2018年5月6日「偏見から信頼へ」マルコ6:1〜6

序−「知ってるつもり、無知の科学」という本によれば、知っているつもりで知らない「知識の錯覚」が、ときとして不合理な判断や行動というかたちで危険な影響をもたらすと言っています。きょうの箇所は、イエス様が郷里に行かれた時の出来事です。知っているつもりから起こった出来事を通して、恵みを無にしてしまうものについて学びます。

T−イエス様の知恵やわざに驚いた−1〜3
 故郷のナザレの人々は、イエス様の故郷での30年間を知っていました。イエス様の誕生と成長、家族関係と仕事、そして後家出をするまでに、すべてを知っていました。出生の秘密を知っている人も何人かはいたでしょう。彼らの目には、イエス様が私生児に見えました。30歳になるまで、彼らの目に映ったイエス様は、平凡以下の人でした。彼らは、イエス様のことをよく知っているつもりでしたが、それは、救い主としての公生涯を始められる以前の姿でした。
 公生涯を始められたイエス様が、カペナウムなどガリラヤ湖周辺で人々に福音を伝え、病気を治し、悪霊を追い出して活躍しておられました。当然、彼らは、カペナウムでのイエス様のみ業を伝え聞いていたことでしょう。そこで、イエス様は、故郷のナザレに行かれました。1〜2節。イエス様がナザレの会堂で教えられた時、故郷の人々は、イエス様の知恵や力あるわざに驚きました。伝え聞いていたことが、本当だったのです。きっと、故郷の人々は喜び、大勢信じただろうと思います。
 ところが、故郷の人々の反応は、逆です。2〜3節。「この人は大工ではないか。マリヤの子ではないか、その兄弟や姉妹を我々は知っているではないか」と言って、イエス様に躓いたというのです。ナザレの人々はイエス様の知恵の言葉を聞きながら、病人を直し、死んだ人を生かしたという知らせを聞いたにもかかわらず、彼らは完全に心を閉ざしてしまいました。信じないどころか、イエス様を退けたのです。なぜでしょう。どんな理由で、イエス様を退け、認めなかったのでしょう。どうして、そこまで知っていながら、その知恵と御業に驚きながら、信じなかったのでしょう。
 私たちも、物事や人について、よく知っていながらどうして認められないことがあるのでしょうか。人や出来事に驚きながら、なぜ受け入れられないことがあるのでしょうか。イエス様の故郷、ナザレの人々にその答えを見出しましょう。

U−イエス様に躓いた−3〜4
 ナザレの人々の心にどんな思いが生じていたのでしょうか。まず、過去志向のためです。イエス様の30年間の過去を知っていました。3節。「この人は大工ではないか。マリヤの子ではないか。その兄弟や姉妹を我々は知っているではないか」と言っています。自分たちが知っているイエス様の過去の姿、つまり、ヨセフとマリヤの子で、大工として働き、多くの弟や妹がいる人としてのナザレ人イエスを知っていたがゆえに、現在イエス様がどのようなお方であるのかを知ることを拒否したのです。
 よく過去の自分を自慢する人がいます。それ自体悪いことではないでしょうが、問題は、過去の記憶が未来を妨げるという点です。過去に縛られるのではなく、過去に基づいて未来をどのように作っていくのかが重要です。ですから、過去志向の人の特徴は、学ぼうとしていないことにあらわれます。過去に自分がしていたことを取り上げ自慢するのは、昔にそうしたが今はしていないということになります。昔の話ばかりするというのは、もはや変わることがないという意味でもあります。
 信仰は、現在のことであり、未来への成長が大切です。過去を記憶していても、現在どのように成長しているかが重要です。神様が私たちをご覧になる観点もそうです。私たちが神様を信じる前に行った罪と悪いものは、犯した罪を神様に告白するなら、赦してくださいます。イエス様の十字架のゆえに、過去を問題になさらないのです。私たちが、神様の無限の赦しと愛に感激して、新しい未来を開いていくためです。過去志向的な態度を捨て、日々新しくなることを決意したときに、私たちは奇跡を見ることになります。
 次に、彼らの偏見や先入観のためです。「躓いた」と言っています。彼らの持っている「この人は大工ではないか、マリヤの子ではないか」という偏見が、イエス様を認めて、信じようとする気持ちを躓かせたのです。この人の言うことには驚くが、あのような高い地位でない者の言うことは聞きたくないというのです。偏見は、事実を事実として見ないようにします。偏見は恐ろしいものです。真理を真理として見られず、歪んで見るからです。偏見は、葛藤と誤解を起こし、時には争いも起こします。ナザレの人々が30年の間に知って来たナザレ人イエスとしての知識が、イエス様を拒否させたのです。
 故郷の人々は、「こういうことをどこから得たのでしょう」と偏見を持っていました。通常のラビとしての教育を受けていないのにと言って、イエス様の知恵や力を認めようとしなかったのです。否定的な視野の所有者には、すべてを偏見でしか見ることができません。先入観に陥った人には、すべてが不満です。偏見と先入観にとらわれた人は、自分の愚かさは忘れて、人を見くだす、歪んだ魂の所有者となります。他人事ではありません。私たちの目と考えも、あまりにも多くの偏見にとらわれていることを知るべきです。私たちも、人や出来事に対して、偏見や先入観から簡単に勘違いして、誤った判断をしやすいからです。
 イエス様の弟子となったナタナエルさえ、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と先入観を持っていました。ヨハネ1:46。ナザレはエルサレムやカペナウムに比べると非常に田舎です。そんなところからメシヤが出て来るはずがないというのが、当時のユダヤ人の偏見でした。しかし、イエス様が、人となって世に来られ、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、卑しくし、十字架の死にまでも従われたのは、人々の救いのためだったということを忘れてはなりません。ピリピ2:6〜8。
 そして、イエス様に対する妬み、嫉妬もあったでしょう。知らない人であれば、妬みも起こらなかったでしょう。イエス様を知っていたがゆえに、絶大な人気と尊敬を得ていたイエス様を妬んだのです。彼らは、イエス様が自分の近所で父もない貧しい家庭で育って、注文を受けてやっと働く大工の友人が自分たちを教えることを容認することができなかったのです。それで、彼らはイエス様を無視して退けたのです。私たちにも、この妬みの思いは生じます。ですから、主の前に出て、彼我を共に愛して賜物を与えてくださるお方を認めて、従うのです。

V−知っているなら、信頼する−5〜6
 そのような故郷の人々が、偏見や過去志向、妬みによってイエス様を退けた結果が記録されています。5〜6節。イエス様は、故郷の人々がご自分を信じないことにについて驚き、衝撃を受けました。イエス様は、ただ故郷の人々を愛しただけに、神の国の福音を恵みをプレゼントしたかったのに、不信仰のゆえに何一つ力あるわざを行うことができませんでした。故郷の人々を愛していたゆえに、イエス様の心の痛みが感じられます。
   今日の箇所は、イエス様を知らないのに、知っているかのように錯覚して、イエス様を受け入れなかった人々の話です。Tコリント8:2。では、今日どのようにすれば、イエス様をすぐに知ることができるかを考え、恵みを得ることにしましょう。まず、疑わないで主に従うと、イエス様を正しく知ることができます。網をおろしてみなさいというイエス様の言葉に対して、ペテロはおことば通りしてみようと従いました。ルカ5:4〜6。大漁を経験して、イエス様が主であることを知り、自分が罪人だと知りました。
 イエス様の他に救い主がいないことを告白する時、イエス様をよく知ることができます。自分が罪人であることをわかっている聖徒たちは、イエス様しか他に救助者がいないことを信じるようになります。イエス様を信じる時、正しく知ることができます。聖書をいくら知っても信じなければ意味はありません。
 人間の堕落は、神様の御言葉を全面的に信頼していなかったことから始まりました。サタンの言葉をより信頼したので、人類全体が苦痛に落ちました。最終的には、主を信頼していないことが、究極的な問題であると悟ることができます。神様に信頼し、感謝し、神様との正しい関係になることから平安が来ます。恵みがなかったから、躓いたと言い訳することはできません。不信の態度は、ナザレの人々の責任です。彼らが驚くほどの教えや御業を行われたからです。
 「今は恵みの時、今は救いの日です」という御言葉は、誰にでも福音を聞いた誰にでも適用されます。Uコリント6:2。今でも先入観や偏見を捨てて御言葉に集中することができます。私たちのために十字架にかかってくださった主を悲しませることのないように、救いの恵みに応答したいです。御言葉を聞くことの恵みを覚えて、感謝します。



マルコ6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
6:3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。



ヨハネ1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

Tコリント8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

Uコリント6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

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