2018年6月17日「内から出るものが人を汚す」マルコ7:1〜23

序−あきる野市に「あじさい山」があります。一人の方が48年間紫陽花を植え続けて、素晴らしい紫陽花の園を作りました。幻想的な山の紫陽花園は、見る人の心をきれいな思いにしてくれるでしょう。私たちの心は、どのようになっているのでしょう。雑草だらけの心はどんなものでしょうか。どのようにして心が美しい園のようになれるのでしょうか。

T−偽善、御言葉より言い伝え−
 そのことを教えてくれる今日の箇所は、1つの事件が教えのきっかけとなります。イエス様の弟子たちが手を洗わないで食事をしていたのをみて、パリサイ人が非難して来ました。1〜2,5節。きれい好きの現代人は、手を洗わないで食事をする弟子たちが批判されて当然だと思うでしょう。これは、衛生上の問題ではありません。市場では何かに触れて宗教的に汚れているかもしれないから、からだをきよめて、手を洗ってから食事をしたということです。3〜4節。そういう言い伝えやしきたりに反しているから非難したのでした。
 問題は、彼らがこのような言い伝えやしきたりをよく守れば、信仰が良いと思っていたことです。パリサイ人は、万事外側をよく見せれば信仰的に思われるという生き方でした。それで、イエス様は、彼らの根本的な誤りを指摘されました。6〜8節。パリサイ人は,本来神様に対して心をきよめるために水を使っていたのを、手を洗うという形だけにしてしまいました。心はちっともきれいになりませんでした。御言葉を守らずに、言い伝え、伝統を守っていたのです。口先では神様を敬うが、その心は神様から遠く離れていました。イザヤ29:13。
 ですから、そのようなパリサイ人を「偽善者」と呼ばれました。偽善と訳された原語は、元々演劇用語で、舞台で俳優が本来の自分ではなく、作品中の人物にみせかけるように役を演ずることを指していました。内側とは違う外側をみせかけるということで、偽善の意味に使われるようになりました。パリサイ人が、外面では信仰的に見せていたのですが、心とは違う自分を演じていたので、偽善者と呼ばれました。
 彼らが、口では誰よりも神様を愛し、神様を尊ぶと言いながら、心は神様から遠かったのです。彼らは、人々の前では信仰的なことを言い、信仰的なふりをしていたのですが、実際は不信仰でした。神の前に生きるのでなくて人の前で生きていました。彼らは、神の栄光よりも人の賞賛を求めました。ヨハネ5:44。二心のある者でした。ヤコブ1:8,4:8。もし、私たちも真実に悔い改めるのでなければ、ダブルスタンダードにならざるをえません。偽善者となってしまいます。
 信仰生活とは、口でするのではなく、心ですることです。心で主を恐れることです。心で賛美して、心で仕えることです。熱い心で主を愛することです。イエス様を愛するとき、私たちの心の中に喜びと感謝と賛美に満ちています。したがって、私たちの心をどこに置いているかが 重要です。今、私たちの心は、どこにあるのでしょうか。
 パリサイ人が、はじめから偽善者であったわけではありません。御言葉に従おう、神様に喜ばれようとして、言い伝えを考え、伝統儀式を作りました。やがてその言い伝えやしきたりを守ること自体に心がとらわれ、人の賞賛を求めるようになって、神様を忘れ、御言葉をなおざりにするようになりました。9節。
 その典型的な例としてあげたのが、コルバンです。親にあげるものはコルバン、神様へのささげ物になりましたと言って、両親を扶養する義務を怠り、両親を敬うという十戒の御言葉をやぶっていました。10〜13節。イエス様は、パリサイ人のような偽善の姿を見て、ひどく叱られました。マタイ23:25〜28。私たちにパリサイ人のような姿を見たら、世の人は、あんな信仰ならいらないというでしょう。私たちの顔と私たちの生活そのものが、信仰のパンフレットです。人々は、イエス様を信じた私たちが、どのように生きるかを見ています。主の前に真実に信仰生活をする必要があります。

U−人を汚すもの−
 イエス様は、人々がパリサイ人たちの悪影響を受けないように、大切なことを教えてくださいました。14〜15節。「外側から人に入って、人を汚すのでなく、人から出て来るものが、人を汚す」と言われるのですが、弟子たちは、さっぱり分かりません。そこで、イエス様が解説してくださいました。19〜20節。食べ物は心に入らず、腹を通って出て来るだけですが、人から出るものは人を汚すと教えてくださいました。
 では、「人から出て来て人を汚すもの」とは、何でしょう。21〜23節。人の心から出て来て人を汚れたものが、列挙されています。ここに挙げられた12の悪は、人と人の間で起こるものです。世の中で生きている私たちにとって最も重要なことは、人間関係です。大切なのは、物を所有することではなく、人との関係、人との感情の繋がりです。感情的に健康な状態というのは、満足できる相互的な関係によって生まれます。健全な人間関係がどれほど私たちの人生を潤わせ、豊かにすることでしょうか。
 私たちの言動は、心のあり方によって変わって来ます。ですから、心の中が大事です。このような悪は、心から出てくるもので、いくら手を洗っても何にもなりません。雑草のようにどんどん出て来ます。そのままにしていると、雑草のように悪のリストに覆われてしまいます。私たちは、自分は悪のリストと関係ない、パリサイ人のようではないと思うでしょうか。悪のリストのために、どれだけ人間関係が壊れて、互いに傷つけ合い、悲しみ、苦しんでいることでしょう。
 重要な聖書の原理を確認しましょう。本来、人間は、神のご性質に似せて造られた尊い存在でした。きよい素直な心で神様を愛することができました。しかし、サタンの誘惑に堕ちて、御言葉に不従順になると、心が腐敗し始めました。心にあらゆる悪が蔓延し、人の心は、神からますます離れて、自分中心になり、互いに悪を行うようになりました。創世記6:5。
 では、人の努力で人はきよくなれるのでしょうか。悪がなくなるのでしょうか。パリサイ人の努力は、私たちとは比べようもなく熱心でした。パリサイ人は、言い伝えとしきたりをたくさん作って行うことで、信仰的になれると考えましたが、逆に御言葉から外れ、神の御心から離れて行きました。人の心は何よりも陰険で、それは直らないからです。エレミヤ17:9

V−人をきよめるものは、イエス様の血潮−
 人には、肉の願う通りに生きようとする欲求がある一方で、神の創造物ですから、きよい生き方をしようとする神聖な願いもあります。ローマ7:19。ただし、神聖な願いが、罪の願う悪の思いに負けてしまうことが問題です。したくない悪を行わせるのは、私たちの内にある罪です。ローマ7:20。良いことをして罪を相殺してみようとしたり、苦行で罪の代価を払おうとしたりしますが、そんな努力も私たちの心を聖めることはできません。
 なぜでしょう。罪のための血が流されなければ、罪の赦しはないからです。ヘブル9:22。ですから、旧約時代には罪の聖めや罪ある人間が聖なる神の前に進む時は、必ず動物の血をまきました。しかし、その血の効果は一時的で完全ではありません。神様は、このような人間のためにひとり子イエス様をこの地上に送ってくださいました。イエス様は、私たちの代わりに十字架にかかって死なれ、ご自分の血を流されて、罪の赦しを与えてくださいました。エペソ1:7。
 信じた私たちは、罪赦され、天国への命を与えられ、きよい心で生きるようにされています。ただし、イエス様の十字架の血潮がどれほど自分をきよめて、変えてくれるのか確信して、新しい人として生きるかにかかっています。頭で信じても、心がそのままだったら、私たちの言動に悪のリストがあらわれ、人間関係は傷付き、苦しみと悲しみが生じて来ます。
 1541年にジュネーブ市議会から再び招聘されたカルヴァンは、市議会員たちに次のように語ったそうです。「私の考えでは、福音の最大の敵は、教皇でも、異端でも、誘惑する者でも、独裁者でもなく、まさに『悪いクリスチャン』です。良い行いがない、死んだ信仰です」まさに悪のリストのままに生きるならば、カルヴァンの言う悪いクリスチャンとなります。そんな信仰は、空し過ぎます。信じて救われたのに、残念でなりません。
 ただイエス様を信じて、イエス様の血によって私はきよめられている、十字架によって私は新しくされていると確信して、御言葉通り生きようとすることです。イエス様の尊い犠牲によって、心の中からきよめられている。だから、きよい生き方ができると信じて、きよく生きるのです。もうパリサイ人のような努力ではありません。イエス様の血潮の恵み、十字架の赦しの力が、そうさせてくれます。聖霊が導いてくださいます。ガラテヤ5:22〜23。私たちの心の中から、主の血潮によって悪のリストのような雑草が一つ一つ抜かれて、主の御思いが一つ一つ植えられて、救いの恵みの雨が注がれて、私たちの心が美しい園のようになりますように願います。ガラテヤ5:24。



マルコ7:1 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。
7:2 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、
7:3 ──パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある──
7:5 パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7:7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
7:8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
7:9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。
7:11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、
7:12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。
7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」



箴言4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

イザヤ29:13 そこで【主】は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。

マタイ23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

創世記6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

エレミヤ17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

ローマ7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

ヘブル9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
9:26 しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

ガラテヤ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

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