2018年5月27日「主イエスを指し示す者」マルコ6:14〜29

序−人の心の奥には、権力を握って、自分の欲の思うままにしてみたいという思いがあるそうです。また、まじめに働いて人生を生きても損ではないか、自分の欲の思うままに生きた人がうらやましいという思いを持つそうです。はたして、そうなのでしょうか。ここに登場するヘロデ王とバプテスマのヨハネの姿から、信仰者の生涯について学びます。

T−人のあくなき欲望の結果−
 遣わされた弟子たちによってイエス様のことが知られるようになると、人々はイエス様を「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえった」とうわさするようになりました。バプテスマのヨハネとは、人々に悔い改めのバプテスマを説いて活躍していた有名な預言者です。マルコ1:4〜5。そのヨハネの首をはねたヘロデ王は、うわさを聞いて、恐れました。14〜16節。ここに、そのバプテスマのヨハネ事件について、記されています。17〜29節。事実は小説よりも奇なりというのでしょうか。この話は、古来演劇の題材として取り上げられています。
 ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレヤ地方の領主でした。ヘロデは兄弟の妻であり、姪であったヘロデヤの美貌に見せられて不倫し、権力に目のくらんだヘロデヤも夫を捨てて、ヘロデもナバテヤ王の娘と離婚して、二人は結婚しました。二人は、それを非難したバプテスマのヨハネを投獄しました。ヘロデは、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、獄中に置くだけに留めていましたが、ヘロデヤはヨハネを殺したいと思っていました。ついに王の誕生日パーティーの時、娘のサロメの踊りに興を感じたヘロデが何でも所望するものを与えるというと、ヘロデヤは、サロメにヨハネの首を求めさせ、首をはねさせたという話しです。
 映画や演劇の題材とされるくらい、人間の欲望と残虐さ、空しさと悲惨さ、聖さと崇高さとが織り交ぜられたストーリーとなっています。では、なぜヘロデは良心を失い、不法と残虐を行ったのでしょうか。ヘロデが良心を捨てた元は、欲望でした。ヘロデヤを手に入れたいという欲望、ヘロデヤはもっと欲望が大きく、権力欲を満たすためには何でもする人でした。ヤコブ1:14。まさに、欲に引かれ誘惑され、欲がはらむと罪を生むということです。
 それに加えて、虚栄心がヘロデにヨハネの斬首をさせました。王とは言っても、ローマ帝国から狭い地域の管理をまかされている領主に過ぎません。「私の国の半分でも与えよう」と言っているのは、偽りです。王としての虚栄心のために、サロメの要望通りにさせたのです。彼の虚しい栄光を求める心がヘロデヤに利用されてしまいました。愚かな姿です。
 娘が首を所望するなど、拒否してしまえばいいのに、なぜ斬首させてしまったのでしょう。王、領主として人の顔色を意識するヘロデは、「列席の人々の手前もあって」斬首させたのです。26節。彼は、人の顔色を意識して、神を意識していなかった。そして、罪悪感に苛まれるのです。
 誰にも、欲や虚栄心があり、人の評価を気にします。私たちも気をつけなければなりません。ヨセフスのユダヤ史によれば、やがてヘロデヤにせがまれたヘロデは、皇帝カリギュラに正式な王位を求めたところ、かえって不興を買い、二人はイスパニヤに流刑となり、そこで生涯を終えたと記録されています。結局、欲が身を滅ぼしたということです。

U−生きても死んでもイエス様を指し示したヨハネ−
 欲望のまま権力をふるい続けた二人の末路を知って、溜飲が下がっても、残酷に殺されたヨハネがかわいそうだ、預言者としての働きをしたのに、こんな最期なんて空しすぎると思うでしょうか。荒野で叫ぶ者の声と言われた偉大な預言者の死としては、あまりにも悲惨です。二人の欲望の犠牲となったヨハネの生涯を振り返ってみましょう。
 ヨハネは、救い主の到来を告げる神の働きとして、ヨルダン川で悔い改めを説いて、預言者としての活動をしました。マルコ1:4〜5。大勢の人々がヨルダン川に来て、悔い改めて洗礼を受けました。それで、バプテスマのヨハネと呼ばれました。彼は、最初から自分は救い主の到来を告げる先触れだ、とイエス様を指し示しました。ヨハネは、人々が自分に注目することを望みませんでした。ヨハネは、イエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊である」と言いました。ヨハネ1:29。
 やがて、イエス様が人気を得て、人々がイエス様の方に行くのを見た彼の弟子たちが憤慨していると、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と言います。ヨハネ3:26〜30。何と言う人でしょう。ヘロデの欲や虚栄心とはまったく逆の姿です。あの人は誉められ私はへりくだらなければ、あの人は評価され私は評価されません、というのです。人々を振り回す妬みも虚栄心の片鱗もありません。自分の使命を果たせれば、人々の評価や賞賛がなくてもいいという態度です。清々しいことこの上ない信仰者の姿です。私たちも、このような清々しい信仰者として生きたいです。
 でも、そんな素晴らしい信仰者が、権力と欲望の犠牲になって斬首されるなんて酷過ぎる、そんな最期なんて空し過ぎると思われるでしょうか。牢獄の中でヨハネ自身、自分の人生と働きを何と思ったのでしょうか。獄中から弟子たちを通してイエス様に質問させています。マタイ11:2〜4。獄中でイエス様が来るべき救い主であることを確認して、憂いを取り去っています。自分の働きはこれでよし、空しくないと確信していました。
 私たちは、どうでしょうか。自分の働きや人生を空しいと思いますか。自分の思うように生きることができなかった。自分の働きや労苦が十分に評価されなかった。そのように思いますか。イエス様の弟子として精一杯生きて、働いたならば、ヨハネのように自分の人生は、これでよし、悔い無しと確信できます。これからでも、悔い無き信仰の生涯を送りましょう。
 弟子たちの活動でイエス様の名が知れ渡って行くと、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と人々が言うようになり、ヘロデもそう思って恐れました。14,16節。何と、ヨハネは、死んでもこのように人々に覚えられています。死んでいても、イエス様を指し示すことになりました。イエス様は、バプテスマのヨハネのことを何と言っていますか。マタイ11:10〜11。ヨハネこそ、救い主到来を告げる預言者だと言い、「ヨハネよりすぐれた人は出ません」とさえ評価されています。私たちも、天国でイエス様から「よくやった忠実なしもべだ」と言われればいいのです。

V−神の前に生きる−
 このようにバプテスマのヨハネは、イエス様を指し示したので、彼の人生は輝きます。イエス様のゆえに、彼の死さえも輝きます。今日の箇所は、弟子たちが2人組みで遣わされた話と帰って来て報告している話に挿入されています。12〜13,30節。つまり、弟子たちも、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」ということを暗示しています。Uテモテ3:12。世の人々が欲のまま生きている中で、御言葉に従って忠実に主の弟子として生きていても、評価されなかったり、患難を受けたりするということを示しています。イエス様に従う弟子たちも、イエス様のように十字架を負って生きます。マタイ16:24。肉の欲や虚栄心を捨て、主の弟子としてイエス様をあらわして生きて行くのです。
 イエス様の弟子たちは、ヨハネのように、イエス様を指し示して生きることが必要でした。私たちも同じです。イエス様の弟子である私たちがしなければならないことは、自分の生涯を通してイエス様を指し示して生きるということです。ローマ14:7〜8。イエス様が私たちのために十字架で死んでくださったので、私たちは、イエス様のために生きることができます。死んでも、ヨハネのようにイエス様を指し示すことができます。
 私たち長老教会の先駆者、宗教改革者のカルヴァンの活動によって、スイスのジュネーブは、市全体が宗教改革の信仰で治められ、ヨーロッパの良心と呼ばれました。彼の生き方の基盤をあらわしたラテン語があります。「コラムデオ、神の御前に」という意味の言葉です。神の前で生きるということを表現しています。私たちが何をしていても、どこで行っていても、神の目の前で行動することを意識する生き方です。コロサイ3:17。私たちが、神の御前に立つ心で生きているならば、決して失敗した人生ではありません。イエス様を指し示す人生を生きていくことになるからです。
 考えてみれば、なぜ荒野で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていたヨハネが、ヘロデ王に忠告したのでしょう。殺されてしまう恐れがあったはずです。ヘロデは、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、獄中から彼から呼んで、彼の教えを聞いて、耳を傾けていたということでした。20節。つまり、ヨハネはヘロデの悔い改めを期待していたから、忠告したのでしょう。ヘロデヤの誘惑やそそのかしがなければ、そうなっていたでしょう。ヨハネは、そうして命をかけて預言者としての使命をまっとうしたということです。それは、十字架にかけられるのを分かりながらエルサレムへ行かれたイエス様の姿をあらわしているようです。
 今日の箇所は、ヨハネの悲惨な死を記している箇所ですが、重要なことは、それを通してイエス様があらわされたことです。ヨハネが生きていても、死んでも、イエス様があらわされたことに注目しましょう。私たちの生涯も、どんな仕事であってもどんな家庭生活であっても、イエス様を指し示すものとなりますように願います。コロサイ3:17。



マルコ6:14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ」と言っていた。
6:15 別の人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ」と言っていた。
6:16 しかし、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ」と言っていた。
6:17 実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、──ヘロデはこの女を妻としていた──人をやってヨハネを捕らえ、牢につないだのであった。
6:18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です」と言い張ったからである。
6:19 ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。
6:20 それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。
6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、
6:22 ヘロデヤの娘が入って来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう」と言った。
6:23 また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう」と言って、誓った。
6:24 そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首」と言った。
6:25 そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」
6:26 王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。
6:27 そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、
6:28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。
6:29 ヨハネの弟子たちは、このことを聞いたので、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めたのであった。



ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

ヨハネ3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

マタイ11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

マタイ11:10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

Uテモテ3:12 確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

ローマ14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

コロサイ3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。



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