2018年6月24日「子犬でもパンをいただきます」マルコ7:23〜30

序−私たちは、どんな信仰を持っているでしょうか。パリサイ人は、御言葉より自分たちの考えを中心にした信仰でした。自分たちが神の民であることにプライドを持ち、神の恵みを受けるのを当然と考えていました。自分たちの意に沿わないイエス様を攻撃しました。そこで、イエス様は、ある異邦人の女性の信仰を見せてくださいました。

T−求め続ける信仰−24〜26
 御言葉よりも自分たちが決めた言い伝えやしきたりを守ることで、自分たちは信仰的な神の民と自慢していたパリサイ人、律法学者たち。イエス様は、彼らと論争してがっかりされたでしょう。悲しかったでしょう。マルコ7:1〜23。それで、イエス様は、イスラエルから「立ちのかれて」異邦人の地であるツロ地方に行かれました。24節,マタイ15:21。
 そこにもイエス様のうわさが伝わっていて、一人の女性がイエス様に助けを求めて来ました。自分の小さな娘が悪霊に取りつかれていたからです。25〜26節。この女性は、ユダヤ人ではなく、異邦人でした。異邦人が、娘の癒しをイエス様に頼んで来たのです。イエス様に会いに来るまでに、様々な所へ行き、色々な方法をしてもらったことでしょう。娘のためにできることは何でもして来たでしょう。
 そうしている時に、イスラエルのガリラヤで福音を伝え、病気を癒し、悪霊を追い出しているイエスという方についてうわさを聞きました。イエス様について調べました。御言葉も学びました。そして、イエス様を信じるようになりました。イエス様を「主」と呼び、「ダビデの子」とも呼んでいます。マタイ15:22。この女性は異邦人でしたが、イエス様について知っており、御言葉に基づいた信仰を持っていた人です。ですから、イエス様に願い続けました。26節。
 この女性の信仰には、「イエス様に願い続けた」という特徴があります。すぐにイエス様が答えられなくても、弟子たちにうるさがられて嫌われても、願い続けています。マタイ15:23。パリサイ人の信仰は、自分たちは神の民だから恵みを受けて当然だと思っているので、うまく行かないと願い続けません。それどころか、不満を持って文句を言います。神様に背を向け、自分たちの意に沿わないイエス様を排斥しました。今日のクリスチャンはどうでしょう。私はクリスチャンだから、恵みを受けるのは当然、私が願うなら、神様はすぐに応えるべきだと考えます。願い通りならないと祈り続けません。うまく行かないと、信じているのにどうして、と不満を言います。何か気に入らないことがあれば、簡単に背を向けるのです。そのようなクリスチャンも多いでしょう。私たちは、どうでしょう。
 信仰とは、信じ続けることではないでしょうか。ある人の信仰は、感情に基づいた信仰を持っています。感情が良い時は信仰が良いように見えるが、感情が消えると信仰も消えてしまいます。ある人は、環境に応じて信仰も変わります。願い通りの良い環境であれば信仰が熱心で、環境が変わって厳しくなると信仰がなくなります。このような信仰は誤った信仰です。神様は、このような信仰を喜ばれません。

U−拒否を乗り越える信仰−27〜28
 一方、この女性の願いに対するイエス様の態度が変です。マタイ15:23〜24。並行記事によれば、あわれんでくださいと叫んでも、しばらくは一言もお答えになりません。口を開いても、「イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていない」と拒まれました。なんて冷たい、がっかりしたと帰ってしまいましたか。いいえ。この女性は、ユダヤ人が異邦人を嫌っていることを知っています。救い主は、まず神の民イスラエルに遣わされているということを学んでいました。そんなことで引き下がりません。ひれ伏して、助けてくださいと続けてお願いしました。マタイ15:25。
 女性の懇願に対して、ようやくイエス様が答えてくださいました。27節。何という返答でしょうか。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と言われたのです。「子ども」とは神の民とされていたユダヤ人のことで、「子犬」とはこの女性のような異邦人のことです。実際に誇り高い神の民ユダヤ人の中には、自分たちは神に選ばれた民だ、神の子どものように神の恵みを当然に受けるべきだと言い、異邦人を野良犬呼ばわりする人々がいました。
 皆さんだったら、どんな気持ちになりますか。プライドが傷付いて、そんな酷いと憤慨しますか。拒絶されたと思って、悲しくなりますか。あきらめて、帰ってしまいますか。多くのクリスチャンは、神の恵みを受けるのは当然だと考えています。ですから、祈り通りにならなければ、神を恨みます。人から言われた言葉に対して、悪く取って憤慨することは、よくあることです。心無い言葉と受け止めて悲しむことも、しばしばでしょう。自分の願いについて、神様に拒否されているように感じたなら、あなたならどうですか。文句を言って、背を向けますか。空しく絶望しますか。
 イエス様は、この女性の信仰を通して、私たちが難しい現実を乗り越えて行く信仰に目覚めさせようとしておられます。この女性には、御言葉を理解する信仰がありました。イエス様への確信がありました。心痛めながら、涙を流しながら、イエス様の言われたことについて、思い巡らしました。イエス様がひどいことを言うはずがない。拠り頼む者を無視されることはない。じゃ、あのお言葉は何?子犬!この女性は気付きました。その辺をうろつく野良犬のことを言ったのではなく、家庭内で飼われる子犬を言っている。そうだ、子犬も家族のように愛される存在だ、神の民と共に私も愛してくださると信じたのです。「まず子どもたちに」という言葉の中に、願いに答えてくださる可能性が含まれています。27節。
 涙を流しながらも、希望に目を輝かせながら、イエス様に答えました。28節。何と言う気の利いた返答でしょう。確かな信仰によれば、ものの考え方や受け止め方も違って来るのですね。「おっしゃるとおり、私は子犬です。子犬でも食卓からこぼれたパンをいただけます。私のような者でも、イエス様の愛を受けられます。私の娘を癒していただけます」こうして、信仰の確信を告白していました。神の救いの摂理を認めた賢い答えです。プライドがないのかと言う人もいるでしょう。しかし、肉のプライドより神の恵みの方が大事です。
 形式的な信仰をもって、御言葉よりも自分の考えで生きていたプライド高いパリサイ人は、食卓でパンを食べ散らかす子どものようです。愛される恵みを覚えません。子どもとして大切にされて当然だとおごります。自分の言うことを聞けとわがままにします。聖書は、私たちにその姿を繰り返し見せて、あなたはどうですかと問いかけています。
 イエス様は、子犬のような私たちのためにどれほど犠牲を払われましたか。神の御子イエス様が身代わりに十字架にかかってくださいました。Tペテロ3:18。イエス様を信じた者は、神の子とされています。ヨハネ1:12。今日のクリスチャンも、パリサイ人のように与えられた救いの恵みをあまりにも当然と思っていませんか。食卓の子どものようにわがままにしていませんか。そんなクリスチャンは、救われている恵みを感謝せず、いつまでも自分の勝手な望みばかり、自分の思い通りにならないと不満をぶちまけます。先に救われた恵みに応答せず、証しの生活がありません。霊的成長を望まず、満腹にされたことの恵みを無駄にします。私たちがそんな子どもになったら、どれほどイエス様が悲しまれることでしょう。

V−イエス様の愛、恵み−29〜30
 イエス様は、この女性の見事な返答を聞いて驚かれました。29節。「あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」とおっしゃってくださいました。マタイ15:28。これが聞きたい答えでした。そして、その女性の娘を癒してくださいました。30節。この女性が選び取ったのは、「こぼれたパンくずの恵み」でした。「子犬でも、こぼれたパンをいただきます」という信仰が、イエス様の賞賛と癒しを引き出しました。
 はじめイエス様は、この女性が頼んでも黙っていました。マタイ15:23。神様が沈黙される時間は、神の前に自分の信仰を示す時間です。自分が主を信頼していることを証明する時間です。もしこの女性が気を悪くして帰ったら、何も起こりません。その絶望の時間を克服する人が、大きい信仰の恵みを体験する人になります。
 私たちが、信仰生活をして行く時、克服しなければならないものの一つは、神の拒否(と見えること)を克服することです。私たちも、家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと、健康のことなどについて悩み、苦しみます。なぜこうなのですか。どうして問題が続くのですか。いつまで祈りに答えてくれないのですか。そう言うでしょう。でも、神様が拒否しているように見える時でも、主に拠り頼み続けるのです。
 ある人々は、神様を都合よく考えて、呼べばすぐに出張してくれるサービスマンのように思っているかもしれません。神様は、要求に仕える便利屋ではなく、子どもに食事を与える親のようなお方です。そのために、御子まで惜しまれませんでした。ご自分の御子を十字架に渡されたお方が、何を惜しまれるのでしょうか。イエス様を信じて救われた者は、満腹の恵みを享受することができます。誰でも、神の子どもにしていただけます。誰でも、神の食卓に座ることができます。マルコ7:28。





マルコ7:24 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。
7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。
7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」
7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。



マタイ15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

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