2018年7月8日「あわれみ深いイエス様」マルコ8:1〜10

序−イエス様を信じて救われた者は、罪赦されて天国へ行けるようになっただけでなく、イエス様に似て行くように成長するように求められています。ですから、イエス様がどんな心を持たれて、どんな見方をされるのかを今日の箇所からも学び、そのように生きてみましょう。

T−御言葉の飢え渇きに対して−1〜3
 今日の箇所を一読して、あれ五千人の給食の間違いじゃないの。数字が違うだけで、どうして同じ話が記されているの。そのように感じられたでしょう。6章の五千人の給食と今日の箇所では、何が違うのでしょうか。今日の箇所は、ユダヤ人ではなく、デカポリスという異邦人対象です。7:31。6章では、弟子たちがイエス様に、群衆を解散させて、めいめいで食べ物を買うようにしてくれと頼んだことから始まっています。
 ところが、今回は、イエス様のあわれみから始まっています。1〜3節。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです」とあわれんでおられます。「かわいそうに」というイエス様の気持ちは、激しくあわれみを感じたという意味です。イエス様の方でも、三日間も御言葉を教え続けられました。その結果、食べ物はなくなって、群衆は空腹になっていたというのです。それぞれ家に帰るにしても、途中で飢えのために倒れてしまうことは明らかでした。
 イエス様は、どんな時にあわれみを示してくださいましたか。群衆は、なんと三日間もイエス様と一緒にいて御言葉を聞きました。彼らは、イエス様の話しを聞くために遠くから熱心に集まっていました。イエス様のお言葉を聞きながら、恵みを受けることに集中しました。彼らはイエス様のお言葉を聞くことに熱中していたので、自分たちの食べ物がなくなり、元気が衰えることも気付きませんでした。その群衆の御言葉への飢え渇きが、イエス様のあわれみと関心を呼び起こしたのです。
 イエス様は、信じる者たちに向かって、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」と約束されました。マタイ6:33。私たちの主は、聖徒たちの難しくて大変な都合をすべてご存じです。私たちの神は、あわれみの神様です。そのため、罪人を救うためにご自分のひとり子イエス様を十字架に渡されました。羊飼いのいない羊のようにさまよい、イエス様に付いて来た群衆を見てあわれんでくださいました。
 私たちが生きていれば、様々な理由で様々な不足を感じます。能力の不足、健康の不足、交わりの不足を体験します。世の人は、そのような不足に対して非難したり、否定したりします。しかし、主は、そのような不足をあわれんでくださいます。今も、私たちの弱さ、悲しみ、涙を知って、私たちをあわれんでくださる主に呼びかけてみましょう。「主よ、私をあわれんでください」マタイ15:22。

U−信仰の視点で−4〜5
 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです」というイエス様のあわれみを聞いた弟子たちは、どのように反応したのでしょう。4節。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう」と答えています。弟子たちは、前回イエス様が群衆を奇跡的に食べさせたのを見ながら、今回再び、イエス様に向かって、こんな所では食べ物は手に入りません。食べさせることはできませんと言います。
 「こんなへんぴな所」と弟子たちが言っている「へんぴな所」とは、他の箇所では、荒野と訳されている言葉です。Uコリント11:26.ヘブル11:38。聖書の民が「荒野」と聞いたなら、何を思い出すのでしょうか。そうです。エジプトを出て来た民が40年間放浪したまさにあの荒野を指す言葉です。荒野の旅が長くなり、民には食べるものがありませんでした。荒野で食料を生産することもできませんでした。民をあわれんでくださった神様が、天からマナをくださいました。
 自分の先祖たちが荒野を旅しながらマナを食べたことを知っているにも関わらず、こんな荒野で食べ物を得られるのだろうかと言うのです。五千人の給食の奇跡を体験していながら、こんな荒野では何も得られないと否定するのです。これは、弟子たちだけの頑なさではありません。このような弟子たちの姿を学びながら、私たちも弟子たちのように言っていないでしょうか。私たちたちのために十字架にかかってくださったイエス様の肉と血をいただきながら、救いの恵みを忘れてしまうのです。ヨハネ6:48〜51。
 自分が救われた奇跡、困った問題が解決された奇跡、病気が癒された奇跡、難しい仕事を乗り越えた奇跡、厳しい人間関係が回復された奇跡、祈り続けた人が救われる等々、私たちは多くの奇跡を体験して来ました。しかし、時間が経つと、忘れてしまうのですか。さもそれが自然に起きたかのように、自分の努力でできたかのように思うのでしょうか。
 人生の困難にもイエス様がおられます。家庭に問題がある場合、イエス様がおられるなら解決してくださいます。仕事の難しさも、イエス様がおられるなら乗り越えさせてくださいます。したがって、イエス様を見てください。イエス様をつかんでください。イエス様を深く考えてください。イエス様は、私たちの人生を導き、力を与えてくださいます。
 イエス様が弟子たちに、「食べるものがどれくらいあるのか」と尋ねると、弟子たちは、「七つです」と答えました。5節。魚も少しばかりありました。4節と5節を比べてください。弟子たちは、何もないかのように言いました。弟子たちは、どんな視点で状況を見ていますか。荒野のどこででも食べ物を得られない、人々の空腹を満たすことができないという否定的、悲観的見方です。ないことに視点がありました。ところが、イエス様の視点は、どこにありますか。パンはどれだけありますかという見方です。パンがあることに視点があります。
 弟子たちは、ないことを報告しており、イエス様はあることに目を向けさせておられます。出エジプトの時、12人の偵察隊がカナンを探って来て、同じものを見て報告します。そのうち2人はとても良い地で、占領できると報告しましたが、残りの10人は住民が巨人で我々はいなごようだ、占領できないと悪く報告しました。民数記13:27〜33。民全体は、悪い報告に従い、その結果40年の荒野の放浪となりました。
 人が何かを見る心の窓をフレームと言います。考え方とか価値観とも言います。行動心理学では、ある特定のフレームを用いて現実(意思決定問題)を見ることをフレミングと言います。人々は、フレームを使っていることも、ほかにフレームが存在することも、普通は意識していないと言われます。私たちが覚えなければならないことは、自分が見るフレーム通りの人生を生きるようになるという点です。無い事だけ見て文句を言う人は、一生無い人生を生きるようになります。しかし、有る事を見て生きる人は、あふれる人生を生きるようになります。私たちは、イエス様の視点、御言葉の価値観というフレームがあることを知っています。今すぐ、信仰のフレームに換えてください。問題を眺める視点が大切です。

V−分け与えると増える−5〜10
 弟子たちは、彼らが持っている少量の食べ物を差し出しました。5節。これは、弟子たちが持っていた最後の食料です。すると、イエス様は、それを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配りました。5〜7節。群衆がみな食べて満腹して、残りがたくさんでした。残りは七つのかごと言うのですが、原語では五千人の時のかごよりも、人が乗れるような「大きいかご」です。使徒9:25。分け与えると増えるという奇跡は、もっとレベルアップしています。
 今度は、弟子たちが自分たちの持っていたわずかなパンと魚を差し出しました。イエス様は、弟子たちに配らせました。私たちが受ける信仰の恵みは、分け与えると増えます。御言葉の恵みを分かち合うと、分かち合いを聞いた者の心と人生に恵みが広がります。私たちが神様から与えられているもののわずかでも人のために用いるなら、神様はそれを祝福してくださいます。増やしてくださいます。仕事、交わり、助けなどを通して、私たちは用いられて、仕えて行く所に私たちの生きる道があります。
 イエス様を信じて救われた者は、罪の赦しと天国の命を与えられ、新しい恵みの人生を生きるようになります。信仰によって神様の恵みと祝福を受け、患難に打ち勝ち、主の栄光をあらわして生きます。神を愛し、人々を愛して生きて行く者となります。ですから、人は人のために生きてこそ、救われた者としての生きがいがあります。何でもいい、どんなことでいい、祈ることだけでもいいから人の役に立ち、人に仕え、人を助けるのです。神の栄光をあらわし、救いの恵みに応えて生きることになります。
 イエス様は、私たちが同じようにあわれみを覚えることを望んでおられます。イエス様は、私たちが人々に仕えることを願われます。私たちができることをし、私たちが持っているものを差し出すなら、イエス様はそれを祝福して増やすことができます。私たちが、人々のニーズを見たり、感じたりしても、その必要性を満たしてあげることはできないかもしれません。しかし、イエス様に信頼し、私たちが持っているものを差し出すなら、イエス様は私たちを通してすべてを行うことができます。マタイ5:7。





マルコ8:1 そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。
8:2 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。
8:3 空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
8:4 弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
8:5 すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです」と答えた。
8:6 すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
8:7 また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。
8:8 人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。
8:9 人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。
8:10 そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。



マタイ6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。


マタイ5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

ヨハネ6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

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