2018年4月22日「絶望から希望へ」マルコ5:21〜34

序−同じ御言葉を読んでも、恵みを覚える人と覚えない人がいるのはなぜでしょう。同じメッセージを聞いても、導きを受ける人と受けない人がいるその違いは何でしょう。その理由を今日の箇所から見つけましょう。

T−何の甲斐もなく、絶望の中で−25〜26
 場面は、イエス様が会堂管理者ヤイロの娘の病気を治しに行くために、群衆が押し迫る道を急いでおられるという状況です。21〜24節。その中に一人の女性が現れます。どんな女性でしょうか。25〜26節。12年間長血に苦しんで来た女として紹介されています。不規則に血が流れている、下血が止まらない症状のようです。12年間も病気だというのです。どれほどの肉体的精神的苦痛を受けて来たことでしょうか。察するに余りあります。
 多くの医者にかかっても治してもらうことができず、以前は裕福だったのに、治療費のためにその財産を使い果たしてしまいました。財政的苦しみがありました。治すことができない医者たちから無駄な危険な治療を受け続け、高い薬を買わせられるばかり、治るどころか、かえって悪くなりました。努力は無駄になって、絶望状態であったということです。治らないことのジレンマと苦痛は限界に達していました。私たちは、どんなジレンマや苦痛を感じて来たのでしょうか。
 社会的にも制約を受けていました。当時のユダヤの社会慣習では、長血の女性は汚れた人とされていたので、社会的に疎外されていたでしょう。レビ15:25。一人ぼっちで、孤独だったでしょう。外側の病気なら、誰彼に頼むこともできたでしょうが人に知られたくない病気であり、人に言うこともできません。あらゆることを試してみましたが、癒されません。もう自分ではどうしようもなく、生存基盤が失われそうな危機に直面し、限界状況に達していました。この女性の姿は、人間の努力の限界を見せています。その焦燥感、危機感はいかばかりだったでしょうか。
 今日も、誰かに話すことができずに、問題や心の痛みを自分の中に持っている人がたくさんいます。私たちも、人間関係や仕事のトラブル、何かの問題で、もうだめだ、こんな人生もう嫌だと絶望に陥ることがあるかもしれません。状況が悪くなるばかりで、限界だと思うことがあるでしょう。この長血の女は、もはや自らの力でどうしようもない切迫した状況に直面した時、はじめて救い主であるイエス様を見つけました。

U−希望を見出して、イエス様の衣にさわって−27〜29
 この女性は、そんな絶望の中で、イエス様のことを耳にしました。27節。イエス様という方が、病気を治し、病んだたましいを癒してくれて、天国の福音を伝えているという知らせを聞きました。イエス様が病気を治す話を聞いて、絶望の暗闇に光明を見出しました。そして、イエス様の衣にでも触ったら病気が治ると信じるに至りました。29節,ヘブル11:6。イエス様に癒しの力があるという確信に満ちた信仰です。ここで知ることができるのは、女性の信仰がそれほど切実だったということです。
 私たちに、これほどの切実な信仰があるでしょうか。御言葉の約束を聞いても、そうなればいいけど、そうは言っても、と期待しないし、否定してしまうのでしょうか。この女性は、イエス様の衣にでも触ったら病気が治ると信じて、衣に触りました。28節。この人は、その信仰を行動にあらわしました。ヤコブ2:17。汚れた者として人々の前に出ることができない立場でしたが、そのような障害を乗り越えて、イエス様に近づきしました。
 しかし、彼女は自分の存在をひた隠しして、群衆にまぎれてイエス様に近づき、衣のすそにタッチしました。すると、どうでしょう。29節。その信仰通り、病気は癒されました。実に12年の間止まらなかった長血が止まりました。彼女は、自分の病気が治ったことを体で感じました。体に直接感じるほど完全に、迅速に治癒されたということです。イエス様に懇願したこともなく、自分の信仰をイエス様に明らかにしたこともない自分に、奇跡が起きたのです。
 では、私たちがイエス様の裾に触れるには、どうすればよいでしょうか。もちろん、この女性のように直接触れることはできません。この女性は、どうしてイエス様の衣に触れるようになりましたか。イエス様について聞いて、御言葉を聞いて、イエス様を信じました。イエス様を信じて、行動しました。私たちも、御言葉を聞いて信じるのです。ローマ10:17。そして、行動します。
 絶望に効くものとは、御言葉です。御言葉が私たちを絶望から救ってくれます。イエス様に救われ、罪赦され、天国に国籍のある者とされているのです。ですから、イエス様を信頼し、御言葉に拠り頼むのです。御言葉は、私たちの思考を変えてくれます。思いや考えを変えてくれる御言葉に触れることで、確実に私たちは希望に向かって行きます。焦燥感や絶望する心は、思考が変わらなければ、いつまでもそのままです。失敗や挫折、積み重ねて来たものが崩れた絶望から立ち直れるのは、イエス様を信じる信仰であり、御言葉です。御言葉は、自分の人生の考え方となります。

V−平安を与えてくれる、あなたの信仰が治した−30〜34
 イエス様は、女性の体が癒された瞬間、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と質問されました。30節。弟子たちは、多くの群衆が押し寄せているのに、誰がさわったかという質問は、愚問だと言わんばかりです。31節。もちろん、イエス様は、その混雑した状況の中でも、切実な彼女の信仰を知り、彼女の願いを聞いて、癒してくださいました。
 ですから、イエス様が誰だか分からなかったので、この質問をされたのではありません。イエス様は、この内密の奇跡を周りの人々に明らかにする意図をもって、質問されました。そして、彼女の病気を癒されたことが、真の信仰によるのだという事実を、彼女自身が確信するためでした。イエス様が群衆の中を振り向いて、探しておられるのを見て、この女性は、もはや事実を隠しておくことができませんでした。33節。この人は、イエス様の前に出てひれ伏し、癒された真実を余すところなく打ち明けました。この女性がそれを恐れていたのは、自分の病気が当時の社会で汚れた者とされ、人前に出られなかったからです。もう一つは、イエス様の力をこっそり利用しようとしたからです。
 この人は、癒された恵みに応えて、イエス様の前にすべての事情を公開するしかありませんでした。信仰を与えられ、恵みを受けても、それを明らかにしない人がいます。信じることができたら告白し、恵まれたら感謝することが大切です。それをあらわすことで、確信が与えられ、恵みが増し加わります。イエス様は、恵みの上に恵みをくださいました。34節。「あなたの信仰があなたを直した」とは驚くべき宣言です。信仰に確信が与えられたことでしょう。イエス様は、言われました。「娘よ」という呼び方も、ここだけです。イエス様にそのように呼ばれたいですね。
 もしこの人が、恵みよりも体面を重んじたなら、黙ったままで、驚くべき祝福はありません。イエス様を信じていながら、恵みよりも対面を重んじる人も多いです。恥ずかしいからと、祈ってもらうべきことを知らせない人もいます。確かに、この女性が自分の病気の癒しを公開することは、人間的に見れば恥ずかしいことであり、侮辱であり、残酷なことです。
 しかし、イエス様は、群衆の前で公然と宣言することで、もはや社会で疎外されないようにされたのです。汚れた者だという罪の意識から解放してくださり、元のコミュニティに復帰して、幸せな生活ができるようにしてくださったのです。ですから、イエス様は、この人に「安心して帰りなさい」と言われました。イエス様は、この人に本当に平安の恵みをプレゼントされたのです。ヨハネ14:27。
 「ある無神論者の祈り」という詩「神よ。あなたに祭壇の花一輪ささげたことがないから私を覚えていないでしょう。…しかし、神よ。すべての人が寝ている深い夜には、あなたの低い息を聞きました。ひっそりした時に跪いて祈ります。…もう少し近くに行ってもいいですか。あなたのつま先を覆った神聖な裾を汚い手で触れてもいいですか。」作者は、「縮み思考の日本人」で有名なイ・オリョン氏で、韓国の前文化部長官であり、74歳で洗礼を受け、ラブソナタ伝道集会でも講演をしました。困難にあった娘を介して神様に出会い、愛する娘に自分はいつも忙しい父だったが、天の父は地上の父親よりも大きく、より広い愛を施した存在であることを認め、無神論者であった彼も神に近づきました。噂を聞いてこっそり主の裾に手をやると、主がその手をぎゅっと握ってくださったと言う証しです。
 今日、私たちの中にも様々な問題で傷んで、苦しんでいる人がいます。多くの人々が自分の問題を自分の力で解決しようと努力します。しかし、12年間長血であった女性のように、努力すればするほど痛みが増し、解決できないことも多くあります。イエス様に来てください。誰も知らないその痛み、その悩み、他人にとても言えないことを持って、誰も知らないうちにイエス様に来てください。
 イエス様が私たちの問題を解決してくださるという信仰さえあれば、イエス様に問題を告白するなら、イエス様が私たちの問題を解決してくださいます。あなたの問題は何ですか。今この時間、イエス様の御言葉の前にその問題を置いて、信頼して解決を受ける一人一人になりますように祈ります。ヘブル11:6。



マルコ5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」



ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

ヤコブ2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

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