2018年2月4日「手を伸ばしなさい」マルコ3:1〜6

序−「人間は感情の動物である」と言われます。感情が、人の行動の最大の動機となるからです。多くの場合、喜怒哀楽などの感情が人を動かしています。冷静そうに見えても、心の中は感情が渦巻いています。感情は、動物にとって生命維持のために必要不可欠なものです。人が生きるために与えられた感情をどう生かすかが重要です。それによって人生と自己形成は大きく違って来ます。きょうの箇所から学びましょう。

T−片手のなえた人−不安、恐れ、悩みを主に−1-2
 安息日に、イエス様が会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいました。1節。その萎えた片手とは、右手だったとあります。ルカ6:6。初代教会の言い伝えによれば、彼の仕事は、「石工」でした。石工の仕事は、重労働であり危険が伴うものでしたが、家族を養うために働けることを感謝して、懸命に仕事をしていたことでしょう。
 しかし、今その手はなえています。「萎えた」という言葉は、いちじくの木が「枯れた」と同じ言葉です。マタイ21:20。おそらく、ある時から血行が悪くなり、手がしびれてきて、力が枯れてしまったようです。厳しい仕事のせいか事故の後遺症かで片手がなえてしまいました。この人の心を想像して、自分だったら、どんな感情になりますか。
 彼は、手が萎えたことだけなく、心も萎えてしまったでしょう。石工にとって大事な右手が不自由になったことで、仕事も失ってしまった。そのような自分の境遇を嘆くだけでなく、貧しさに苦しむ家族を見るのも切なかった。彼の心は生活の不安と恐れ、悩みでいっぱいでした。彼の感情は、千々に乱れて、自暴自棄になりそうになりました。それでも、彼が心の癒しを得るところがありました。安息日の礼拝です。
 その日会堂に来てみると、イエス様が来て、お話をしてくださいました。どんなに喜んで礼拝をささげたことでしょう。しかし、その時しきりに何か変な感じがします。自分を見つめる人々の視線を感じたからです。その日の会堂は、いつもとは違って、パリサイ人がたくさんいました。彼らは、しきりに自分とイエス様を交互に眺めており、その視線が温かくないことは分かります。それはいつものことです。自分を見る彼らの視線は、いつも冷たくさげすんで、さばいているようでした。
 それでも、イエス様の話を聞きながら、たましいが癒され、心に平安が訪れました。いつもの礼拝にまして、感情が取り扱われました。時には自分の境遇をのろい、仕事や人のせいにしてした自分をイエス様が受け入れて、赦してくださることを知りました。不安や悩みの中にある自分を愛して、理解してくださることを感じたからです。主の前に心の重荷をおろし、疲れた感情を癒していただき、乱れた情緒が安らぎました。マタイ11:28。

U−パリサイ人‐妬み、情け知らず、頑な、憎しみ−2〜6
 一方、会堂にはまったく礼拝をささげる気も、御言葉を聞こうとする気もない人々がいました。イエス様を監視するパリサイ人たちです。2節。この日はイエス様が御言葉を教えておられました。ルカ6:6。彼らにはその教えが全く耳に入りません。イエス様に関心を寄せていますが、どうすれば、イエス様を告発できるかと注意深く見ていたのです。
 彼らの目が、一人の片手のなえた人に留まりました。彼をあわれんで、助けたいと思う気持ちからではありません。イエス様がその人の手を直すことを期待したのですが、イエス様を告発できるからです。彼の手がどのように痛むのか、彼の家族がどのように苦しい中を生きているのかには、まったく関心がありません。何と言う感情でしょうか。あわれみも同情心もありません。私たちもそんな感情になる時があるのでしょうか。
 彼らの期待通りの展開になります。イエス様が、片手のなえた人を皆の前に立たせたからです。3節。いよいよ告発できるぞと思った矢先、イエス様は、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と問われました。4節。答えは簡単です。安息日にしてよいのは善を行うこと命を救うことです。それでは、告発できません。彼らは黙るほかありません。
 「手を伸ばしなさい」とイエス様に言われた通り、その人が手を伸ばすと手は元どおりになりました。5節。これまでは右手がなえていたために、仕事ができず、家族を養えず、肉体的な苦痛と心の切なさのために苦しんでいたが、今は、再び仕事をすることができる、家族を食べさせることができるようになった。どんなに嬉しかったでしょう。しかし、小躍りするその人を見るパリサイ人の顔は歪んでいます。心は穏やかではありません。イエス様に対する妬みと怒りは、最高潮に達しました。そして、外に出て、イエス様をどうやって殺そうかと相談したのです。6節。
 彼らは、心の貧しい人々です。他人の痛みを痛みとして感じず、他人の喜びに一緒に喜べない人は、心が歪んでいる人です。彼らは、自分を愛する者、不遜な者、情け知らずの者、そしる者、善を好まない者でした。Uテモテ3:2〜5。負の感情でした。なえて麻痺していたのは、パリサイ人の心の方でした。彼らは、「頑な」だったのです。5節。「かたくなさ」は、罪の姿として繰り返し登場します。ローマ2:5,エペソ4:18。
 彼らの信仰の姿は、デビッド・F・ウェルズ教授著「荒野の神」に見ることができます。「私たちは、自分が従うべき神よりも自分が利用できる神を頼ってきた。自分のニーズを満たしてくれる神様を求めてきた。神は、私たちの満足のための神である。私たちは、神を自分の勝手にできる神に変えた。私たちは、神の実在を愚弄して、自分の思いのままにしても、神が黙っておられると思った。そして、神の恵みが少なくなって、神が自分に繁栄と成功を注がないと、神をもはや信じられない自分を発見する。」
 クリスチャンへの警鐘です。私たちは、そのような姿で、信仰生活をしていないでしょうか。私たち自身の誤った考えや生活を神の基準に合わせようとするよりも、神を自分の考えの枠の中にとじこめ、自分の必要なものだけをくださいと願っている信仰になっていないでしょうか。

V−イエス様‐人を愛し、あわれみ、悲しまれる−
 彼らは、あわれな人です。イエス様の癒しを喜んで賛美している声も、人々の拍手も聞こえません。彼らの心には妬みがあふれ、悪魔がささやく怒りの声しか聞こえません。彼らこそかわいそうです。本当に幸せな人は、自分の望む通りになることだけに幸せを感じたり、自分に良いことが起こるときにのみ喜ぶ人ではありません。他の人の幸せに一緒に感じることができる人、他の人の喜びを自分も喜ぶことができる人が本当の幸せな人です。イエス様は、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くお方でした。ローマ12:15。私たちと同じようになり、感情を持たれました。ピリピ2:7
 ですから、怒り、憤ることもあります。ヨハネ11:33。ここでも、パリサイ人たちの心と感情をご覧になり、怒りました。5節。かわいそうな人は心が頑ななパリサイ人たちでした。頑なな心とは、石のような心のことです。エゼキエル11:19。私たちのために十字架にかかられたイエス様の愛を感じて、信じたならば、石のような心がとかされて、新しい心が与えられます。
 頑なという罪の心は、まるで石のようです。人の痛みや悲しみに対して冷ややかであり、感動がなく、麻痺したものです。ですから、イエス様を信じて救われるなら、固い心と麻痺した感情がイエス様の愛の御手に触れられ、癒されます。十字架の救いは、感情の癒しと整えを含むものです。神様は、私たちがより真剣で、感情的にも力があふれ、信仰生活をより積極的にするのを強く求めておられます。ローマ12:11。
 私たちを創造された神様は、私たちに感情を与えられました。しかし、そこに罪が入り込みます。愛する心が憎しみになり、希望が失望に、賞賛が妬みに、あわれみが裁きにというように、罪がその感情に影響を与え、心を歪めます。サタンは、私たちの感情を極端に追い込もうとします。健全なことは、すべての感情を否定する必要もないし、すべての感情をそのまま認めることもしないことです。御言葉に照らし、主の前に自分の感情を引き出して分別すること、心を治めることが必要です。箴言16:32。
 御言葉は、私たちの心に感銘を与え、私たちの感情を動かします。なぜ人は、感情的に麻痺したり、何の感動も受けないことがあるのでしょうか。人間として来られたイエス様の地上の生涯と本性は、私たちが想像できないほど感情が豊かで、感情をもって人々と交わり、愛し、ともに喜び、悲しまれました。強い憤りという感情をもって罪の頑なさに対し、罪人へのあわれみと愛の感情をもって十字架にかかられました。
 イエス様が私たちを魅了するのは、私たちが経験するあらゆる感情を経験されたということです。イエス様は、パリサイ人の酷い感情に憤られ、怒られただけでなく、嘆かれました。5節。これは悲しまれたという意味の言葉です。イエス様は、パリサイ人の酷い感情を悲しまれたのです。イエス様は、彼らを批判したかったのではなく、彼らの頑なさのために悲しまれたのです。私たちが人を妬んで、一緒に喜ぶことができないのを見て、イエス様は悲しまれます。私たちが、人を憎んだり、怒りをぶつけたり、人の心を痛めたりするのを見て、イエス様は悲しまれます。
 この人の手を癒されたイエス様は、私たちに対しても、「あなたの手を伸ばしなさい」と言われます。それは、私たちの心の手です。イエス様は、私たちの頑なな心、麻痺した心を伸ばしてみなさいと言われます。



マルコ3:1 イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
3:6 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。



ルカ6:6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ローマ2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

エペソ4:18 彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。

Uテモテ3:2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
3:3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、
3:4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

ローマ12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

エゼキエル11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

詩篇95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、
95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

ローマ12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

ピリピ2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

箴言16:32 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

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