2018年3月11日「聞く耳のある者は聞きなさい」マルコ4:1〜20

序−ミレーの「種蒔く人」という絵をご存知でしょうか。ゴッホもその影響を受けて、「種蒔く人」を描いています。その元になっているのが、今日の聖書の箇所です。絵画からは、何か牧歌的なイメージを思い浮かべますが、聖書が教えているのは、もっと人間の凄まじい心の葛藤や痛みであり、御言葉による信仰の成長や祝福です。

T−道端のような心−
 種蒔く人とは、イエス様のこと、種とは、御言葉です。14節。そして、土地は、御言葉を聞く人の心をあらわしています。「種まきのたとえ」は、御言葉を受ける者の心の状態が重要であることを悟らせています。果たして自分はどんな土地であろうかと思いながら聞く時間としたいと思います。
 道端に落ちた種は、硬い道端の中に入ることができません。その間に鳥が来て食べてしまいます。4節。道端のような心に御言葉がまかれても、サタンが御言葉の恵みを奪ってしまうということです。15節。道端のような心とは何でしょうか。この心は閉ざされた頑なな心です。自分の偏見と肉の思いに囚われて、堅く閉ざされた心です。代表的な例は、パリサイ人です。イエス様の話をはじめから受け入れようとはしていません。
 現代の教会で言えば、聞いた話ですが、「ある人は、礼拝において賛美をよくするし、祈りもよくする。ところが、説教が始まると、居眠りをする。不思議なことに、説教が終わるとすぐに覚醒する。」道端のような心は、メッセージを聞いても同意しなければ、受け入れません。自分で決めた枠に合う御言葉でなければ、聞くことをしないのです。
 ナルニヤ国で有名なCSルイスは、道端のような心を次のように説明しています。「ある老紳士が、ある日図書館を訪ねた。偶然手に握られた本が信仰についての本だった。その本を読んで瞬間的に神について考えが浮かんだ。そこで、悪霊は彼の心の中でこうささやく。『昼休みだ。食べてから考えないか』それで、考えるのをやめて、食堂に行った。食事中に『神はどんなお方か。私の人生にどんな影響を与えるのか』考えが起こり始めた。すると、悪霊は再び彼に『食事中だ。消化不良を起こすぞ』とささやく。食事を終えた時、再び神のことをぼんやりと考えようとすると、悪霊は再び言う。『今日はとても忙しいんじゃない。家に帰ってやるべきことが多いよ』彼は、何の刺激も経験しなかったかのように、いつもと同じ気持ちで家に帰る。悪霊は、老紳士の姿を見ながら会心の笑みを浮かべていた。」
 では、心が道端のように固まってしまった理由は、何でしょうか。まず、パリサイ人のように、自分の経験や考えだけが正しいという高慢な態度です。罪のために心が頑なになります。ヘブル3:13。心の傷で心が閉じられます。成長過程で大きな傷を受けた人は、世に対して心のドアを閉めてしまいます。傷つくことを恐れて、心を開かず、感情を表わしません。でも、心を閉じたままでは、何の変化ももたらされません。私たちは、イエス様に救われることで、新しく造り変えられます。Uコリント5:17。
 天路歴程を書いたジョン・バニヤンは、はじめ教会に出席していても、確信がありませんでした。ところが、種まきの譬えを読んで、自分の心に落ちた御言葉の種をサタンが奪っていくという事実を知って驚きました。彼は、説教に集中し始め、御言葉に耳を傾け始めました。そして、後には、天路歴程のような作品を残す信仰の人となりました。

U−岩地のような心−5〜6, 16〜17
 岩地に蒔かれた種は、最初はよく育ちますが、土が薄いので根を下すことができません。湿気も不足します。従って熱い太陽が降り当てるとすぐに枯れてしまいます。5〜6節。岩地のような心は、御言葉を聞く時すぐに喜んで受けるけれども、根がないので、ちょっと試練や迫害が起こるとすぐに倒れてしまうと言われます。16〜17節。根のない信仰の代表的な姿は、イエス様に付いて来た群衆に見ることができます。
 彼らは、イエス様の奇跡を見て、熱烈にイエス様に付いて行きます。しかし、そこまでで、イエス様との人格的な信頼までは進みません。イエス様は、5千人の給食の後ご自分に付いて来る人々に向かって、「わたしを捜しているのは、パンで満腹したからだ」と批判されました。ヨハネ6:26。結局、イエス様を十字架につけろと要求した人々は、まさに群衆でした。もちろん、最初の信仰は、奇跡や恵みを見て、祝福を得るための利己的な動機で始まりますが、やがてもっと根を下ろし、イエス様との人格的な信頼の段階まで進むことが必要です。やがては、イエス様のために自分自身を捧げているところまで行くのです。岩地のような心が変わります。エゼキエル36:26。
 これは、夫婦の愛についても同じです。最初は物質や外観や性格等相手が持っている条件で愛するようになります。しかし、結婚して時間が過ぎてもまだ相手が持っている何かで愛するだけなら、それは愛にはなりません。相手の人格的信頼とその存在自体への愛情になって行くことが必要です。私たちは、主を信頼し、主に従って行く弟子でしょうか。一見わかりませんが、試練の時に、信仰の根がどの程度なのか明らかになります。
 根というのは重要です。実を結ぶためには、木が根を下ろす時間が必要です。家族伝道を学んで知ることは、家庭がイエス様を信じて祝福を受けるまでには、信仰が根付く時間が必要だということです。根は、竹のように横の広がりでもしっかり根付きます。ですから、信仰の根は、信仰の友との交わりや御言葉の分かち合いによって、しっかり根ざすようになります。信仰は、キリストの中に根ざし、建てられるものだからです。コロサイ2:7。

V−いばらのような心−7,18〜19
 いばらの中のまかれた種は、いばらと共に育ちますが、いばらの方が発育が盛んで早く成長します。いばらが日光をふさいでしまうので、種は伸びることも実を結ぶこともできません。7節。いばらのような心に御言葉がまかれると、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が御言葉をふさいでしまうというのです。18〜19節。
 世の心づかいとは、心配のことです。今日も、多くの人々が、心配と不安のために生じた障害で苦しんでいます。現実は全く悲観的でないのに、じっとしていると、いろいろな種類の否定的な考えが頭をかすめて行きます。心配メリムナとは、思いと心が分散されていることを意味します。食べることの心配、仕事に対する心配、子供のための心配、健康の不安、将来についても不安などで、私たちの思いは分散しています。「何も思い煩わないで」と言われるのは、心配が無用だからです。ピリピ4:6。無駄な理由は、心配しても、問題が解決されるわけではないからです。むしろ、心がばらばらになって、しっかり対処ができなくなります。
 心配は習慣となっています。非常に間違った習慣であり、私たちを無気力にします。心配とは、現実を現実のまま見ないで、否定的に解釈することです。まだ起こっていないことを心配します。心配は私たちの心が生み出す虚像なのです。しかし、心配は神様を信頼する時、消えます。イエス様は、空の鳥や野のゆりを養ってくださるのに、あなたがたによくしてくださらないわけがないと言われました。マタイ6:26〜30。現代人は、周りの影響で必要以上の富の誘惑を受け、暮らし向きへの欲で心をすり減らし心配や不安を抱いています。19節。健全な信仰生活のために、私たちは、箴言30章7〜9節に出てくるアグルの祈りを心に覚えておくとよいでしょう。

W−心を耕して、良い地とせよ−8〜9,20
 良い地にまかれた種は、芽が出て、育って、多くの実を結びます。8節。良い地のような心に御言葉の種がまかれれば、豊かな信仰の実を結ぶ聖徒となると約束されています。20節。ところが、私たちはどこに落ちた種でしょうか。良い地になるためには、どうするのでしょうか。土地ならば、耕して良い地になります。御言葉は、「耕地を開拓せよ」と命じています。ホセア10:12, エレミヤ4:3。はじめから、道端、岩地、いばらの中、良い地に決まっている人はいません。その時その時、道端だったり、岩地だったり、いばらの中だったりし、良い地にもなります。ですから、耳のある者は聞いて、良い地 - 良い心になるようにするのです。
 ある牧師の証しです。サタンが自分に問うたそうです。「お前は多くの説教を語った。恵みを受けた人もいた。しかし、説教によって変化して実を結び、本当に私が恐れるほど変化した真の信徒がいるか。」確かに、多くの場合、道端に落ち、岩地に落ち、いばらの中に落ちたようだった。消えてなくなった。ところが、聖霊様はこうささやいたようです。「良い地に落ちたものが、まだ実っていない。まだ目に見えないが、君を驚かせてくれる30、60、100倍の実はまだ見えない。しかし、時が来れば、必ずあなたの目の前にあらわれる。」この御言葉が、私に新たな希望を与えました。
 この譬え話を読んで不思議に思うことは、いくら何でも、農民が道端や岩地に種をまくだろうか、誰がいばらの中に種をまくだろうかということです。でも、種蒔く人は主です。イエス様は、私たちのために十字架にかかれたお方です。群衆にも御言葉を語られました。譬えが理解できない弟子たちにも丁寧に教えてくださいました。10,13節。イエス様は、「実のないいちじくの木のたとえ」で、良い土地を作る方法を教えられました。良い土地を作成するには、木の回りを掘って、肥やしをたっぷり与えることです。御言葉によって養われ、心が造り変えられることです。9節。



マルコ4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」



箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

コロサイ2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

箴言30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。
30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

ホセア10:12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、【主】を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

エレミヤ4:3 まことに【主】は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。

ルカ13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」




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