2018年7月22日「あなたは、わたしを誰だと言いますか」マルコ8:22〜30

序−弟子たちは、イエス様に従って来た素直で良い人々でしたが、イエス様からしばしば嘆かれ、呆れられることがありました。イエス様の言われること行われることの意味が分らなかったからです。しかし、今日の箇所では、よく理解して、大事な告白をするようになります。

T−見える、よく見る、はっきり見える−22〜26
 イエス様がベツサイダというガリラヤ湖畔の町に来ると、人々が一人の目の見えない人を連れて来て、癒してくれるように願いました。22節。この人は、幸せでした。自分の意志で出て来たのではなく、自分をあわれむ人が、自分を連れて来てくれたからです。彼は、信仰が良い隣人と出会い、そして、イエス様に出会うことができました。イエス様に出会い、人生の問題を解決していただきました。
 イエス様は、その目の見えない人を村外れに連れて行き、そこで癒しを行われました。23節。この癒しには、特徴があります。イエス様は、お言葉一つで癒せるのに、この人の癒しを段階的にしています。イエス様は、弟子たちが、その癒しを見て、悟ることを期待されたのです。最初の段階は、両目につばきをつけ、両手を彼に当てます。少しぼんやりと見えるようになり、「何か見えるか」と聞かれると、「木のようですが、歩いているので人のようです」と答えています。24節。この人は、まず何かが見えるようになっていますが、まだ物を正確に見ることはできません。
 この段階では、何かが見えているという程度です。その知識は明らかではありません。勘違いもしています。人は、ものごとをかすかに認識するだけに留まっています。ぼんやりと知っているが、その本質は判らないままで過ごしています。当然、勘違いも起きて来ます。けっこう危険な状態になります。このようなことは、みなさんのどんなことに当てはまりますか。例えば、夫婦、同僚、友人等の人間関係において当てはまるでしょう。知っているつもりが、勘違いや葛藤を生じさせます。
 次の段階へ進みます。25節。イエス様は、もう一度彼の両目に両手を当てられました。彼が見つめていると、すべてのものがはっきり見えるようになりました。23〜25節には、実に「見る」という4種類の動詞が計6個も使われています。最初は、ぼんやり見えるようになり、それで自分でもよく見るようになり、識別でき、最後には、はっきり見えるようになりました。「見るということが」弟子たちへの強烈な喚起となっています。見るという動詞が、「理解や悟り」の意味を持つようになりました。
 私たちは、体の機能としては、見えていても、事の本質が見えているとは限りません。本質を知ろうとしてよく見て行くと分るようになり、見えていることを熟考して識別できるようになり、やがて本質が見えて来て、はっきり理解するようになります。私たちは、あまりにもぼんやりといいかげんに物事を見ているかもしれません。見間違ったり、聞いて勘違いしたり、判断を誤ることがしばしばではないでしょうか。イエス様を信じて救われたということは、私たちの心の目が開かれて、物事をよく見ることができるようになっています。意識して、よく見ることです。理解し悟ります。

U−目がありながら見えないのですか−24〜25,15〜18
 イエス様は、このような目の見えない人の癒される過程を通して、弟子たちがイエス様のことをしっかり悟るように求めておられます。イエス様の例えを聞いても、奇跡を見たとしても、それをよく見て、考えなければなりません。熟考する過程を通して悟るようになります。この人も、目の癒しの過程を通して、イエス様に対する信頼を抱くようになり、はっきり見えるようにされました。イエス様は、この人の癒しの過程を通して弟子たちの心の目が開かれるようにしてくださいました。これを読む私たちの心の目も開かれるように求めておられます。
 「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」という警告に対して、弟子たちがパンを持っていないということで議論し始めたのを見て、イエス様は、「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか」と嘆かれました。マルコ8:15〜18。弟子たちは、目の見えない人の癒しの過程を通して、4種の「見える」という動詞の繰り返しの使用を通して、このことを気付いて来たようです。
 イエス様は、お言葉一つで癒すことのできる方です。一度触れることで癒しができるお方です。それなのに、このように段階を踏んで、見えるという動詞を繰り返し使われたことで、鈍感な弟子たちも気付くようになりました。自分たちがイエス様の本質を見ていなかった、イエス様の言われたことを見ようとしていなかったことを悟るようになりました。弟子たちは、イエス様と一緒にいながら、見て聞いて経験している現場の中でも、イエス様が誰であるかを正しく見ていませんでした。
 このことは、今日でも同じ姿を見せているようです。イエス様を信じたという人々のどれほどが、キリスト教の真理を知っているでしょうか。どれだけ、イエス様が救い主であることを確信しているでしょうか。みなが福音を握っているのでしょうか。イエス様は、自信を持っていたラオデキヤの教会にこう言われます。黙示録3:17〜18。自分たち物事を分っている、よく見えている」というパリサイ人こそ霊的盲目だと言われました。ヨハネ9:40。現代のクリスチャンも、「自分は分っている、ちゃんと判断している、大丈夫だ」と肉の自信を持っていたとしても、実際は「正しく判断してなくて、互いに理解できなくて、物事が見えていない」のです。
 目の見えない人の癒しの始めは、かすかにぼんやりと見えていました。私たちには、かすかにぼんやりと見ているものがどれだけありますか。家庭のこと、仕事のこと、勉強のこと、人間関係のことなどについて、はっきり理解してしっかり判断していますか。実体が何であるか、目的が何なのか明らかでないまま、あてもなく生きていることはないですか。
 長い間信仰生活をしているにもかかわらず、まだ迷っている姿があまりにも多いのです。弟子たちは、イエス様と一緒にいながらも、イエス様の実体を正しく見てはいませんでした。私たちも、イエス様を信じると言いながらも、イエス様を正しく告白しているでしょうか。確かな教理と福音を持って、信仰に生きているでしょうか。

V−霊的な目を徐々に開いてくださる−27〜30
 イエス様に出会っていなければ、癒しを受ける前の人のように、霊的には見えない状態です。ヨハネ9:40〜41。暗闇の罪の中を歩んでいるかのようです。神のいない人生は、闇の中をさまよっているようです。イエス様に出会うと見えるようになります。ヨハネ8:12。人生が開かれます。しかし、完全に見えるようにはなりません。ある時期は、ぼやけてはっきりしない信仰生活をするでしょう。もしその程度で満足して、イエス様への慕い求めと信仰の成長の願いがない場合は、そこに留まるでしょう。
 私たちは、霊的造り変えを経験し、内なる人が成長し、イエス様とともに歩む新しい命の世界を経験したいのです。イエス様は、弟子たちに質問されました。「人々はわたしをだれだと言っていますか」27節。弟子たちは、「バプテスマのヨハネだ、エリヤだ、預言者のひとりだと言う人もいます」と答えました。28節。人々が誰だと言っているかは、答えやすいです。まずは、人々がどう言っているかを確認させています。弟子たちも、かつてはそのような認識でした。
 でも、目の見えない人の癒しを通して目が開かれ、悟るようになりました。イエス様は、直球の質問をされました。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」すぐに、ペテロは「あなたは、キリストです」答えました。信仰告白です。29節。イエス様は、教えや教訓の中で最も重要なことは何なのか、行った奇跡の中で最も大切なものは何なのかなどを問われたのではません。ただ「あなたはわたしを誰と言いますか」という問いの答えにだけに関心があります。
 これは、30節で「彼ら」を戒められたとありますから、弟子たち全体を代弁した信仰告白です。イエス様の神性を認めたという点で、イエス様を偉大な人間だと考えた群衆の告白と弟子ペテロの告白はまったく違います。私たちも、私はイエス様を誰だと告白しているのか、真実に告白して行く必要があります。「人々は、わたしを誰と言うか」、「あなたはわたしを誰と言うか」という質問は、重要な意味を持っています。私たちの世界観を聞いていることになるからです。多くの人々が言うのは、時代の流れです。時代の流れは、イエス様を預言者の中の一人と考えています。現代でも、世界の偉人の一人と見ており、時代の流れは、救い主のいない世界観です。しかし、主の弟子は、「あなたは、キリスト救い主です」と答えます。
 私たちの時代の流れとは、何でしょうか。絶対がない多元主義であり、相対主義が主導しています。現代の社会は、様々な価値観が交錯する多元主義の世界です。その中で生きるクリスチャンは、その影響を受けて、聖書の価値観が相対的となり、自己中心的となり易いです。きょう、「あなたは、わたしを誰だと言いますか」とイエス様に問われています。はっきりと「イエス様は私の救い主です」と告白して、聖書の価値観に生きたいのです。これが、私たちの強固な信念であり、教会の土台です。イエス様との深い精神的な交わりが信頼を導きます。エペソ1:18〜20。



マルコ8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が盲人を連れて来て、彼にさわってくださるよう、イエスに願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
8:24 すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
8:25 それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。
8:26 そこでイエスは、彼を家に帰し、「村に入って行かないように」と言われた。
8:27 それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。



マルコ8:17 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

ヨハネ9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

エペソ1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

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