2018年4月29日「ぶれない信仰」マルコ5:21〜24、35〜43

序−種蒔きの例えに、いばらの中に落ちた種は、世の心遣いや富の惑わし、欲が御言葉をふさぐとありました。マルコ4:19。信仰の生涯は、順風満帆とは行きません。様々な問題や病気、惑わしが、私たちの信仰を揺さぶります。揺れ動き、時には倒れ、信仰がないかのようになってしまいます。ですから、今日の箇所からぶれない信仰について学びます。

T−体面、体裁、世間体を脱ぎ捨てて−21〜23
 今日の箇所は、父親の娘に対する愛からはじまります。会堂管理者ヤイロという人の12歳の娘が病気になって死にそうになっています。イエス様の話を聞いていたヤイロは、イエス様を信じて、娘の癒しを願ってイエス様のところに来ました。22〜23節。当時ユダヤ社会では、村ごとに会堂が置かれ、そこで礼拝や宗教的行事が行われ、そこは学校や裁判所の役割も果たしました。ですから、会堂管理者は、人々から尊敬を受ける宗教的社会的指導者でした。そのヤイロの一人娘として育った少女が、どれほど親の愛情を受けて育ったか想像できます。
 ヤイロは、地位と財力によって娘の病気を治そうとしましたが、無駄でした。それで、イエス様に助けを求めました。「いっしょうけんめい願って」と記されています。何度も繰り返し必死になってイエス様に懇願したということです。会堂管理者の権威とプライドを持って、イエス様の足もとにひれ伏すことは容易なことではありません。パリサイ人や律法学者といった宗教指導者は、イエス様を妬み、憎んでいました。大勢がイエス様のところに集まっている時です。21節。社会的立場は、人々の知ることとなり、ユダヤ教から懲戒を責められ、その地位を失うおそれがあります。
 私たちの社会は、体面を重んじる社会です。面目、世間体ということが人々の心を支配し、言動を左右しています。メンツ丸つぶれだ、プライドが傷付いたと怒ります。体裁を気にして、面目が立たないと言います。私たちは、どうでしょうか。どんな人にもありますが、とりわけ、このような社会的立場にある者は、余計あります。体面、体裁、世間体を重んじるあまり、自分の心とは違う言動になったり、部下や家族を犠牲にしたりします。この体面や世間体が、信仰生活にも入って来て、体面のために信仰で生きることができず、世間体のために信仰を明らかにしません。
 しかし、娘のためには、イエス様の足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださいと切に願いました。名誉も地位も知識も病気の前には無力です。体面もプライドも社会的体裁も捨てて、イエス様に懇願しました。会堂管理者である自分の体面やプライドを置いて、イエス様を信じて、御前にひれ伏しました。信仰の世界に入って来ました。これが、絶望的な問題が解決される糸口となりました。
 私たちの抱えている問題は何でしょうか。失望落胆することがありますか。何のために傷み、葛藤しますか。ヤイロのように、自分の問題を持って立ち上がって、イエス様の御許へ出てください。偏見、体面、プライドを置いて、イエス様の足もとにひれ伏して、求めてください。イエス様の救いと働きが始まります。イエス様は、会堂管理者としてもこれまでの態度も責めず、直してあげようも何も言わずに、ただヤイロと一緒に彼の家に向かいました。イエス様の愛が感じられます。

U−中断、停滞の中でも−35〜36
 イエス様が娘を癒すために一緒に家に行ってくれる。どんなにうれしかったことでしょう。足早に歩んだでしょう。しかし、自分の家に急いで行く途中で問題が発生しました。イエス様が突然、歩みを止め、振り向きながら「誰がわたしの着物に手をさわったのか」と尋ねました。12年長血の女が登場して、癒されることになります。その場のやり取り、どれほどヤイロには、長く感じられたでしょうか。どうして邪魔するのだ、後でもいいだろうと彼の心は苛立ったはずです。私たちのことにも、中断や妨げが生じ、妨害や邪魔が入ります。どんなにイライラすることでしょうか。しかし、ヤイロは、苛立ちながらも、耐えていました。何も言いません。
 ヤイロの家に行くことが長血の女性のために中断していた時、ヤイロの家から人が来て、ヤイロの娘が死にましたと告げるのです。35節。ヤイロの希望を一瞬にして絶望に変えてしまう衝撃の知らせです。この中断と女性の妨害で、娘がイエス様に会わないまま死んでしまったのです。絶望し、憤慨したでしょう。怒ることもできました。会堂管理者の権威で邪魔した女性を責めることもできました。こんな女に関わって娘を死なせたとイエス様を恨むこともできました。
 皆さん、自分がヤイロだったら、どうですか。信仰生活に生きる私たちも、仕事や家庭の問題で、このような中断、停滞を経験します。祈っているのに、どうして問題解決は停滞したままなのか。信仰をもって頑張っているのに、なぜ中断してしまうのか。私たちも、苛立ち、憤慨することがあるでしょう。文句を言い、怒り出すかもしれません。ヤイロは、この時も、そんなことはしていません。このような体面や世間体を重んじる人が、それを越えて決めたなら、意外にぶれないのです。
 でも、言わないとしても、心はどうですか。知らせた人が、「お嬢さんは亡くなったのだから、イエス様を家にお連れする必要はないでしょう」と揺さぶるのです。ですから、イエス様は言われました。36節。ヤイロは、恐れていたし、一瞬信仰は揺れたのです。「恐れないで、ただ信じていなさい」。これが、彼の心を持ち堪えさせてくれました。私たちが、中断や停滞で憤慨したり、失望する時、この「恐れないで、ただ信じていなさい」というイエス様の声を聞く必要があります。重要なことは、イエス様が一緒におられることです。私は今、イエス様と一緒にいますか。私たちの家庭が主と一緒なのか、仕事を主と一緒にしているかが重要です。ヨシュア1:9。
 これは、神様が長血の女性の事件を通して、その信仰をテストされたのです。希望がなくなるような状況でも、イエス様と一緒にいる人は、絶望しないでください、信仰がなくては、祈って待つ忍耐はありません。希望していることが早く行われなければ、すぐにあきらめてしまいますか。本来、信仰というものは、状況によってそう簡単にぶれないものです。イエス様は、この社会的宗教的体面や世間体を乗り越えて、イエス様を信じるようになったヤイロが、どんな状況でもその信仰がぶれないように、励ましてくださいました。
 「ただ信じていなさい」とは、現在時制ですから、引き続き信じなさいということです。いくら大変な状況でも、信仰を中断させないで、信じ続けるということです。ヤイロの信仰は中断されませんでした。

V−タリタ、クミ−37〜43
 ですから、イエス様をヤイロの家にお連れする必要はないと言われても、ヤイロは、イエス様を一緒に家にお連れしました。37〜40節。家に着いて「死んだのではない。眠っているのです」と言うと、人々は、イエス様をあざ笑いました。「死んだ」というのは、再び目覚めることはないのですが、「眠っている」というのは、再び目覚めるのです。確かに地上の生涯を終えたなら、私たちは死にますが、天国で再び目覚めるのです。イエス様の救いの恵みです。ですから、私たちは死を恐れる必要はありません。死は、天国への関門に過ぎないからです。死は、私たちの人生の終わりではなく、永遠の命が開かれるのです。絶望にうちひしがれる人々に希望を与える、復活の栄光の主を信じてください。
 イエス様は、信仰の人であるヤイロと一緒に死んだ娘がいる部屋に入って行きました。40節。そして、ヤイロの娘の手を取って、「タリタ、クミ」と言われました。41節。タリタ、クミとは、「少さい者よ。起きなさい」という意味です。ここだけアラム語になっています。幼い頃少女のお母さんが呼んでくれたような言い方です。イエス様が子供の手を取って「タリタ、クミ」と言うと、それを聞いて、少女はすぐに起き上がり、歩き始めました。42節。ここにも、イエス様の愛があらわれています。
 私たちが持っている痛みと苦しみの問題は、何でしょうか。健康や精神的な問題ですか。物質や経済的な問題ですか。子供や家庭の問題ですか。職場や仕事の問題ですか。私たちが持っている問題の解決は、その問題を持っている私たちが起き上がり、イエス様の足もとにひれ伏す瞬間から始まります。ですから、「タリタ、クミ」という呼びかけは、信仰が眠って横になっている私たちに向かって、絶望と不信の所から立ち上がりなさいとイエス様が言われているようです。
 私たちの信仰は、どうでしょう。時には揺れる時があるでしょう。小さな痛みも大きく反応して、小さな事件も非常に恐れます。簡単に絶望して、簡単にへたり込みます。しかし、私たちが恐れと失望を感じながらも、主の恵みとあわれみを求めなら、主は、私たちをぶれない信仰へと導いてくださいます。どうか、イエス様を信じたならば、ぶれない信仰で、この素晴らしい救いの道を歩みたく願います。♯たとえ涙の時もただ信じてゆこう。疑わずに守られている恵みを感じながら、この道を。♭



マルコ5:21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
5:22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
5:23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
5:36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
5:38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
5:41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)
5:42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。



マルコ4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。

ヨシュア1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

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