2018年3月18日「信仰で御言葉を聞く」マルコ4:21〜25

序−「アウトサイド・インではなく、インサイド・アウト」という言葉があります。外(環境)が自分の運命を握っているのではなく、内(自分の心)がそれを握っているという意味です。同じ環境でも、それを見る心でまったく違ってくるということです。同じ御言葉を聞いても、それを聞く心で信仰の実りはまったく違って来ます。2つの例えから学びます。

T−あかりは燭台の上に−
 聞いた御言葉が「あかり」に例えられています。21節,詩篇119:105。御言葉が私たちの心に入ると私たちの心を明るくし、目覚めさせ、罪を悔い改め、主だけに拠り頼むようにさせ、新しい心で生きるようにさせます。これが、私たちの心にあかりが灯るようになることです。
 昔は、夜になれば、真っ暗闇です。でも、夜あかりをつけると、部屋中が明るく見えるようになります。21節。ところが、この例えは、不思議な質問をしています。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」枡の下や寝台の下に置くのは、昼間あかりを使わない時です。あかりを持って来るというのですから、家の中を明るく照らすことに目的があります。この例えは、イエス様の教えを受けた人々の責任性を言っているのです。つまり、あかりを受けた者は、そのあかりを他の人にも伝えなければならない、いやあかりが及ぶようになるというのです。
 御言葉の祝福を受けた人は、必ず明らかにされます。22節。信仰の恵みは、自分一人だけのためのものではなく、他の人に益を与えるものだからです。イエス様を信じて、御言葉を聞いた人は、あかりのような存在になるのです。でも、私たちは、あかりを枡や寝台の下に置いているようなことはしていないでしょうか。イエス様は、それを省みさせておられるのです。御言葉には力があります。イエス様の十字架による救い、福音の力は、信じた者を変えずには置きません。私たちの内にどれほどの変化が起こっていることでしょうか。
 福音は決して私一人だけのものではありません。福音は聞く者すべてが味わうべき祝福です。したがって、福音は聞くことで終わるのではなく、あかりが四方に広がるように、福音は証しされ、拡張されているものです。御言葉を一人で楽しまないで、喜んで分けてください。それが、御言葉を聞く私たちの使命です。分かち合いは、聖書の偉大な教えです。初代教会は、分かち合いで互いの信仰が立て上げられていました。
 隣人が病気にかかって死にそうになっている、自分は確実な治療法を知っている、それならば互いに知らせなければならない責任があります。エゼキエル33:6〜8。私たちは、一人の魂が生きるようになり、一人の人生が変化する力の福音を持った者であることを忘れてなりません。幸いにも、私たちの教会は、家族や周りのたましいのために祈り、仕える信仰に導かれていることを感謝します。
 ですから、イエス様は、「あなたがたは、世界の光です」と宣言されました。マタイ5:14〜15。私たちは、すべての福音を受けた聖徒たちです。聖徒たちが福音にふさわしい生活をするときに、世に向けてあかりを灯すようにされているのです。ですから、私たちは、あかりを灯す運動をします。これが信仰生活です。

U−人を量る量りで−
 御言葉を聞くなら、人を量る量りも変わるようにしなさいと言われました。24〜25節。人々には、各自の量り、尺度があります。その量りで、他の人を評価したり、自分自身を評価することもします。この例えは、自分が、他の人を判断する際に使用するツールで、自分もまた判断をされるということを言っています。問題は、人々が自分を判断する基準と他の人を判断する基準は、同じではないということです。自分を判断する基準はゆるいが、他の人を判断する基準は非常に厳しいのです。
 量るということは、計算をよくするのではなく、人をよく評価するということです。聖書には、こういう表現が多くあります。マタイ7:2。私たちは、人について考えたその通りに、人に対して行動したままに、人を評価したように自分も返されるというのです。
 セルグループの学びでは、人の話を聞く時は、「自分のものさしを一時脇に置く」ということを学びます。自分の物差し、価値観は、生きて行くのに大切なものです。でも、それで人に躓き、傷つき、人を裁きます。ですから、自分の物差し、価値観は、脇に置いて、人のことを聞く、相手のことを白紙の状態で聞くということを学びます。
 人を批判したり、人を悪く評価するなら、後には自分も同じように批判を受け、悪く評価されるようになります。その理由は、何でしょうか。人だけ批判するのは、自分の中に御言葉が留まっていないからです。人の価値は、その人が聞いてその心に留まっている真理によって、その価値は違って来ます。25節。
 主は、聞くことについて大切なことを言われました。聖徒は、何でもどれでも心に留めてはいけません。なぜなら、精神や心を傷つけているものがあるからです。ノイズがいっぱいになったこの世の中で生きる私たちは、選択して聞かなければなりません。 人の声を聞いて落胆して失望するよりは、神様が与えられる命の御言葉を聞くにことに努めるべきです。また、世の愚かな話しを多く聞いて、溜めて置くならば、愚かな人となります。御言葉を心に留めて、御言葉に養育される必要があります。
 25節の「持っている人」とは、御言葉をしっかり持って神様の御前に出て行く人のことです。そのような人は、明らかに御言葉の恵みと神様の祝福を受けます。神様がその人の祈りに応えてくださいます。御力を与えてくださいます。しかし、「持たない人」は、御言葉が心に留まらないで、神様の御前に出て行かない人のことです。なぜ、このような人は、持っているものまで取り上げられてしまうのでしょうか。信仰というものは、用いるならばその信仰がもっと大きくなり、信仰を用いないで置くならばなくなってしまうものだからです。
 25節の背景となる言葉が、有名なタラントの例えです。マタイ25:14〜28。なぜ、1タラントを受けた人は、地に埋めてしまったのでしょうか。6千日分の給料の額である1タラントを、他の人と比べてなぜ自分は1タラントだけかと考えたからです。1タラントも預けてもらったと感謝しなかったのです。サタンは、私たちに無いものや不足していることを見させることで不満を抱かせ、人と比べて妬ませします。
 重要なことは、御言葉を信仰で受けて聞き従う人には、その変化があらわれるようになります。しかし、御言葉を聞いても、世の価値観や肉の思いに従うなら、その心は何ら変わることがありません。私たちの信仰が祝福される時、神様は世でも祝福してくださいます。しかし、世の何かに酔って、信仰を疎かにするなら、世の幸いも廃れて行きます。信仰は、私たちと神様との高速道路です。信仰で道を行くことだけ考えるなら、神様の祝福と応答があふれるようになります。

V−注意して聞きなさい−
 23節で「聞く耳のある者は聞きなさい」そして、24節で「聞いていることによく注意しなさい」と繰り返しています。御言葉は、注意して聞かなければならないということです。私たちが御言葉を聞く時、自然に無意識にしていることがあります。慰めや励ましを受けたい、自分の思いに合う御言葉を聞きたいということです。誰しもする当たり前のことです。何も問題ではありません。
 しかし、自分の求めに合わなければ、聞き流すのでしょうか。心に留めないのでしょうか。心という土地を耕すのは、御言葉の聞き方に注意することになります。ヘブル4:12〜13には、御言葉の力が強調されています。御言葉は、私たちの心のいろいろな考えやはかりごとを判別させてくれます。痛いところも突いて、心がどんな状態か気付かせてくれます。御言葉を読んで聞きながら、そのような経験をされたことがありますか。
 「刑務所の鉄格子の間から、二人の男が外を見た。一人は泥を眺め、一人は星を眺めた」(フレデリック・ラングブリッジ、不滅の詩)という言葉があります。私たちの意識が、人生においていかに重要であるかを教えてくれます。御言葉を聞く私達の態度が、あまりにも重要です。失楽園で有名なジョン・ミルトンは、「地獄が天国となすも、天国が地獄となすも心しだい」と言いました。同じ環境でも、それを見る心でまったく違ってくるということです。御言葉を聞く心に注意してください。御言葉を聞く心が私たちを変えてくださるのです。自分の心はどのような土地でしたか。御言葉を聞いて、ある人は心に刻まれ、信仰の成長に大きな助けを得るけれども、ある人は、同じ御言葉に傷つき、躓くのはなぜでしょうか。肉の思いで周りの人を意識したり、周囲の人を判断しないでください。神の御前で自分がどんな心かが問題なのです。ルカ8:15。




マルコ4:21 また言われた。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
4:22 隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」



詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

エゼキエル33:6 しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。

マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

マタイ7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

ルカ8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。


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