2018年1月21日「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」マルコ2:18〜22

序−今日経済成長一辺倒の社会から持続可能な社会へのパラダイムシフトが起きています。パラダイムシフトとは、ある時代や分野において支配的であった物の見方や捉え方が根本的に劇的に変わることを言います。信仰も、聖書から何か一部を取り入れるのでなく、信じる者の考え方や生活に根本的な変化、パラダイムシフトが起こるものです。

T−古い考え、価値観が変わる−18〜20
 パリサイ人は、律法を守ることが信仰だと考えていました。それで、彼らは、断食をしていないイエス様の弟子たちを批判し、文句を言いました。18節。断食というユダヤ人の宗教的習慣は、元々精神的な健康のために行っていたものが、自分の栄光のために見せるものになっていました。パリサイ人は、過去にとらわれた人です。人は誰でも、過去の影響を受けています。重要なことは、そのような過去の痕跡が、自分の人生の発展を阻んでいるということです。過去が詰まっていれば、いくら新しいものを加えても、新しい人生を生きることはできません。
 パリサイ人は、パラダイムシフトが起きない典型的な人々です。パリサイ人は、救い主イエス様が来られたにもかかわらず、自分たちの伝統的思想や固定観念に固執して、イエス様を受け入れませんでした。パラダイムシフトは、伝統的な考え方の転換、固定的観念や意識の根本的な変化をもたらすものです。慣れている習性から果敢な跳躍を試み、求めることです。ですから、パリサイ人のような人々は、反発し、抵抗したのです。
 イエス様は、結婚式のたとえを通して教えてくださいました。19〜20節。イエス様を花婿にたとえています。結婚式は、もっとも嬉しいお祝い事でした。その時には断食などしませんでした。イエス様が救い主として来られたのだから、喜び祝うべきであり、イエス様が一緒なのに断食などしません。しかし、花婿が取られる時、すなわちイエス様が十字架にかけられる時には、悲しんで断食すると言われました。聖書は、律法を守ることで救われ、義とされるのでなく、イエス様の十字架を自分のためと信じることで、罪赦され、義とされると教えています。ローマ3:20,24。
 熱心な奉仕や敬虔な生活が悪いということはありません。イエス様のいない熱心や経験は、肉の自分を誇るものであり、聖徒たちの日々の生活は、福音に基づいていかなければなりません。それまでの自分中心の原理と方法で生きて来た暗の時代から、イエス様中心の明るく輝く時代へ移行しているのです。花婿が花嫁と新生活して行く時の最大の困難は、思考や習慣の転換です。なぜ夫婦喧嘩が起こるのでしょうか。考え方や感じ方の違いを把握して、時には自分の考えや習慣をしまうなら、争いは少なくなるでしょう。私たちの以前の考えや習慣に固執していては、新しい生活へ移行するのは難しいのです。信仰のパラダイムシフトを妨げている自分の考えや習慣とは、何でしょうか。

U−新しい人を着る−21
 イエス様を信じても、その人自身は少しも変わらず、恵みだけ求め、聖書の都合の良いほんの一部だけ参考とし、以前の考えや習慣のまま生きようとするなら、パラダイムシフトは起こりません。それは、「真新しい布切れで古い着物の継ぎをする」ようなことです。21節。「真新しい布切れ」とは、イエス様を象徴しています。「古い着物」とは、自分の考えや古い習慣のままでいることです。福音を昔のままの枠組みで受け入れようとすると、無理が生じます。肉の思い、古い人のままで、福音に生きるのは、困難が伴います。かえって、不都合が生じるでしょう。
 なぜ、信仰を持っているのに、信仰の恵みに味わえないのでしょう。なぜ、救われたのに、喜びがないのでしょう。なぜ、御言葉を知っているのに、御言葉のダイナミックな適用がないでしょう。なぜ、困難や憂いを覚えるのでしょう。真新しい布切れで古い着物の継ぎをすると、どうなりますか。収縮する新しい継ぎ切れが、かえって弱くなっている古い着物を引き裂いてしまいます。パッチワークをされる姉妹方は、このたとえをよく理解されるでしょう。
 イエス様を信じた聖徒たちではあっても、古い着物のままであるなら、このことが起こります。肉の思い、習慣、世の価値観で福音を聞いても、心が受け付けないし、難しいと片付けてしまうのです。もちろん、クリスチャンになったのですから、聖書の学びはよくするし、知識もあるでしょう。でも、生き方と生活の変化につながりません。古い着物が継ぎで破れるように、御言葉を聞きながら、葛藤や反発も生じます。
 イエス様を信じるということは、以前よりましな者となるという程度ではなく、滅び行く罪人が全面的に罪に死んで新しい人に生まれ変わるのです。ローマ6:6〜9。古い人が十字架とともに死んで、新しい人としてイエス様と生きて行くのです。これが、福音の力、変化です。古い服が破れてしまえば、新しい服を着るでしょう。御言葉は、古い人を脱ぎ捨てて、心新しくされ、造り変えられた新しい人を着なさいと命じています。エペソ4:22〜24。
 明治時代の話です。一人の大学教授が、日本の精神的な師と仰がれる人を訪ねました。何か新しいことを教えてくれると思っていたのに、その師は、お茶をこぼれても入れるだけで、何も教えてくれません。教授はがっかりして、言いました。「お茶が溢れていますが。」すると、師は答えました。「この茶碗のように、あなたの中にはあなたの考えと結論がいっぱいに満ちています。そのために、これ以上新しいことが入って行く場所がありません。あなたの茶碗を空にしないなら、何もあなたにさしあげることはできません。」

V−新しい命に生きる−22
 パラダイムシフトが起こると、その思想や研究は大きく発展して行きます。福音も同じです。神の御子イエス様の尊い犠牲でもって与えられた救いは、信じた人の人生に恵みと祝福を与え、その人を成長させます。働きや学びも進みます。それほど、福音は力と恵みがあります。しかし、福音を聞いた心にパラダイムシフトが起こらないと、どうなるのでしょう。
 有名な「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」のたとえが教えています。22節。遊牧民は、羊やヤギの皮を首の部分を除いて、よく乾燥させて皮袋を作り、用いました。ところが、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、新しいぶどう酒が発酵して膨張し、伸縮性がなくなっている古い皮袋は張り裂けてしまいます。皮袋もぶどう酒も共にだめになってしまいます。ですから、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」入れなければなりません。
 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるように、福音を信じて新しくされた者は、新たな価値に基づいて生活して行く決断が必要です。私たちは、イエス様を信じて、新しい存在とされたのですから、福音による新しい考えと価値観、新しい感じ方と習慣で生きるのです。私たちがイエス様を信じる信仰に立っているなら、御言葉の価値観に従って、新しい命に合った生活をしなければなりません。
 聖書は、私たちに対して、「あなたは、新しくなった」と宣言しています。Uコリント5:17。「救い主イエス様を信じたあなたは、新しく造られた者だ。古いものは過ぎ去った」と言うのですから、御言葉を信じて、御言葉通り生きようとすれば、いいのです。ふつふつと発酵して、膨らみ、新しい恵みの人生を生きる力が湧いて来ます。信じて救われた時、イエス様が御霊となって、私たちのうちに住んでくださっておられるからです。
 新しい皮袋になって、新しく造られた者としてのライフスタイルを身に付けましょう。新しい人になったのに、昔の肉の思いや罪の習慣のままではいけません。エジプトから脱出できた民は、奴隷状態から救い出されたにもかかわらず、奴隷根性が根強かったために、恵みを忘れ、否定的思いにとらわれ、口からは文句とつぶやきばかり噴き出していました。出エジプト16:2〜3。ついに、約束の地を前に、偵察の結果を否定的にとらわれた結果、40年間荒野を彷徨うことなりました。民数記14:2,33〜44。文句やつぶやきを言う恐ろしさを覚えます。
 私たちは、新しい皮袋に合った新しい生活様式で日々を満たさなければなりません。アメリカのボーウェン牧師が始めた「不平撲滅運動」というものがあります。「ほとんどの人は、一日平均15〜30回不満を爆発させたり他人を非難する。結局、人間が苦しむすべての不幸の根には、不平不満がある」という事実を悟り、3週間の間、不平不満、愚痴、批判を言わない運動を始めました。人々がやってみると、自分が日頃どれほど不平を言っているか気付くことになりました。「否定的な言葉が否定的な考えを呼び、否定的な結果をもたらす。幸福な生活をしたいなら、不平を口にするのを止めなければならない」と訴えています。
 不平や文句を口から出さなければいいというのも無理です。ヤコブ3:8。いつも福音の恵みに生きて、御霊に導かれて、新しく造られた者として生きることによって、不平や文句の根を断つことができます。サタンは、不平、恨み、否定的な言葉で私たちを揺さぶります。新しい皮袋としてのライフスタイルを身に付けて、不平や文句を捨てて、救われたことへの感謝と喜びにあふれる生き方となりますように願います。Uコリント5:17。イエス様を信じて新しい人になったと宣言しましょう。今の私は不足して傷が多いが、新しい皮袋になって行くと確信しましょう。



マルコ2:18 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」
2:19 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
2:20 しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。
2:21 だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。
2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」



ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

エペソ4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。



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