2018年1月28日「主日は礼拝と安息の日」マルコ2:23〜28

序−法律の形骸化、会社の役員会の形骸化、国会質問の形骸化と今日様々な場面で形骸化が目立っています。また、手段と目的の関係において、手段と目的が入れ替わり、いつしか目的が消えてしまい、手段に振り回されるということがあります。今日の箇所には、この2つの問題が関係しています。この箇所を通して、信仰の大切なポイントを学びます。

T−安息日とは−23〜24
 イエス様が小麦畑の中を弟子たちと歩いていた時でした。お腹が空いた弟子たちは、穂を摘んで、もんで殻を取り、食べ始めました。どこからあらわれたのか。それを目撃したパリサイ人たちが、なぜ安息日を守らないのかと詰問しました。十戒の中に、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」という命令がありました。出エジプト20:9〜10。仕事も大事だが、休みも大切だということです。
 ところが、この命令をパリサイ人たちは、どんなことをすれば働くことになるかと考えて、安息日にしてはならない39条234項もの規定を作りました。その彼らの規定によると、安息日の収穫と脱穀の労働を禁じていたので、弟子たちが小麦の穂を取ったのを収穫行為、小麦の穂を手でもんだのを脱穀行為とみなし、安息日違反だと騒いだのです。
 昔も今も働くのは大変です。疲れも労苦も多いです。ですから、「6日間働いたならば、7日目は安息日として仕事をしないで休みなさい」という命令は、民にとってどんなに感激の言葉だったでしょうか。申命記の十戒の安息日規定には、「エジプトの奴隷から連れ出されたことを覚えていなければならない」と付加されています。申命記5:13〜15。エジプトに住んでいた頃の民は、奴隷でした。奴隷は、1年365日、一日も休まずに働かなければなりませんでした。疲れても病気になっても、苦役を休むことができませんでした。無数の奴隷が鞭の下に倒れて死にました。奴隷は、その労働の果実を家族と楽しむこともできず、収奪されるだけでした。
 現代日本では、内閣府がワーク・ライフ・バランス憲章を作って、仕事と生活の調和の必要性を説いています。しかし、せっかく作られた就業規定や労働時間制限などの法律は形骸化され、不当労働や長時間労働、過労死が問題となっています。利益や業績ばかり優先されて、何か大切なことを忘れています。休むことの大切さを考えているのでしょうか。
 統計によると、1週間1日も休まずに働いている人は、1週間に1日休んで働いている人に比べて病気にかかる確率が6倍も高いそうです。休むことは健康に生きる秘訣になります。休むことは、社会福祉が発達してできた制度ではなく、神様が人のために制定された制度です。出エジプト20:9〜11。主なる神が天と地と海とその中のすべてのものを作って、7日目に休まれたからです。それで主は、安息日を祝福して、その日を休んで礼拝しなさいと命じられました。安息日のシャバットとは、休むという意味です。休むことは、私たちを造られた神様の創造の原則です。人間の体のリズムは、定期的に休むようになっているようです。

U−安息日は人間のために−25〜27
 パリサイ人の批判の質問に、イエス様は、すぐに答えられました。25〜26節。昔ダビデが王になる前に、サウル王に追われて仲間と逃げていた時、空腹で困っていたダビデたちに、大祭司は祭司以外に食べてはならない供物用のパンを与えたという話がありました。イエス様は、この話を思い出させて、人の命、生命を生かすことがどんなことよりも優先することに気付かせようとされました。イエス様は、安息日に準拠するかどうかではなく、人が中心とされることを強調して言われました
 安息日は、人が休むための手段であって目的ではありません。安息日の目的は、人が仕事から解放されて休んで、神にささげる礼拝にあります。安息日のために人が設けられたわけではありません。主客転倒、すなわち人の生活のための手段でなければならないことが目的になっていたのです。人の方が大事だということも分からないはずはなかったのに、いつのまにか、こんな愚かな姿になりました。目的と手段の転倒はありませんか。
 休みの真の意味は、様々な縛りや拘束からの解放です。出エジプトの民は、エジプトの奴隷からの解放であり、イエス様の救いは、人々を罪の奴隷からの解放でした。ローマ6:6。安息は、過重な仕事からの解放であり、肉体の辛さからの解放であり、精神の縛りからの解放です。安息日は人を生かすためのものです。ですから、イエス様は、はっきり「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」と宣言されました。27節。
 パリサイ人は、安息日の大切な観点を見落として、安息日を守るための規定を多く作り、その規定を守ることに汲々となり、自分たちばかりか多くの民衆をその規定で縛り、苦しめました。安息日だと言って、骨折した足も治療せず、空腹な者に食物を与えず、荷物を背負うロバの荷を降ろしませんでした。パリサイ人の姿は、自己満足、安息日の形骸化の姿でした。現代社会も、様々な法律や規定を作っては、骨抜きにし、形骸化させています。人々を苦しめています。これも、罪の姿でしょう。
 パリサイ人は、御言葉を生活に適用することをしませんでした。学んだり、規定を作ったりするだけで、その本質や根本を適用し、生活に生かすことがありませんでした。私たちも、御言葉を学ぶだけなら、パリサイ人の轍を踏むことになります。パリサイ人は、御言葉を知りながら、なぜ正しく適用できなかったのでしょう。
 安息日は人を生かすためのものです。結局、イエス様とパリサイ人では、安息日を見る目が違いました。イエス様は、安息日を設けてくださった主なる神の御旨を知っていました。重労働を一日休めさせてくれる日として、弱い者を精神的に保護するものとして与えられた規定です。これが、神様の御旨でした。しかし、御言葉を学んだパリサイ人は、自分たちの熱心だけが強調され、人々をあわれんでくださった神様の御心を忘れてしまいました。安息日は、神の前で休んで息つくことができる日なのに、むしろ息がつけない日となりました。安息日は、神の愛を感じることができる日なのに、むしろ罪悪感に責められる日になってしまいました。
 根本的なことは、御言葉をながめる心です。どんな心で見るかによって、御言葉は命を生かすもするし、助けにならないこともあります。自由を感じることもあり、束縛を感じることもあります。パリサイ人の心が固くなっていたために、神様の御旨を感じる心を失っていたからです。律法を達成する自己満足と守るか守れないかの興味だけが残りました。ですから、人を眺めると、信頼の対象で見るのではなく、非難の対象に見たのです。
 問題は、御言葉を知っているか知らないかではありません。どのような心で、御言葉を受け入れるかが問題です。神の御旨を感じることができる心を持って御言葉を見る時、はじめて自由を経験し、生命が回復されることを経験し、その中で休むことができます。

V−人の子は安息日にも主です−27
 イエス様は、安息日についてもう一つの宣言をされました。28節。「人の子は安息日にも主です」とは、私たちの安息日のもっとも根本的なことが、イエス様は安息日にも主だということです。なぜ、日曜日が安息日となったのでしょうか。私たちの罪を代わりに十字架にかかられ、私たちの主イエス様が復活された勝利の日を記念して、日曜日を安息日とし、神様を礼拝するようになりました。マタイ28:1。日曜日を主日と呼んでいます。
 主日に経済活動と労働を休むのは、神様に愛されて6日間熱心に仕事をするけれども、主日に教会に来て礼拝をささげ、霊肉ともに癒され、霊的命が豊かにされ、霊的力を満たされるためです。人は、体の休みと共に、心の休息を必要としています。エレミヤ31:25。神との関係を回復して、癒しと心の平安を得る祝福の日です。貪欲で無秩序に生活のバランスを失ったことを悔い改めて、神の力と知恵で充電され、新たな活力を得て、新たな一週間を開始する恵みの日です。どれほど主の日は大切なものでしょうか。
 1924年にパリ五輪で当時100m世界新記録保持者であったイギリスのエリック・リデルは、主日に開催される100m走を辞退して、礼拝に出席しました。ところが、400mに出られなくなった選手の代わりに出場することになり、一度も走ったことのない400mで新記録で金メダルを取りました。主日を守ろうとした苦闘が、エリックを偉大な勝利者にしたのです。米国の調査によると、教会に通う人は通っていない人より10%程度長生きし、週に1回以上教会に来る人は、20%より長生きするそうです。
 イエス様が安息日の主です。今まで安息日に悩んで葛藤していたことにイエス様を当てはめてみましょう。イエス様は、自分のビジネスの主人であり、私たちの家庭の主人です。イエス様は、私の心配の所有者であり、私の健康の主人です。イエス様が私の人生の主人になると、すべての問題は解決されるようになります。イエス様は、何と言われましたか。マタイ11:28。
イエス様は、私の人生の主人であられます。私の人生を私の人生の主人に任せましょう。「イエス様は私の〜の主である」に何を入れますか。今週一週間信仰を告白して歩んでみましょう。イエス様が、世が与えることのできない平安と安息を与えてくださることを信じましょう。




マルコ2:23 ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。
2:24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」
2:25 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
2:26 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」
2:27 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。
2:28 人の子は安息日にも主です。」




出20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

申命記5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
5:14 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

エレミヤ31:25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。




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