2018年7月29日「わたしについて来たいなら」マルコ8:31〜38

序−クリスチャンって、どんな生き方をするのでしょう。イエス様の弟子としての人生は、どんな生活なのでしょう。弟子たちは、分かっていませんでした。私たちはどうでしょう。弟子たちと一緒に学びます。

T−明らかにされたイエス様の苦難と死−31〜33
 先週学んだペテロの信仰告白に感激されたイエス様は、これからエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちによって苦しみを受け、殺され、三日の後によみがえることを弟子たちに教えられました。31節。罪のない神の御子が、私たちの代わりに十字架にかかって死ななければならないということです。これが、イエス様が世に来られた目的です。確かに十字架の苦しみと死が予告されていますが、神の御子の働きが十字架の苦しみで終わる絶望的なことではありません。十字架に殺されて、失敗に終わるということではありません。三日目によみがえるという希望が告知されています。
 しかし、これを聞いた弟子ペテロは、びっくりして「いさめた」というのです。3節。いさめた内容は、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と否定したのです。マタイ16:22。イエス様のことを思いやっている弟子という感じです。弟子たちは、イエス様のお言葉を受け入れません。自分たちにとって、キリストの存在は、勝利であり、イスラエル王国復興の希望だったからです。苦しみ死なれるキリストなど、弟子たちには想像できないことでした、
 これに対して、イエス様は、驚くべき反応をされました。33節。イエス様は、ペテロに向かって「下がれ、サタン」と言われました。イエス様が怒られたのは、なぜなのでしょう。ペテロは、サタンなのですか。いいえ、ペテロがサタンの道具になっているというのです。サタンが、ペテロを利用して、イエス様のキリストとしての神聖な使命を妨害しようとしたからです。サタンは、肉の思いと利益を優先させ、使命や問題を避けさせます。
 つまり、ペテロが叱責を受けたのは、「神のことを思わないで、人のことを思っている」からでした。私たちも、信仰生活において、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことがしばしばあります。人間的な配慮なのに、信仰的なことだと勘違いすることがあります。人間的に見たときに、イエス様の死を否定することは弟子として当然なのですが、神中心で見るならば、イエス様の使命をじゃまするサタンの道具なのです。神の前に生きる私たちが、自己中心な思いで物事をとらえることがどれだけ危険なことか、今日の御言葉は、教えています。
 私たちは、天国に入ることや今後享受する霊的な祝福よりも、今この地にいることや現在の生活に心を置くことが多いのです。神のことよりも、人のことを心に置き、神の栄光よりも、自分の評判、安全などに心を注ぐことが多いのです。人のこととは、苦難を放棄して、死を恐れて、快適さを追求し、現実に安住することです。
 今、私たちは、どのような姿勢で、クリスチャンとして歩んでいるでしょうか。単純な安定や願いを追求するために信仰の道に立っているのでしょうか。クリスチャンの人生とは、いつも「神のこと」をまず考えて、イエス様に従って行く人生なのです。

U−自分を捨て、十字架を負って−34
 イエス様に従って行くために、私たちは、どのような生活をしなければならないのでしょうか。キリストを告白する人が取るべき原理原則と方向があります。34節。「自分を捨てること」と、「自分の十字架を負うこと」です。自分を捨てるというと、誤解されるかもしれません。原文では、「自分を否定する」です。他の国の訳でも、自分を否定するとなっています。自分を否定するとは、自分が何もかもないということではありません。自分の人生の目的が、自分自身であるという考えをやめることです。人生の原則と目的を神中心に確立することであり、何でも自分中心という自分を否定することです。
 他の訳では、「自分を忘れる」というのもあります。つまり、自分の考え、自分の欲、自分の執着を忘れてしまうのです。がんばって自分を否定するというより、イエス様を思うあまり、御言葉を慕うので「自分を忘れる」ということになれば、いいですね。クリスチャンになっても、自分の思いを優先し、自分の願いを遂げることが中心でしょうか。私たちが世に生きて行く時、結局自分中心、自分が自分がという肉の思いが、私たち自身を苦しめ、福音の恵みから自分自身を遠ざけてしまうのです。
 十字架を負うとは、何でしょう。毎年受難節のシーズンになると、かの国では十字架を背負ってパレードすることが行われますが、そういうことではありません。重い十字架を負う修行ではありません。イエス様が十字架を負ってゴルゴダの丘へ行かれたように、自分が行くべき十字架の所に自分の十字架を負って行くことです。私たちそれぞれに背負うべき十字架があります。十字架とは、人生での苦しみや困難、仕事や家庭の問題でもあります。苦難と死を覚悟して、イエス様に従うということです。
 イエス様について行くということは、自分を否定して、日々自分に死んで行く人です。なぜなら、イエス様を信じた聖徒は、十字架ですでに死んだからです。自分の古い人は、すでに十字架に死んだからです。ガラテヤ2:20。私はキリストと共に十字架につけられて死んだのです。ですから、過去の自分は死んでおり、今私の内に生きておられるのは、イエス様です。したがって、イエス様の御心のままに黙々と従うだけです。ところが、腹が立って悔しいと興奮し、我慢できずに叫んだりするなら、古い肉の自分は、まだ死んでいないということです。
 私たちが、残りの生涯、自分を忘れ、主の御言葉だけを記憶して、イエス様について行く弟子となるように願います。イエス様に従って行く人生は、特権であり、恵みです。

V−何の得がありますか−35〜37
 世の価値観の中で生きている者にとって、自分を捨て、自分の十字架を負って付いて来なさいと言われたなら、自分がなくなるだけで、そんなの認められないと思うでしょう。そこで、イエス様は、それは反対だと教えてくださいました。35〜37節。現代人は、三つのPの欲望を持っていると言われます。所有(Possessions)、位置(Position)、権力(Power)です。
 人は、何でも多く持とうと欲張ります。特に物質の所有欲が強いです。ところが、多くのものを所有する人が必ずしも幸せなのではありません。多くの所有が、人を惑わし人生に害となることも多いです。人は、高い地位に付くことを成功したと考え、良く見える位置に立ちたいと願います。しかし、最近高い地位にいる人で人生が破綻するニュースが多いです。権力を追求して不幸になる人も多く、権力に溺れて身を滅ぼす人も目立ちます。
 世の多くのものは、有益でもあり、有益でもありません。しかし、ただ必ず有益なものがあります。それは、「いのち」です。たとえ全世界を手に入れても、つまりすべての欲を満足させたとしても、まことのいのちを損じたら、何になるのかというのです。36節。自分だけ生きようと、自分の欲だけ満足させようとする自己中心は、最終的には自分のいのちを失うと言うのです。35節。
 どんな権力者も、誰もが、自分のいのちを持ち続けたいと願いながら失いますが、イエス様と福音のためにいのちを失うならば、つまりイエス様と共に過去の自分が死ぬなら、まことのいのちに与ることになります。イエス様の中で死ぬ時、死の恐怖、生活のすべての恐怖が消えます。イエス様の中でいのちを失う場合にのみ、天国を見つけることができるからです。ここに出てくる「いのち」という原語は、英語では ソウルに訳されるもので、魂という意味です。したがって、この「いのち」は、肉体の命ではなく、天国での永遠の命を意味しています。
 この天国へのいのちは、どうしたら得ることができるのですか。たましいのいのちは、ただイエス様を信じることで与えられます。このいのちを買い戻すために、イエス様がご自分のいのちを私たちの代わりに差し出してくださったからです。37節, Tテモテ2:6。
 ところが、このたましいのいのちを捨てる人がいます。38節。「恥じる」とは、「認めない」という意味です。この原語は、私とは何の関係がないと言うのに使われます。イエス様を恥じている人は誰ですか。イエス様とは何の関係もないと否定する人です。ペテロが、自分の足を洗うイエス様に対して、足を洗わないでくださいと言うと、イエス様は、「洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と言われました。ヨハネ13:8。カルヴァンも、イエス様に従うことは、自分を否定する過程だと言いました。このような人は、イエス様とともに死に、主の十字架と復活を根拠に、自分の十字架と復活を告白して生きていく人です。
 いつから自分を捨て、自分の十字架を背負って行くのでしょうか。「捨てる」も「負う」も、文法的には、今から直ちにしなさいという命令形です。自分の考えに都合よくなる時まで待つのではなく、この御言葉を学んだ瞬間から、今すぐに、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従って行くことを開始するのです。私たちの生活の現場で、少しずつ実践して行くのです。それが、クリスチャンの生活です。34節。



マルコ8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」



マタイ16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

Tテモテ2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

ヨハネ13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」

ガラテヤ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

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