2018年7月1日「開かれ、解かれた人生」マルコ7:31〜37

序−多くの人々が、何かに閉じ込められて、縛られて生きているようです。部屋のような所に閉じ込められているのではなくて、目に見えない何かに心が閉じ込められ、縛られているのです。現実の難しい問題に閉じ込められ、縛られているのです。今日の箇所に登場する耳が聞こえず、口のきけない人を通して、開かれて、解かれて行く人生を教えてくれます。

T−耳が聞こえず、口のきけない−31〜32
 イエス様たちがガリラヤ湖東岸のデカポリス地方に来られると、人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、癒しを願いました。31〜32節。人々の中で暮らすには、コミュニケーションが必要です。人々との関係が閉ざされたなら、その心の痛みは計り知れません。耳が聞こえず、口のきけないということは、手話や口話法、発声訓練がなかった古代にあっては、表情やジェスチャーだけで、ほとんどコミュニケーションができなかったということです。聞くことも話すこともできない苦痛の中で生きていた人生は、辛くて苦しい閉じ込められた人生のようです。
 たとえ、耳が聞こえて、口がきけたとしても、何かの事情で人々とのコミュニケーションができず、ある人々と関わりが持てない人もいます。そのような人々の人生も、辛くて苦しい閉じ込められた人生だと言えるでしょう。現代では、むしろ障害者の人々が、色々な手法や科学技術によって、人々との関わりが昔よりずっとできるようになっていますが、複雑で混乱した社会の中で、人々の言うことをちゃんと聞くことができず、人々と話ができない人も増えています。
 イエス様は、罪に囚われて、閉じ込められて生きているすべての人々のために世に来られました。Tテモテ1:15。暗い人生を生きていくすべての人々に光を与えるためにこの世に来られました。イエス様は、当時の人々に福音を教え、病気の者を癒し、悪霊を追い出されました。マタイ4:23。それで、人々は、自分達の地方にイエス様が来れば、イエス様に会いに来ました。ところが、この人は、イエス様の噂を聞くことができません。イエス様を知って、求めることができません。イエス様に会う必要があるのに、どうしたらいいのでしょうか。彼には、助けが必要でした。人々が、この人を連れて来ました。32節。人々とは、友人や家族でしょうか。彼らのイエス様への信仰があってはじめて、連れて来ることができます。私たちが、困難に縛られ、問題に閉じ込められている人々のためにできることは、彼らをイエス様に連れて来ることです。ヨハネ1:45〜46。
 神様は、私たちがイエス様を信じて救われ、祝福を受けるだけでなく、他の人をイエス様に連れて来て救われて、一緒に信仰生活をして、一緒に祝福を受けることを願っておられます。

U−耳が開き、舌のもつれもすぐに解け−33〜35
 イエス様の癒しは、今までのように癒しを宣言するのと違っていました。33〜35節。まず、群集から連れ出されたことに注目してください。イエス様は、それは、彼と個人的な接触をするためです。つまり、この人と緊密な関係を持つためでした。連れて来られるまでまったくの受身であり、癒してもらう意思もなかったのでしょう。それで、耳の聞こえないこの人が、イエス様による深い個人的なふれあいを通して、イエス様の愛を知り、イエス様への信頼を持つようになるためでした。
 優しさとあわれみに満ちたイエス様が自分の耳と口に触れたことで、この人は何を感じたのでしょうか。自分の聞こえない耳に何か驚くべきことが起こりそうだ。話のできなかった私のもつれた舌に何かが起こりそうだ。そんな期待感を持つことができたでしょう。私たちも、イエス様と心の触れあいができる時、自分に何か起こると期待できるでしょう。一人一人、必要な方法で主に会わなければなりません。
 この時、イエス様は、「天を見上げ」て祈られました。「エパタ、開け」という恵みが、神様からであるからです。私たちは、どこを見るか、誰を見るかによって人生が決定されます。神の民の詩人が、山を見上げて「私の助けは、天地を造られた主から来る」と言ったように、私たちも山を見上げ、空を仰いで、天地を造られた神様を覚えて、祈りたいと思います。詩篇121:1〜2。
 神様に似せて造られた人間がこんなにも苦しんでいます。そのような思いで、イエス様は、「天を見上げ、深く嘆息して」言われました。イエス様は、「深く嘆息して」というくらい、この人の痛みをご自分の痛みとして共感され、耳が聞こえず、口のきけない者の痛みをご自分の痛みと感じられたのです。これまでどれほど苦しんだのだろう。どのように蔑みや悪態を受けたのでしょう。聞こえない痛み、しっかり意思を表現できない痛みは、どのよう辛かったでしょうか。病や患難で痛みを感じる時、イエス様が「深く嘆息して」おられることを覚えてください。
 事実、イエス様は、罪に囚われ、縛られていた私たちのために十字架にかかり、苦しまれました。イザヤ53:4。ある人々と問題のために関わりが持てない、心の痛みのためにコミュニケーションができないという人もいるでしょう。何かのために、耳が閉じられ、口が縛られて、心が閉じられています。どんなに辛いことでしょう。悲しいことでしょう。自分では開くことができません。どうしましょう。
 イエス様に開いていただかなければなりません。イエス様は、耳が聞こえず、口のきけない人に対して、「エパタ、開け」と言われました。このお言葉こそ、この人の人生を変える言葉となりました。耳が聞こえるようになれとか、口がきけるようになれというのでなく、閉じられていた耳が「開く」ように、もつれた舌が「開く」ようにと言われたのです。もし、私たちが、何かのために耳が閉じられ、口が縛られて、心が閉じられているなら、「エパタ、開け」というイエス様の命令を聞かなければなりません。今日、イエス様が言われた「エパタ、開け」という御言葉を、自分に対して言われたお言葉だと聞いてください。

V−耳のある者は、聞きなさい−36〜37
 物理的な障害よりもはるかに不幸な障害とは、何でしょう。それは、精神的な心の障害だと言われます。耳があっても聞くことができず、目があっても見ていないからです。人の言うことが耳に入りません。口が縛られて話せません。御言葉が耳に入りません。主の御業を見ることができません。主の救いを賛美できません。しかし、この人の癒しを聞いた人々は、非常に驚いて、この人を癒したイエス様を賛美しました。パリサイ人のように心が曲がっていません。素直に驚き、みな素晴らしいと口々にイエス様を褒め称えたのです。
 耳の聞こえない者を聞こえ、口のきけない者を話せるとは、救い主のしるしです。「耳の聞こえない者の耳は開き、口のきけない者の舌は喜び歌う」という救い主の預言の成就となりました。イザヤ35:5〜6。ですから、イエス様は、繰り返し「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」と言われました。黙示録2:29。自分の肉の思いで耳を閉じ、口をふさいでいませんか。御霊があなたに言われることを聞いてください。
 すでに、イエス様とのふれあいを通して、この人の心はイエス様に対して開かれていたので、この人の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになりました。主が「エパタ、開け」と言われる時、耳が開かれ、口が開かれ、閉じられていた心が開き、今や新しい世界、新しい人生の道が開かれました。私たちの周りにも、耳が閉じられ、舌が縛られ、心が閉ざされた人がいるでしょう。耳も口も閉じられて苦しそうに、痛みながら生きる人々が、多いでしょう。時には、私たちも心の耳が閉じられ、口がとじられているかもしれません。今、そうではないですか。
 心が開かれれば、御言葉を聞く耳が開かれます。心が開かれれば、主を賛美する口が開かれます。イエス様が「開け」と言われれば、新しい創造の御業と癒しの奇跡が行われます。デカポリスの人々は、救い主メシヤの到来を熱心に待っていた人たちではなく、ローマの影響を受けて偶像を崇拝して神話を信じていた人たちでした。その人たちが、イエス様の癒しに驚き、賛美したのです。誰でも、イエス様に出会って、イエス様との心のふれあいを受けてください。心が動きます。
 この人の耳が開かれ、舌のもつれが解かれて、それで聞き始め、話し始めたことで、新たな人生が始まりました。今日この時間、私たちすべてが、「エパタ、開け」の奇跡を体験しましょう。閉じられた心が開かれたら、耳が開かれ御言葉を聞くことができます。もつれた心が解かれれば、口のもつれが解かれて信仰を告白することができます。エパタと言われた主の言葉を聞きましょう。閉じられた心が開かれ、素直に御言葉を受け入れます。癒しへと開かれます。仕事や学びの前進へ開かれます。問題解決の道が開かれます。リバイバルへ開かれます。



マルコ7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。
7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。
7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」



Tテモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

マタイ4:23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

ヨハネ1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

イザヤ53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
イザヤ35:5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。


詩篇121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

黙示録2:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

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