2018年8月5日「変貌の山」マルコ9:1〜13

序−人は変化を嫌うものです。名言では、「自我は変化を嫌うから、人生を変えたいと言いつつも、実際の生活に変化を取り入れない」と言います。変わろうとしなかったペテロの姿から学び、私たち自身を顧みましょう。

T−イエス様の変貌−2〜5
 「それから六日たって」と記されているように、イエス様の死と復活を受け入れられなかった弟子たちに対して、イエス様が強い説得と教えをされたことに繋がっている場面です。マルコ8:31〜38。その時、「そんなことがあってはなりません」と、弟子たちに強い葛藤が生じました。それを痛感されたイエス様は、3人の弟子だけを連れて、とある高い山に連れて行って、そこで偉大なショーを見せました。2〜4節。
 そこでイエス様の御姿が変わったと言うのですが、それは、さなぎが蝶に変わるくらい別次元の変化です。衣が非常に白く輝きました。イエス様の変貌、変貌の山と言われます。そこに何とエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合ったというのです。二人とも、旧約聖書中の偉大な人物です。モーセは、律法の代表、エリヤは預言者の代表ということでしょう。イエス様は、変貌の山に二人を登場させることによって、ご自分が旧約聖書の律法と預言の成就者として来られたお方であることを弟子たちに知らされたのです。
 この光景を見て驚いたペテロは、感激して「3人のために幕屋を三つ造ります」と言いました。5節。皆さんがこの場面にいたら、どうしたいですか。モーセに紅海渡渉など聞きたいでしょう。しかし、なぜ、ペテロは幕屋、テント、仮小屋などを作りたいなんて言ったのでしょう。8章の時、イエス様がご自分の死と復活を通して救い主の御業を成し遂げるためにエルサレムへ行くとあきらかにされたのを聞いたペテロは、イエス様が殺されるなんて、自分たちがイエス様について来た意味がなくなってしまうと反対しました。マルコ8:29〜33。
 弟子たちは、救い主であるイエス様が苦しみを受け、死ななければならないなんて、認められなかったのです。その時、ペテロはイエス様をいさめた、責めたのです。それは、イエス様が死んだら、イエス様につき従って来た自分たちの犠牲や労苦が何の意味もなくなってしまうと不安と恐れを感じたからです。そして、「自分の十字架を負ってついて来なさい」と言われて、自分も十字架への道を歩まなければならないのかと思いこんだようです。今素晴らしい変貌のシーンを見たペテロは、自分もイエス様もこのままここにいた方がいい。ここに幕屋、仮小屋を作ろう。そして、イエス様のエルサレム行きを阻止しようとしたのです。
 唐突な印象だったので、6節のように記録されてはいますが、それだけペテロの自然な思いだったのです。私たちの中にこのペテロがいないでしょうか。ペテロは、自分の思いに合わないと、イエス様の十字架への道を妨げようとしました。ペテロは、自分の判断領域でのみイエス様を信じようとしました。自分の常識に合ったイエス様だけを要求しました。

U−変わりたくない思い−6〜8
 イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。マルコ8:34。ですから、時には、私たちも、自分の願いを置いて、付いて行かなければなりません。楽しんでいることを置いて行く必要もあります。それを置くとき、主に従う人生を歩めるからです。しかし、イエス様がついて来るように求めても、私たちは、享受している場から降りたり、十字架を負って付いて行ったりすることを躊躇するのです。それは、自分の損になる、自分のものがなくなると思うからです。平安で幸福な人生が終わると思うからです。
 ですから、私たちも、そのような時、それぞれの幕屋を作ろうとします。そこに居続ける何かを作り、何か設けようとして、その場を離れまいとするのです。自分の願いと夢の幕屋を作って、その夢と願いに留まろうとするのです。主が信仰の前進に召しておられても、そこから出ようとしません。そこが自分を幸せにしてくれる場と思うからです。
 誰しも、自分の生活が変化するのをあまり好まないでしょう。ところが、今日急激に変化する社会にあっては、変化を受け入れなければならない必要も多いです。変化を拒んだままではいられない環境です。しかし、そうは言っても、変化は好まないのです。その生活、仕事や家庭の環境を享受しているなら、なおのこと変化を嫌います。その幸せや楽しみに留まりたい、慣れた生活を変えたくないからです。
 聖書の中から例をあげてみましょう。創世記11:31。信仰の父と呼ばれるアブラハムは、神様の召しを受けて、自分の住んでいたウルを出て、行ったこともないカナンに向かいました。アブラハムは、快適な生活を置いて、荒野の地に出発しました。ところが、彼のような信仰者でも、途中のハランに留まってしまいます。そこも、豊かな土地です。しばらく留まった後、再び神の召しを受けて、カナンの地へ出発します。創世記12:1。結局は、神様の召しに従うのですが、そこに留まろうとしました。その幸福と平安を失いたくないからです。
 変貌の山でのペテロは、そんな気持ちでした。変貌の山での幸せな瞬間を奪われたくなかった。恍惚感にひたっている山を降りたくなかった。また山を下回ると、苦難の道を行くだろうし、死の道を行かなければならないからです。

V−山を下る−7〜9
 その時、雲がわき起こってその雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がしました。ふと気が付くと、弟子たちとイエス様だけになっていました。7〜8節。混乱して困った時には、私たちは、主に聞かなければなりません。葛藤と混乱を経験する時は、御言葉を聞くのです。イザヤ41:10。全能の神が私たちとともにおられて、神様が私たちを守ってくれて、助けてくださいます。イエス様が神の愛する子であることを悟って、御言葉に従うことが、混乱から抜け出る方法です。心が重く沈む時、イエス様を見て、御言葉を聞くのです。
 結局、変貌の山に留まることはできませんでした。イエス様は、弟子たちとともに山を下り始めました。9節。私たちは、変化を嫌うペテロの気持ちがよく分ります。でも、私たちは覚えなければなりません。アブラハムを神様はどう扱われたのか。時には、変化が必要なことを、変化を求められることを覚えなければなりません。平安で豊かな生活を置いて労苦の道を行ったアブラハムは、信仰の父と呼ばれるようになりました。後に大きな祝福を受けました。今日私たちにも、それを置いて出発しなさいと言われる時があります。でも、幸せで平安で豊かな場を去りたいとは思いません。でも、その場から下りなさいと言われます。
 変貌の山で弟子たちが経験した栄光の恵みは、一瞬のことです。私たちが、どんなに礼拝において恵みと祝福を経験したとしても、そこにずっと留まることはできません。神様の栄光の出来事を味わったとしても、そこから下らなければなりません。私たちは、恵みの座から降りて、現実の問題が山積している家庭や職場や学校が、私たちが生きて行くべき人生の現場です。ですから、恵みの御座で霊的取り扱いを受け、御言葉で養われ、私たちも変化するのです。霊的造り変えを受け、変貌するのです。
 弟子たちこそ、変貌の山での栄光の経験によって、信仰が変化し、霊的変化を体験して、山を下りなければなりませんでした。なぜなら、山の下では、騒動が起こっていたからです。マルコ9:14〜18。イエス様の癒しを受けるために少年が連れて来られていたのですが、弟子たちはできなかったと騒動になっていました。山から下りて来られたイエス様が悪霊を追い出し、その子を癒しました。ペテロが願ったように幕屋が作られて、イエス様が山に留まったとしたら、弟子たちの労苦が続いていたことでしょう。
 ペテロは、変貌の山にいる間、山の下で他の弟子たちが苦しんでいることなど考えもしませんでした。私たちが、生活を享受している時、周りの人々がどのようになっているか、苦しんでいないか考えてみる必要があります。外にいる時、家の中で家事や育児を格闘している妻を忘れてはなりません。家でほっとしている時、職場で労苦している夫に思いを馳せる必要があります。山の上で楽しんでも、ふもとで苦労している信仰の友のところへ下りて行かなければなりません。
 私たちは、幕屋を作ると言った時のペテロの段階を超える必要があります。いつも自分の利益の次元でのみイエス様を求めようとしたペテロの姿から変化するのです。私たちにも、変貌の山の経験が絶対必要です。今日も主の日の礼拝という変貌の山に上り、主を賛美し、御言葉を聞き、恵みと霊的変化を与えられました。すでに、イエス様の救いのゆえに罪の赦しと新しい命をいただいています。この福音の恵みに押し出されて、今週もそれぞれの生活の現場へと変貌の山から下りて行きましょう。Uコリント5:17。



マルコ9:1 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」
9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
9:4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。
9:5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
9:6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。
9:9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
9:10 そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。
9:11 彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」
9:12 イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。
9:13 しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。」



ルカ9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

マルコ8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

ヘブル11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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