2018年6月3日「小さな献身に働く祝福」マルコ6:30〜44

序−ビジネスの世界では、とりわけ数字がものを言うのですが、数字にとらわれると危険だとも言われます。売り上げ目標という数字にとらわれ過ぎると、無理な売り方や不当な方法をすることになって、企業のサービスを通して顧客に喜んでもらうという本来の目的が見失われてしまうからです。弟子たちも、数字にとらわれて本来の目的を見失っていたようです。

T−羊飼いのいない羊をあわれみ−30〜34
 伝道旅行に出ていた弟子たちが戻って来て、報告をしました。30節。その働きは大成功し、弟子たちは、自分たちは頑張ったという思いが強く、それだけ疲れも覚えていたようです。31〜32節。イエス様から権威を与えられ、主に信頼して働いたにもかかわらず、彼らはそれを忘れてしまい、自分の力、頑張りでやれたと思うようになっていました。それが、ただされる機会が訪れます。
 イエス様を追い求めて、群衆が先回りをして集まって来ました。33節。休みを必要としていた弟子たちにとっては、迷惑なことだったでしょうが、イエス様は、そうではありません。イエス様は、群衆を深くあわれみ、教え始められました。34節。喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、癒しの必要な人たちを癒されました。ルカ9:11。
 イエス様は、群衆が「羊飼いのいない羊のようである」ように思われ、深くあわれまれたからです。イエス様を求めて追って来た群衆が、羊飼いのいない羊のように迷っており、疲れているように見えたからです。この「あわれみ」という原語の元は、内臓をあらわす言葉です。それを思うと内臓に感じるほどの気持ちのことです。英語のあわれみも、「一緒に苦しむ」というラテン語から来ています。あわれみとは、苦難に一緒に参加することを意味し、他人の痛みを一緒に苦しむことなのです。ヨハネ10:11。私たちも、イエス様のあわれみの心を持てるように願います。
 イエス様は、彼らの痛みがご自分の痛みになりました。彼らの苦しみがイエス様の苦しみになりました。ですから、イエス様は、ついにはどうされましたか。人々の罪と滅びをその身に負って、十字架に苦しみ、死なれました。Tペテロ3:18。イエス様の心は、このあわれみと愛です。ローマ5:8。十字架は、私たちへのイエス様のあわれみと愛のあらわれです。イエス様はこの群衆をあわれんで、神の国の福音を教えてくださいました。ルカ9:11。羊飼いのいない羊には、人間にとって根源的な問題である救いが必要です。迷える羊には何よりも羊飼いイエス様が必要でした。福音は、病んだ心を健康にしてくださり、死んだような魂をよみがえらせてくださいます。

U−数字から祝福へ−35〜44
 この群衆は、イエス様を追い求めて来ていたので、食事をしていませんでした。時間が夕方になり、弟子たちは、群衆を解散させて、めいめい食事を取るようにさせてくださいとイエス様に提案します。35節。妥当な適切な判断でしょう。しかし、イエス様は、彼らが考えもしなかったことを命じられました。36節。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われたのです。
 計算高い弟子たちは、「二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか」とすぐさま答えます。37節。言外に、「そんな無理なこと」という否定的思いがあります。1デナリは、当時の労働者一日分の賃金に相当する額です。5千人×一人分で割り出した計算なのでしょう。44節。弟子たちの計算は確かです。しかし、計算すればするほど否定的になります。実際にはもっと多くいたのでしょうから、それでも、とても足りないという計算になりました。ヨハネ6:7。
 どう見たって、イエス様の言うことが無理なことで、弟子たちの方がきわめて合理的な判断です。イエス様はこの状況を分かっていないのでしょうか。弟子たちの置かれている環境を理解されていないのでしょうか。いいえ、イエス様は、弟子たちの環境をよく知っておられます。弟子たちの都合も分かっておられます。それでも、「あなたがたでしなさい」と言われたのです。
 イエス様は、私たちの状況も都合もよくご存知です。私たちの仕事の困難も知っておられます。私たちのいる環境の難しさも理解されています。それでも、「あなたがしなさい。自分でやってみなさい」と言われる時があります。弟子たちのように応答しますか。どう応答しますか。
 弟子たちの計算は的確で、群衆を解散させるというのも合理的な判断でした。しかし、イエス様の関心は何ですか。なぜ、群衆に配慮されたのですか。彼らを「羊飼いのいない羊のように深くあわれんだ」からです。
 弟子たちは、自分たちの判断、自分の計算にとらわれて、群衆をあわれみ、群衆に仕えるという目的を見失っていました。そして、何よりも、イエス様に信頼して、イエス様に用いられるという弟子の目的を見失っていました。その目的が、宣教旅行の成功や頑張ったという思いで失われていたのです。クリスチャンが律法的になったり、自分の頑張りでやったりすると、危険です。私たちにも、イエス様のように、羊飼いのいない羊をあわれむような心が必要です。羊飼いの心情があるでしょうか。
 そもそも、弟子たちはどうして伝道旅行に成功したのですか。イエス様から権威と力を与えられました。7節。何か必要なものがそろっていたのですか。いいえ、必要なものがなかったけれども、イエス様のお言葉に信頼して出かけました。主の聖徒たちに必要なのは、御言葉に信頼することです。主の弟子に必要なことは、イエス様に拠り頼むことです。
 何と!イエス様は、弟子たちが持っていた「五つのパンと二匹の魚」を祝福して、群衆に分けてくださいました。41節。人々はみな、食べて満腹し、たくさん余りました。42〜43節。主が働いてくださる時、数字を越えます。主の祝福は、豊かです。主に信頼し、御言葉に拠り頼む時、私たちは祝福を受けます。

V−あなたがたで、しなさい−35〜38
 私たちには、何もできないから、群衆を解散するように提案した弟子たちに対して、イエス様は「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」と言われました。35〜37節。実は、その時、イエス様は、弟子たちを「ためして言われた」のです。ヨハネ6:6。自分の頑張りや肉の思いにしばられていた弟子たちは、本来の目的を見失っていました。的確に計算はできても、ことごとく否定的になってしまいました。このテストで、イエス様を信頼していないことが露呈されてしまいました。どうして、このような状態でイエス様の奇跡が行われ、祝福に与ることができたのですか。この大きな変化のきっかけに注目しましょう。
 38節のイエス様の質問と弟子たちの応答です。弟子たちは、200デナリだけを考えて否定的になりました。多くの聖徒たちが弟子たちのように、200デナリだけを考えています。「お金がなければ、時間がなければ、能力がなければ」などと否定的に考えてしまいます。イエス様は、ない200デナリを考えている弟子たちに命じられました。38節。イエス様は座って否定的な考えをする弟子たちに「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい」と言われました。考えただけではなく、行って見て来なさいと命じられました。信仰の行動を要求されました。
 弟子たちは、行って探して来ました。「五つのパンと二匹の魚」があるのを確かめて、イエス様に差し出しています。38節。弟子の一人は、「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と否定していましたが、持って来ました。ヨハネ6:9。弟子たちは、行動しました。イエス様の問いに従って、探しています。何とかテスト合格となりました。困難や無理な仕事、急な病いや問題発生ということが、テストになっているかもしれません。否定的にならないで、信仰で取り組んでみましょう。
 ここで、弟子たちは、なぜ役立たないと否定しながら5つのパンと2匹の魚を持って来て、イエス様に差し出したのでしょう。それは、一人の少年が差し出した少年の弁当だったからです。ヨハネ6:9。一人の少年が、「僕の弁当をみんなに分けてください」と持って来たからです。この純粋な少年の心は、計算などしていません。僕もみんなの役に立ちたい、みんなを助けたいと自分の弁当を弟子たちに差し出したのです。この小さな献身が、イエス様の大きな奇跡を引き出すことになりました。
 私たちは、肉の思いになると、無いものばかり考えて、否定的になります。今日の社会は、経済力が無い、子どもが少ない、労働力が足りない等々、否定的に言われますが、あるものを探してみれば、慎ましく生活することができ、働くことができる年寄りも多く、子どもも着実に生まれて来ています。私たちも、能力がない、力ない、あれもこれも持っていないと否定的に考えるでしょうか。でも、イエス様は「あるものを探してみなさい。何がありますか」と言われます。イエス様は、無いものを望んでいません。私たちの5つのパンと2匹の魚を望んでおられます。私たちの小さな献身を望んでおられます。そうすれば、祝福して用いてくださいます。



マルコ6:30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
6:32 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
6:35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。
6:36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
6:37 すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
6:38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
6:40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
6:41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
6:42 人々はみな、食べて満腹した。
6:43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
6:44 パンを食べたのは、男が五千人であった。



ルカ9:11 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ヨハネ10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

ヨハネ6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

ヨハネ6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

ヨハネ6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。

戻る