2018年6月10日「しっかりしなさい。わたしだ。」マルコ6:45〜56

序−質問をします。あなたにとって、どんな時にイエス様がともにいてほしいですか。では、あなたは、その答えられた〜の時、イエス様がともにおられることを確信されますか。今日の箇所の弟子たちとイエス様の姿を通して学び、考えましょう。

T−向かい風のような困難−45〜48
 今日の箇所は、5千人の給食の奇跡の直後、イエス様は、群衆を解散させ、弟子たちを先に向こう岸に行かせて、ご自分だけ山に行って祈っておられました。45〜46節。弟子たちのために祈っておられたようです。よみがえられて、天の右の座につかれた後も、私たちのためにとりなし祈っておられます。ローマ8:34。主は、ご自分を求め、拠り頼む者のために祈っておられます。ヘブル7:25。なぜでしょう。人生は問題だらけであり、私たちは恐れや不安をかかえながら問題と取り組み、倦み疲れるからです。
 弟子たちに訪れた患難、問題は、何でしょう。47〜48節。弟子たちの舟が、ガリラヤ湖の真ん中ほどに進んだ時に、向かい風によってそれ以上進まなくなりました。それが、夜中まで続いていました。4章の激しい突風とは違いがあります。マルコ4:37〜38。突風は、突然弟子たちを襲ったものであり、舟は浸水して沈みそうになり、どうにもならない強風でした。しかし、「向かい風」は、弟子たちが取り組めるもので、長い時間何とか進めようとしています。舟が進まないだけで、沈む心配はありません。
 突風は、突然私たちの人生に吹き荒れる嵐のような問題ですが、向かい風は、長い期間私たちを苦しめる問題です。ここに、「向かい風のために漕ぎあぐねている」という表現があります。「あぐねている」と訳された言葉は、「拷問する」という意味にも使われています。それだけ、頑張って取り組み続けているけれども、苦しみが続くという人生の問題をあらわしています。そんな向かい風に出会っていますか。
 このような弟子たちのことをイエス様はご存知です。一緒に拷問を受けておられる心境で祈られます。イエス様は、私たちを責め立てる罪のために十字架にかかってくださいました。コロサイ2:14。私の痛みを誰も知らないと不平を言い、誰も私の悲しみを理解していないという嘆きは、私たちのイエス様にはあてはまりません。時には、人生の中で向かい風が厳しく、長く続いて倦み疲れます。自分に力がない、私は弱いと嘆きます。しかし、本当の問題は、向かい風があるということではありません。そんな時、イエス様がともにいてくださることを忘れている、イエス様が私のために祈っておられることを知らないということです。どんな問題も、私たちを愛してくださるイエス様から私たちを引き離すものはない、と御言葉は保証しています。ローマ8:38。

U−イエス様は、幽霊ですか、共におられる方ですか。−
 弟子たちのために祈っておられたイエス様は、弟子たちが長い時間舟を漕ぎあぐねているのをご覧になって、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれました。48節。弟子たちの苦しみを知っておられたイエス様は、すぐに行動を起こされました。イエス様は、5千人の給食の奇跡を通して、イエス様がメシア救い主であることをあきらかにされましたが、ここでも水上渡渉という奇跡を起こされました。
 奇跡を起こしてまで、弟子たちのところに行かれたのに、弟子たちは、どんな反応を示したのですか。喜んで、歓声を上げましたか。49節。何と、「幽霊だ」と声をあげ、恐れたというのです。イエス様がゴースト、幻、幻想のように見えたということです。私たちのためにイエス様が湖の上を歩いて来られた、奇跡を起こしてまで来てくださったと受け取るなら、どんなにか素晴らしいシーンでしょうか。
 どうして、そんな反応になってしまったのでしょうか。船が沈みそうな嵐ではなくて、自分たちの力で取り組める向かい風だったからです。そのために、イエス様に拠り頼もうという信仰が無かったからです。イエス様が奇跡のできる方だと知っているはずです。ですから、水の上を歩いているから幽霊と思ったのではなく、彼らの心からイエス様がいなくなっていたからです。沈みそうになって、藁をもすがる思いであったなら、たとえイエス様の幻が見えても、喜んで助けてと叫ぶでしょう。
 彼らは、5千人の給食から何を学んだのでしょう。イエス様が一緒ならわずかのパンさえ増やしてくださる、苦難の時こそ、自分の力を超えたことこそ、イエス様により頼むべきだということを学んだはずです。苦難の時なのに、彼らの心に、イエス様がいなくなっていたのです。イエス様に拠り頼む思いが無かったのです
 私たちは、どうでしょう。向かい風のような人生の問題に対して、イエス様を忘れて、イエス様を求めないで、自分の力で悪戦苦闘していませんか。今取り組んでいる問題について、イエス様に拠り頼み、委ねながら取り組んでいるでしょうか。主の聖徒でありながら、イエス様を求めていない、イエス様に拠り頼んでいないなら、信仰がないのと同じです。
 そんな反応をしていた弟子たちに対して、イエス様は何と言われましたか。50節。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。きょう、この御言葉を心に銘記しましょう。わたしだ、エゴーエイミーとは、主がモーセに、「わたしは、『わたしである』という者である」とご自分を明らかにされた時に使われた表現です。出エジプト3:14。不安や恐れを持っていたモーセに対してご自分をあらわして励まされました。
 イエス様が舟に乗られると風はぴたりと静まりました。51節。しかし、この時、弟子たちは安心するより「心中の驚きは非常なものであった」という反応を見せています。それは、まさに心が石のように固まっていたからです。52節。主がいつも一緒にいるのにも気付かないということは、この時の弟子たちだけの問題ではありません。私たちも、主がいつも共におられるにもかかわらず、心が鈍くなってしまうことが多いからです。私たちの周りにも、ああ奇跡だなと思うようなことがしばしば起こります。主の導きや守りを何度も経験します。それでも、少し状況が変わればすぐに不安と恐れを抱き、苦しみます。
 しかし、私たちの人生を導くお方が、私たちと一緒におられます。すべての私の必要を供給してくださるお方が、私と一緒におられます。どのような患難の中でも、守ってくださるお方が「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」と言われます。イザヤ41:10。

V−共におられる主に拠り頼む−53〜56
 私たちは、過去神様の驚くべき恵みの中でイエス様に出会う経験をしました。それなのに、今イエス様を見ることができず不安や心配の中で生きていませんか。イエス様が共にいてくださるという真理の本質を忘れたまま、ただ状況の困難や問題だけを見て苦しんで、恐れ不安を抱いていませんか。
 舟が陸に着くと、人々がイエス様に気付いて、病人を連れて来て、イエス様の衣の端にでも触ろうと集まって来ました。53〜56節。「せめてイエス様の着物の端にでもさわれば」という熱心な信仰で、イエス様に拠り頼みました。そして、触った人はみな癒されました。確かに、群衆は、弟子たちよりはイエス様のことを知りません。でも、5千人の給食を通して、イエス様が世に来られるべき預言者だと知って王にしようとするくらいでした。ヨハネ6:14〜15。主に拠り頼む姿勢は、弟子たちを圧倒しています。
 弟子たちは、向かい風を自分達の力で克服しようと何時間も頑張り続けました。イエス様に拠り頼む思いをなくし、イエス様が共におられることを忘れ、イエス様を見ても幻にしか見えなくなりました。今私たちにとって、イエス様は確かに共におられるお方でしょうか。それともぼんやりとした幻のようでしょうか。イエス様は、あなたにとって拠り頼むべきお方ですか。それとも、幽霊のような存在ですか。
 ドイツのルューベック大聖堂にある800年前の碑文です。「こうして、私たちの主なるキリストは、私たちに語ります。あなたは私を主と呼びながら従わない、あなたは私を光と言いながら見ない、あなたは私を道と呼びながら歩まない、あなたは私を命と呼びながら頼らない、あなたは私を知恵と呼びながら学ばない、あなたは私を公正と呼びながら愛さない、あなたは私を高潔と呼びながら仕えない、あなたは私を永遠と呼びながら求めない、あなたは私を義なる方と呼びながら恐れない」
 恐れや不安は、人を病気にして、人の存在を喪失させます。一方、信仰は力と望みを与えます。神様が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。Uテモテ1:7。「恐れるな、わたしはあなたとともにいる」という主のお言葉を思い出しましょう。
 イエス様は、私たちのことも常に考えておられ、私のために祈っておられます。でも、イエス様が弟子たちのために非常に気遣っていたなら、なぜ主は弟子たちを向かい風が来ようとしていた中に出されたのですか。イエス様は、向かい風を避けるために祈っておられるのではなく、私たちが向かい風に耐えるように祈っておられるのです。今どんな向かい風の中におられますか。今も、向かい風の中で労苦している私たちに対して、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われるイエス様の御声を聞くことを願います。イエス様は、今も生きておられ、私たちのためにとりなし祈っておられます。ヘブル7:25。



マルコ6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
6:47 夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
6:49 しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
6:50 というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
6:52 というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。
6:53 彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
6:54 そして、彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついて、
6:55 そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。
6:56 イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。



ヘブル7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

コロサイ2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

ローマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

マルコ4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

ローマ8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

出エジプト3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」

イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

Uテモテ1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

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