2018年4月8日「人生の嵐の中で」マルコ4:35〜41

序−人生は海に例えられ、その間に起こる試練が嵐に例えられます。私たちが人生の中で、試練や問題に出会う時どうするのでしょうか。どのように出会うのでしょうか。その時、どう対処しようとするのでしょうか。どうしなければならないのでしょうか。きょうのガリラヤ湖で嵐に遭った弟子たちの姿が、それを教えてくれます。

T−試練は、イエス様と一緒でも来ます−35〜37
 ガリラヤ湖は、海抜マイナス212mです。夏でも雪の残る北方のヘルモン山(2744m)の冷たい空気と南方の砂漠の熱風が、ガリラヤ湖でぶつかるとき、予期しない突風が起きるそうです。イエス様と弟子たちが向こう岸へ渡ろうと舟に乗っている時、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになりました。35〜37節。弟子たちの多くは、ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師でした。彼らはガリラヤ湖の事情をよく知っていましたから、この嵐ではもうだめだと恐れました。
 この状況をよく見てください。新しい所へ行こうとした時です。よく新しいことを始めようとした時、しばしば問題が起こるものです。初々しい心を萎えさせ、勇む心を砕く状況が起こります。揺れる心が対処を乱れさせます。また、静かに湖を渡っている途中に、突然の嵐です。うまく事が進んでいる途中に、突如問題は起こります。順風満帆と思っていた時、予想もしない時に患難が訪れます。それだけにショックは大きく、心は乱れます。これが、人生の嵐です。
 時には、私たちの人生の中で、突然強風が吹き荒れることがあります。予期せぬ病気や事故、仕事の失敗や学びの困難、家庭の問題など、私たちの生活を脅かす要素があふれています。私たちの心を沈没させるように、問題や事件波風が押し寄せることがあります。今人生にどんな暴風が吹いていますか。さらに大きな問題は、そのような時私たちの心が、あまりにも簡単に失望と落胆におおわれて、恨みと怒りが生じてしまうということです。困難を誰かのせいだとしたり、自分はだめだと恐れたりします。ですから、人生の嵐になってしまうのです。
 そんな時、神の民であり、神の子どもと呼ばれることが空しいようになります。突然の嵐に出会う時、私たちの反応は、かなり肉であり、世的になります。ガリラヤ湖の突風に苦しんでいる弟子たちの姿に、人生の嵐に揺さぶられる私たちの姿を見ることができます。
 私たちがここで注目しなければならないことは、イエス様が一緒におられるにもかかわらず、嵐に出会ったということです。弟子たちは、イエス様の指示されたとおり向こうに行くために舟を漕いでいたにもかかわらずです。そうです。イエス様と一緒でも、問題は起こるということです。この出来事は、主に従うとしても、聖徒たちは嵐に会うということを教えています。ある者は、主に従順していないために嵐に会うと言いますが、従順の道を進んでいても、患難には出会うのです。しかし、弟子たちにとって最も重要なことは、主が一緒におられるということです。

U−試練の中で、イエス様を起こさなければ−37〜38
 激しい嵐に大きな波で、船は木の葉のように揺れ、水が船に入っていっぱいになって来ました。弟子たちは、懸命に水をかき出し、船を進めようとしましたが、絶望的でした。弟子たちの努力も、暴風の前には無力でした。私たちの人生においても、このような状況がしばしばあります。様々な試練に出会い、力を尽しても、無力を覚えるばかり。人生に吹き荒れる嵐、心を揺るがす波をどのように乗り越えられるのでしょうか。
 弟子たちは、みなガリラヤ出身、その多くは元漁師です。その弟子たちが、力を尽しても、どうすることができませんでした。専門分野での問題は、余計に問題の大きさと力の及ばないことを悟らせます。弟子たちの得意分野で出会った患難だから、もう無理だ絶望だと恐れたのです。人間的な方法で解決されないにもかかわらず、まだ肉の方法に執着している聖徒たちもいますが、弟子たちは限界を悟り、目覚めました。自分たちには、イエス様がおられるということに覚醒しました。
 決定的な問題は、主に持って来なければ、解決されません。イエス様は言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、すべて与えられます」マタイ6:33。弟子たちは、イエス様を起こして、訴えます。38節。気が付けば、何とイエス様は舟の後ろで寝ていたのです。彼らは、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と恨み混じりに訴えます。
 私たちも、時にはイエス様が主であることを忘れてしまって、肉の思いにとらわれて、神を恨み、失望に陥る場合が多くないでしょうか。イエス様を信じているのになぜ仕事がうまく行かないのか。どうして健康でないのか。問題に悩んでいる私を見捨てておられるのだろうか。こんなに祈っているのに、聞いておられないのだろうか。そんなふうに考えることがありませんか。
 突風に襲われている舟でも、イエス様が一緒です。人生の嵐の中でも、イエス様が共におられます。イエス様は、「いつもあなたがたとともにいる」と約束されました。マタイ28:20。主の御霊が、私たちの内に住んでいてくださいます。ヨハネ14:16〜17。これが、どんなに素晴らしいことでしょうか。弟子たちは、イエス様が船に一緒にいるにもかかわらず、それまで意識することなく、自分たちの力で問題を解決しようとしていました。問題がある場合、まず、イエス様を見つけようとしないで、自分だけで解決してみようとすることが、人間の肉の性質です。でも、イエス様は、いつも私たちのそばにおられ、私たちの問題を知っておられます。
 この時、イエス様は舟の後ろで眠っておられました。イエス様の中にある平安は、どのような状況が起きても変わらないのです。弟子たちはこれ以上耐えられなくなって、イエス様を起こして叫びました。38節。これがよかったのです。不満と恨みの混じった声でしたが、これが大きな転換点となりました。私たちも、イエス様を起こして?イエス様に祈ります。主が、私たちの訴えを聞いてくださり、答えてくださいます。マタイ6:33。神様は、私たちのためにイエス様を十字架に渡されたのではありませんか。どんな苦難の中でも助けてくださらないわけがありません。ローマ8:32。

V−試練は、イエス様によって静められます−39〜41
 イエス様は、弟子たちの訴えに答えて、風と波を静めてくださいました。39節。イエス様が「黙れ、静まれ」と命令されると、風も波も静まりました。イエス様は、自然を支配されるお方です。詩篇89:9。神様は、天地を創造されたお方です。イエス様は、風を静め、海を穏やかにした後、弟子たちに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」40節。あれだけ怖がったのは、突風のすごさだけでなく、いやそれよりも、信仰がないから恐れたのだとイエス様は言われたのです。確かに、突風を恐れていた間、弟子たちにはイエス様への信仰がないかのようでした。
 信仰がないと言っても、信仰がなくなったのでなく、その間信仰がどこかに行っていたのです。ルカ8:25には、「あなたがたの信仰はどこに行ったのか」と記されています。あるお母さんが、自分の子どもが信仰から外れた言動になっていた時、「あなたの信仰はどこに行ったの」と言っているのを聞いたことがあります。私たちも、共におられるイエス様を忘れて、肉の思いになって不安や恐れに陥る時、「あなたの信仰はどこに行ったのか」と言う主の御声を聞くようになるでしょう。ですから、人生の嵐の問題は、私たち自身の信仰の問題だと今日の御言葉は教えています。
 信仰は、主のご人格に対する信頼と関連しています。試練の時は、イエス様に対する信頼が構築される過程でもあります。幸いなのは、嵐が静かになった後に見せてくれた弟子たちの反応です。41節。「彼らは大きな恐怖に包まれて」とありますが、40節の「こわがる」とは、別の単語です。40節のデイロスは、「こわがって臆病になる」という意味ですが、41節のポベオーは、神を「畏れて敬う」という意味です。マタイ6:20,ルカ1:50。イエス様を恐れかしこみ、信頼して、平安を得ました。「舟は揺れても、沈まない」とは、16世紀からあるパリ市の紋章に舟の絵と共に記されている標語です。歴史の荒波を乗り越えたパリ市民の象徴となっています。
 私たちの生活の中で、突然嵐が吹き荒れることがあります。予期せぬ病気や事故などが、私たちの生活を脅かします。不安や畏れ、失望と落胆にとらわれることもあるでしょう。しかし、文句でも恨みでもいいから、イエス様に祈って、訴えましょう。詩篇39:12。人生の嵐を経験しながら、少しずつ主を信頼する信仰を身につけていくのです。嵐がなければ、果たしてどれほどイエス様を信頼しているか定かではありません。嵐の中でなければ、恐れて恨むこともありません。むしろ、主を信じているのでなく、自分を信じていたのかもしれません。
 人は平安を追求しています。平安への欲求は、人間にある基本的な欲求です。最終的には、私たちの努力で得ることができるのではなく、平安は神様を信頼するとき与えられるという事実を教えています。ヨハネ16:33。今、人生に暴風が吹き荒れていませんか。突然の嵐に恐れるでしょう。しかし、十字架の主は、嵐を静め、心を静めてくださいます。詩篇62:8。



マルコ4:35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」



マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

マタイ28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

詩篇89:9 あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます。

詩篇39:12 私の祈りを聞いてください。【主】よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

詩篇62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

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