでいました。人を助けて、仕えようという思いは起きませんでした。学びと知識で満足し、御言葉を自分に適用していなかったからです。
 私たちも、礼拝やセルグループ、NLSで御言葉を学びます。もし、それが学びや知識で終わるなら、造り変えられることがなければ、パリサイ人の姿を他人事とすることはできません。人の批判に終始していませんか。自分も同じだったと思わないですか。私たちも、イエス様の愛とあわれみのゆえに、十字架に救われて、心の傷を癒された者です。内面を見つめ直すことをしなければ、自分の傷を人や環境のせいにして、傷や葛藤の中にいる人々を退けたりするでしょう。イエス様の視点を見失っています。
 自分の内面と向き合うことは、辛い作業です。肉の自分を見るのは嫌です。醜い動機や目的があらわれ、涙も出て来ます。私たちは、仕事や人間関係の問題、精神的な問題など様々な問題に出会い、その問題を解決するに、自分の内面と向き合わざるを得なくなります。それがいいのです。私たちが御言葉を黙想する時、リトリートの祈りをする時が、まさに自分の内面と向き合うチャンスです。

V−たましいを癒すイエス様−17
 イエス様は、パリサイ人の批判に対して、何と言われましたか。17節。イエス様は、医者が病人のためにあるように、ご自分が罪人を招くために来たたましいの医者だと言われたのです。イエス様は、すべての人を医者が必要な病人と見ました。罪人という病人です。病人だと知っているなら、治療を受けることができます。知っていなければ、たましいの治療を受けることはしません。イエス様は、なぜ長患いの人に「よくなりたいか」と言い、中風の者に「起きなさい」と言われたのでしょう。ヨハネ5:6, マルコ2:11。癒しと恵みを受けようとする意志と信仰を求めておられたのです。
 イエス様は、たましいの医者です。私たちのたましいの状態をよくご存知です。的確に診断されます。そして、救いと癒しを求める者の人生の問題を解決してくださいました。Tペテロ2:24。霊的に病んでいる私たちを、罪人となった私たちを呼び出してくださり、救いと癒しへと導き出してくださいました。立ち上がるなら、どのような状態であろうと療されます。
 レビもパリサイ人もたましいの病人でした。私たちも、イエス様の救いとたましいの癒しを必要とする病人、罪人です。誰も自分が癒しを必要とする病人だからと引け目を感じてはなりません。誰もパリサイ人のようになってはいけません。もし私たちが病院に行って、他の人を見てああ病人がいると言うでしょうか。私は病人だと遠慮しますか。こうして、イエス様を信じて、礼拝をささげている私たちは、堂々とイエス様の癒しを求めるのです。たましいの傷が癒されることを信じてください。
 レビは、イエス様に出会った後、名前がマタイに変わりました。あの使徒のマタイであり、マタイの福音書を書き残した人です。マタイとは、「神の贈り物」という意味です。傷だらけのレビは、その後神様の恵みのうちを歩む人生に変えられました。イエス様は、収税所に座っていたレビを見た時から、彼の内に偉大な伝道者マタイの姿を見ておられたのです。過去ではなく、未来を見つめたこのイエス様の視点が、私たちには必要です。今の環境や都合で縛られている生活を絶対視してはいけません。誰でも、イエス様を信じるなら、古いものは過ぎ去って、癒されて、新しくされるからです。Uコリント5:17。



マルコ2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」




黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ルカ19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

ヨハネ5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。



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