2018年4月1日「復活の信仰は人を変える」Tコリント15:55〜58

序−キリスト教の最大の祝日は、主の復活祭、イースターです。年々日本でも、イースターの卵やうさぎが春の風物詩として取上げられるようになりました。生命の息吹を感じる春には、復活がマッチするからでしょう。イエス様の十字架の死からの復活とは、どんな意味なのでしょうか。

T−人間を支配した死−55〜56
 イギリスの懐疑論者ホッブスは、死ぬ時に、「一日でもより生きたい。この世の後の世界が怖い。あの世を見る穴でもあるといいのに。」と嘆いたそうです。平気なふりを生きていても、人は誰でも死を恐れています。誰もが死の前に絶望します。夢を抱いて熱心に生きても、死を考えると力が抜け意欲が失われます。ですから、聖書は、死を「とげ」と言っています。死は、刺のように私たちに苦痛を与えるからです。世の思想や哲学は、死を自然のものとして受け入れ諦めるように教えます。しかし、死と折り合いをつけて生きようとしても空しくなり、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」と刹那的にならざるをえません。Tコリント15:32。
 聖書でいう人の死とは、何を意味しているのでしょうか。アダムの罪の後訪れた死は、罪の代償としての死と言われます。創世記3:2〜17,3:19。神の命令を破り、罪を犯した結果、それまでの神との交わりが断たれ、死ぬ者となってしまいました。55〜56節。罪の結果エデンの園を追い出されたことは、神との断絶を意味しました。創世記3:23。人の死は、肉体的生命の停止だけでなく、精神的な生命の終わりを意味しています。人の生命の源であり、命を可能にする根拠である神との関係が断たれたからです。
 アダムが罪を犯す前、死の恐怖は人間を支配していませんでした。なぜなら、神が共におられたからです。命を与えられた神が彼らを守られたので、恐れる必要はありませんでした。しかし、人間が罪を犯した後、死は人間を支配し始め、死の恐れと不安が人間を蝕み始めました。罪の結果の死ですから、人の死には、罪が関係して来ます。恐れや空しさにさいなまれ、生きる力や喜びさえも弱めさせます。神との断絶のために、自己中心になり、肉の思いによって怒り、妬み、否定的な反応に翻弄されます。
 それでも、神の民には、神の絶対主権への信仰を通して、死が克服されることができるという望みを与えてくださいました。ただし、神が彼らを死の恐怖から自由にして救われる約束があるだけで、どのようにされるか分かりませんでした。

U−イエス様の十字架上の死から復活によって−57
 神は、最終的に人間を死から人類を救い出すために独り子イエス・キリストをこの地に送ってくださり、十字架の死に渡されました。人の死の原因を思い出してください。罪のための死でした。ですから、罪のない御子を私たちの身代わりに十字架に渡されたのです。罪のための死から救うためには、身代わりの死が必要でした。Tペテロ3:18。ここにイエス様が十字架につけられた意味があります。
 イエス様は、十字架上で死ぬことで、すべての罪をその身に受け、信じる者に勝利を与えてくださいました。57節。イエス様の十字架の死は、今まで私たちを支配して来た死の勢力を滅ぼしてくださいました。Uテモテ1:10。そして、私たちを死の恐れから解放してくださいました。ヘブル2:15。ですから、イエス様が十字架に死なれた時、信じる者から死の恐れと不安が取り除かれた瞬間でもあります。私たちと神との隔ての壁が撤去された瞬間でした。ですから、イエス様が十字架で死なれた時、神と人と隔てていた神殿の幕が避けたのです。マタイ27:51。
 イエス様の十字架の死は、それまで死の暗闇の中に閉じ込めていた私たちに、神から降り注ぐ命の光が明るく差し込んだ瞬間でした。イエス様の復活は、単なる奇跡ではなく、神が成し遂げられた救いの歴史の必然的な結果だったのです。イエス様の復活は、イエス様だけの復活ではなく、信じる者すべての復活につながります。ヨハネ11:25。イエス様の復活は、人の復活の初穂だと宣言しています。Tコリント15:20。
 イエス様の復活は、断絶された神との関係が回復されて、私たちの命の源である神が再び私たちと一緒におられることを意味しています。断たれた電気が再びつながって点灯するように、断絶された生命の交わりが再びつながったことを意味します。神様との命の交わりがありますか。イエス様を信じる私たちの内に命が溢れ流れて来ます。これが、今の復活です。
 つまり、復活は、イエス様の再臨の時にのみある事件ではありません。復活は、すでに救われた私たちの生活の中で実現されている現在の出来事です。死は、もはや私たちの存在と生活を抑圧することができません。今、イエス様が私たちの中におられるからです。ヨハネ14:17。したがって、私たちは、今復活させられている者だということができます。
 言うなれば、死は、私たちの人生の最後に訪ねてくるのではなく、私たちが生まれたときから、私たちの生活の中に組み込まれたものであり、私たちの天国までのプロセスの一部を成しているということです。ですから、「人間は死ぬために生まれたのでない。彼らは復活するために死ぬ。」というのです。私たちの肉体は、もちろん死にます。しかし、それは最初からそのように造られたものなので、まったく問題になることはありません。むしろ、私たちの死こそ永遠の命に入る関門となるのです。
 きょうは、主の復活の朝です。神から降り注ぐ命の光を受けてください。暖かく吹く復活の空気を呼吸してください。そして、私たちの中に残る死の毒素である不安や心配をすべて追い出してください。今、命の主であるイエス様があなたの前に来ておられます。心の扉を開いて、復活のイエス様を受け入れてください。黙示録3:20。そうすれば、再び死によって支配されることはありません。
 イエス様を信じる私たちは、永遠の命を受けました。私たちは、復活しました。この信仰を持ってしっかり立って、熱心に神の国を建設していく担い手になるよう願います。

V−イエス様の復活を信じる者は、変えられる
 私たちが今復活の命に生きるということは、それまでの死んで終わりの命とは大変な違いです。どんな変化が起こっていますか。イエス様に従っていた弟子たちも、イエス様の復活以前には他の人とは全く違うところはありませんでした。イエス様に付いて行くことで、権力の座に登ろうとした欲に満ちた人たちでした。世の人々と同じく、自己中心に怒り、否定的な思いに囚われ、妬みや争いを起こすような人たちでした。
 しかし、イエス様の復活の後は、彼らは大きく変化しました。造り変えられて、まったく別の人のようになりました。58節。彼らが求めた権力や名誉は何もないという事実を知ることになりました。それよりは、イエス様が教えてくださったように、御言葉通り生きて行くようになりました。より価値のある意味のある神の国があることを悟って、福音を宣べ伝えることに全力を尽くしました。迫害を受け、牢に入れられることも恐れないようになりました。Tテサロニケ2:2。
 イエス様の復活は、弟子たちの生活を完全に変えました。イエス様の復活は、弟子たちにこの世を本当に生きることができる勇気を与えてくれました。復活は、弟子たちに正しい人生とは何なのかを悟るようにしてくれました。復活は、弟子たちに新しい世界を見る目を与えてくれました。復活の信仰は、弟子たちにとってまったく新しい生活への転換点となりました。Tコリント15:1〜2。
 しかし、今日私たちの復活の信仰はどうでしょうか。私たちの復活の信仰は、イエス様の再臨の時に復活するという程度ではありません。復活の信仰は、私たちの現在の生活に何ら影響を与えないではおきません。イエス様の復活は、福音の核心であり、歴史の大転換点なのに、どうして私たちの生活においては影響を与えないでしょうか。もし私たちが復活の確信がなければ、私たちの生活に変化を呼び起こさないでしょう。
 言うなれば、今日の生活に影響を与えない復活の信仰なら、イエス様の再臨にも復活しないのはないでしょうか。今日、復活の信仰に生きていない人は、死んだ後も、永遠の命に生きることができないでしょう。もし弟子たちが、いつかイエス様の復活のようになるだろうか、と思いながら以前のような安易な生活をしたら、初代教会の姿はなかったでしょうか。
 アフリカで30年間宣教したリビングストンの日記帳の最後には、「私のイエスよ!私の王!私の命よ!私のすべてよ!神は独り子を私に与えられたのに、何もありませんが、私を捧げます。用いて下さい。」と記されていました。彼の墓石には「この人には、他の言葉は必要がない。彼は神の愛に応答して生きて、死んだ。」と記録されました。
 私達は、すべて自分の都合の良い信仰を持って生きていないでしょうか。この世で自分勝手に肉の思いで生きながら、死んで天国に行って復活して永遠に幸せに生きるというのは、身勝手ではないでしょうか。天国は、人々に仕えて謙虚に生きる人、御言葉に従って生きている人の入るところではありませんか。復活の信仰は、今必要な信仰です。復活を通して、今私たちの生活が変化しなければなりません。復活は、今日私たちの生活の中に起こらなければなりません。復活は、私たちが今まで当たり前のようにして来た生き方をやめて、正しい生活に移行する決断をさせます。




Tコリント 15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。



Tコリント15:32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

Uテモテ1:10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

ヘブル2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

Tコリント15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

Tテサロニケ2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。

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