2018年2月11日「群集から弟子へ」マルコ3:7〜12

序−大勢のファンが押し寄せて、倒れて怪我人が出たというニュースがしばしばあります。今日の箇所では、大勢の群集がイエス様のところに押し寄せています。この群集について学びながら、はたして私は群集なのだろうか。それとも、弟子なのだろうかと考えてみたいと思います。

T−イエス様のところに押し寄せて来た群衆−7〜10
 イエス様が多くの病人を癒したり、悪霊を追い出したりしたことが、瞬く間に広まり、かなり広範囲からイエス様のおられるところへ、人々が殺到して来ました。今やイエス様は、時の人、有名人です。ユダヤ人の地域ばかりでなく、外国からもやって来ました。7〜9節。
 「大勢の人々がついて来た、大勢の人々がやって来た、大勢の人が押し寄せて来た」と繰り返されています。よっぽど大勢の人々が殺到して来たのでしょう。それは、危険ですらあったので、小船を用意して置くほどでした。9節。なぜでしょう。人々には、「さわることでもできれば、きっと直る」という考えがあったからです。マタイ9:20〜21。それで、みなイエス様に触れたい、衣にでも触りたいとして押し寄せて来たからです。10節。
 各地から集まって来た群集は、様々な理由で、様々な人生の問題を抱えて来ました。病気で苦しんでいる人、悪霊につかれた者もいました。そして、時の人を見てみようとただ好奇心のために来た者もいたでしょう。家庭や仕事の問題に悩む者、人生の重荷を抱えた人たちが、イエス様の御言葉にたましいの渇きを感じて訪れてもいたでしょう。私たちは、どんな理由でもってイエス様のもとに来たのでしょうか。
 彼らが、イエスのところに押し寄せた理由と目的は、一言で言いあらわすなら、自分のニーズを満たすために、探して来たということになります。イエス様は、このような様々な問題を抱えて来た者の必要を満たしてくださって、彼らが抱えていた労苦を解決してくださいました。癒しが必要な者には癒しを、教えが必要な者には教えを、疑った人々には確信をその空虚な心に与えてくださいました。イエス様は、自分に来る群集をあわれんで癒してくださいました。マタイ14:14。
 そうです。私たちが抱えている人生の問題がどのようであっても、それをイエス様に持って行くだけで、主は愛と恵みで私たちの必要を満たしてくださいます。ぜひ、イエス様に来てください。たましいのやすらぎを受けることができます。マタイ11:28。人は、祝福の道を探しています。人生の問題を解決する道を求めています。でも、当てにならない広い道を行こうとするのです。滅びに向かうような大きい門から入ろうとします。マタイ7:13。真理に至る道は狭く、命に至る門は小さいように見えるからです。マタイ7:14。しかし、いざ入ってみると、恵み豊かで、楽しく嬉しい道です。
 人々は、噂だけ聞いても、これだけ熱心にイエス様を求めて、遠くからでも探してやって来ました。その始めは、実際に様々な病気を癒してもらった人々の証し、悪霊を追い出してもらった人々の証しでした。熱病を癒してもらったシモンの姑や人生の問題を解決してもらったマタイなどの個人の証しでした。私たちのストーリーの入った証しが、やがて大勢の人々をイエス様に導くものとなるかもしれません。

U−群集かイエス様の弟子か−
 群集には、問題がありました。多くのものは、自分の問題を解決することだけに関心がありました。とにかく、多くの問題をかかえてやって来ました。病気は言うまでもなく、色々なつまらない問題をすべて持ってきました。中には、遺産分与の調停を頼む者もいました。ルカ12:13。彼らは、自分の有益になるから押し寄せて来ました。彼らは、イエス様の話しを聞いて、イエス様の言うことをしようという思いはありませんでした。
 もちろん、来ない人々に比べるならば、期待がある人々です。可能性を持つ人々です。はじめは、みな群集です。自分の必要と願いに利益となるかと思い、イエス様を求めて来ます。はじめは、自分の人生の問題でいっぱいだった者が、問題の解決にだけ関心をもってイエス様に来ます。私たちも、群集の一人でした。でも、御言葉によって造り変えられる可能性があります。主の用いられる器になる可能性があります。
   しかし、悪くなる可能性もあります。考えてみましょう。イエス様を十字架につけろと叫んだ人々は、誰ですか。マタイ27:23〜24。イエス様を知らない人々がイエス様を十字架に付けたのではありません。イエス様を知っていた群集です。群集は、自分のニーズが満たされなければ、豹変することさえあります。自分の要求が得られなければ、イエス様を熱狂的に探して来た人々が、イエスを十字架につけろと叫びました。
 群集は、自分のニーズを満たすために、世的な幸いを求めてイエス様に来ました。群集の目的は、自分勝手な願いが叶うことです。群集は、自分の問題が解決するまでは、仕事がうまく行く時までは、イエス様を求めます。このような人々は、イエス様を捕まえようと熱心です。しかし、すべてが満たされるとイエス様から離れて行きました。自分の思い通りにならないと、イエス様に反発しました。
 群集の関心事は何でしょう。自分の必要を満たすことです。ただ癒されて、イエス様の不思議な力を見ることでした。イエス様は、5千人の給食の後も付いて来る群集に向かって、「あなたがたがわたしを捜しているのは、パンを食べて満腹したからです」と言われました。ヨハネ6:24〜26。熱心に付いて来る群集を、イエス様は見抜いておられたのです。ですから、イエス様は、この後、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるもの」だと教えられました。ヨハネ6:27。
 私たちは、イエス様との関係はどうですか。どのような関係でなければなりませんか。御言葉による関係が必要です。百人隊長は、イエス様の御言葉を信じて、しもべが癒されました。マタイ8:8〜10。その信仰をイエス様はことのほか喜ばれました。ところが、10節を見てください。群集は、そうではありません。イエス様に触ろうとして大騒ぎでした。御言葉を聞こうとしていません。本当に救い主イエス様を求めていたのではありません。

V−群集からイエス様の弟子に−7,9,11
 問題は、自分が信仰で立って行くかということです。イエス様を取り囲む群集には2種類あります。一つは、うまくいくときまで信じる者であり、もう一つは、思い通りになろうとなかろうとイエス様を愛して、イエス様の御言葉に聞き従って、イエス様に付いて行く者です。このような人々が、イエス様の弟子となります。弟子たちは、イエス様の御言葉を行おうとし、イエス様に似た者になろうとします。問題が願うようにならなくても、イエス様に付いて行きます。世の幸いで満足しようとしません。ただ、イエス様がくださるもので心を満たそうとします。このような人々は、イエス様の御言葉を聞いて、実行しようとします。彼らは、御言葉を聞くほどに新しい人に造り変えられて行きます。
 イエス様が世に来られて十字架の御業をされる以外に最も重要な働きを挙げるならば、それは弟子を作る働きと言うことができます。この箇所にも弟子たちが登場しています。弟子たちは、不利益な状況になっても、イエス様と一緒にいました。7節。弟子たちは、イエス様に聞き従う者たちでした。9節。群集は、自分のニーズをイエス様が聞くように求めましたが、イエス様の言うことを聞こうとしませんでした。弟子たちは、イエス様の御言葉に耳を傾け、それに従う者でした。
 群集は、後に、イエスを十字架につけましたが、弟子たちは、死に至るまでイエス様に忠実でした。黙示録2:10。天国の栄光の座に座りました。マタイ19:28。今の私たちの姿はどうですか。弟子の姿になりましょう。御言葉に耳を傾け、イエス様に献身して、用いられましょう。世で主の栄光を表すことになります。
 たとえイエス様の教えを聞いたとしても、群集は変わらず、弟子たちは変わりました。聞いて良いことは知ったならば、命をかけて従う決断をした人は、弟子たちです。弟子たちは、イエス様のニーズを聞きました。9節。私たちも、イエス様のニーズを聞いているでしょうか。自分の願い、自分のニーズだけを聞いてもらうだけで、イエス様が自分に何を求めておられるか聞いているでしょうか。弟子たちは、聞いて行動しました。
 もちろん、御言葉は命令のみでなく、神の約束も記録されています。ですから、御言葉を聞いて従うなら、必ずその約束の恵みと祝福を受けることになります。イエス様の関心は、御言葉に聞き従い、御旨を行う弟子にあります。きょう今、ここに出席されている一人一人が主の弟子になることを求めておられます。クリスチャンが群集として生きていくならば、何の望みもありません。最後まで弟子の道を行くなら望みがあります。イエス様は、弟子となって付いて来なさいと言われました。マタイ16:24。
 悪霊どもは、イエス様が「神の子」であることを知っていましたが、イエス様に従うつもりはありません。10〜11節。群集も、イエス様が誰であるかを悟ることに失敗しました。ですから、人は、イエス様を神の子、救い主であることを告白して従う必要があります。私たちも、「イエス様は私の主であり、私の神である」と告白しましょう。マルコ15:39。イエス様は、私の心も私の体も私の人生も日々新たに創造してくださいます。どうか、真剣になって、イエス様と人格的に出会ってください。ローマ10:9〜10。



マルコ3:7 それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。また、ユダヤから、
3:8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
3:9 イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。
3:10 それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。
3:11 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です」と叫ぶのであった。
3:12 イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。



マタイ9:20 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
9:21 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。

マタイ14:14 イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイ7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

マタイ27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

ヨハネ6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

ルカ12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

ヨハネ6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」

マルコ15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

ローマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

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