2018年8月12日「自信喪失と責任の重圧の中で」マルコ9:14〜29

序−人は、何の心配や問題もなく人生を生きることを願います。しかし、人生は問題だらけです。自分の力ではできない無力感や人と比べて生じる劣等感にさいなまれ、責任感や要求の重圧に押しつぶされそうになります。今日の箇所に出て来る人を通して、そのような中でどう生きるのか聖書の教えを学び、私たちへの適用としましょう。

T−劣等感と責任を責める声の中で−14〜19
 イエス様が3人の弟子と共に、変貌の山から降りて来ると、そこには弟子たちを大勢の人々が囲んでおり、その中で律法学者と論争中でした。14〜15節。そのわけを聞くと、一人の父親が息子の癒しを求めて来たところ、弟子たちができなかったためだということでした。律法学者が弟子たちを責め、群衆がそれをあおるかのように騒いでいました。
 山上は栄光に包まれ、山の下は痛みと苦しみで暗くなっていました。息子から悪霊を追い出すことができなかった失望感、取り囲む人々から受ける期待の重圧、律法学者から責めに出会って、ふもとに残っていた9人の弟子たちは、窮地に追い込まれていました。私たちは、問題や仕事などにおいて、失望感や責任の重圧で心が萎えてしまうことがあります。期待に応じることができない恥ずかしさ、責任を果たさなければならないという重圧感、失敗やできないことを責める声、そんなことに囲まれたら、やり切れません。
 弟子たちは、本当に悪霊を追い出す力がなかったのですか。マルコ6:7,13。以前、弟子たちは、伝道実習に出た時、イエス様から悪霊追い出しの権限を付与されて、癒しも悪霊追い出しもできました。なぜ、今回できなかったのですか。弟子たち自身の心の状態が問題でした。ふもとに残された9人の弟子たちの心情を想像してみてください。山に同行した3人と比較して、妬みを持ったでしょう。当然、彼らの心に疎外感と劣等感が生じました。そのために、寂しさと怒りを覚えていたでしょう。イエス様に対して不信感が芽生えていました。
 人は誰でも、状況によっては劣等感や疎外感を抱くものです。なぜ私がこんな取り扱いを受けるのか。どうして私にはできないのか。そのような心の叫びの中に劣等感や疎外感が入っています。しかし、劣等感を抱くだけで、私たちの人格が劣っているわけではありません。この事実を知らなければなりません。人格が劣っているのでもなければ、無能な者でもありません。ただ、人と比べて劣等感を抱いただけなのです。今社会の一線で活躍している人々も、実力を認められず、不遇の時代を過ごしました。
 でも、弟子たちは、劣等感を抱いたために、問題が起こりました。残された弟子たちは、自分の力で悪霊追い出しにやっきになったのです。群衆に良い所を見せようとむきになりました。むきになってやればやるほど何もできず、群衆は騒ぎ、律法学者は責めて来たのです。以前はできたのに、なぜでしょう。不信仰になっていたからです。19節。

U−責任を果たせない痛みと助けてもらえない失望の中で−20〜27
 人々が人生を歩む中での大きな痛みは、苦しい問題を持っているが、それを自分の力でできないことです。それに加えて、その助けを人に求めてもできないことも大きな痛みです。そんな問題を抱えて生きることがどんなに辛いことでしょうか。ここに登場する父親は、まさにそのような人でした。20〜22節。この人の息子の症状は、常に痛みを伴うものでした。しかし、父親にとって、自分の力ではどうすることもできず、できることは、苦しむ息子を苦しんでながめることだけでした。親として責任を果たせない自分に失望しました。長い期間そんな状態が続いていたのです。
 人は、自分が心痛める問題を持っているのに、自分の力では何もできないということほど、辛いことはありません。自分にそのことの解決の責任があるならば、余計に辛く、苦しいのです。責任の重圧は、避けることのできない苦痛です。私たちは、家庭や職場、学校や地域などの様々の場で責任を持つ場合、経験することでしょう。
 それに加えて、別な苦痛も伴います。人は、自分の能力ではできないとなれば、誰かの助けを受けようとします。しかし、他の人からの助けも受けられないとなれば、どうでしょう。自分に失望した人は、他の人からも失望させられます。変貌の山から降りて来たイエス様が、何のことで議論しているのかと聞かれた時、すぐにこの父親が答えています。17〜18節。息子の酷い症状を事細かに説明し、「お弟子たちに願ったのですが、できませんでした」と言っているところに、彼の弟子たちに対する失望が強く滲み出ています。他の人に期待すればするほど、助けを得られなかった時の失望も大きいのです。この父親は、これまでも、頼りになりそうだと聞けば、その人を訪ね、助けを求めることを繰り返して来たでしょう。
 弟子たちは、何とかして助けようとしたでしょうが、助けになりませんでした。父親は、がっかりするしかなかったのです。人に助けを求めれば求めるほど、助けられない時、失望することになります。長血の女もそうでした。マルコ5:25〜26。長い間人を頼って、助けを求めた結果、人に失望するだけでなく、不満や恨みさえ持つようになりました。人は、期待しても助けを得られないという失望と不満を抱きながら生きることになります。
 すべての人が、この避けがたい2つの痛みを持っています。自分の力で解決できない責任の重さと痛み、他の人の助けを得られないという失望と不満です。どこに行けばいいのでしょう。どこから助けは来るのでしょう。

V−主を信頼しなければ−28〜29
 この父親は、イエス様に出会いました。17節。救いを求める人が尋ねて行く所は、イエス様です。誰からもどんな助けも得られなかった父親が最期にたどり着いた所が、イエス様でした。イエス様に対して、「あわれんでください。助けてください」と求めました。21〜22節。不思議なことに、イエス様はいつものようにすぐに癒してはくださいませんでした。なぜですか。この場面、読む者に信仰について考えさせています。
 この父親は、イエス様に助けを懇願するのですが、イエス様は、親の言葉にクレームをつけます。23節。父親は、「もし、おできになるものなら」とお願いしているのです。これまでどんな人でもできなかったので、こう言ったのでしょう。失望から出た言葉です。しかし、イエス様は、「できるものなら、と言うのか」と叱られました。あわてた父親は、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言い直します。24節。ここに信仰の分岐点があります。父親は、自分の不信仰に気付かされ、改めて信仰をもってお願いしました。助けを求めながら、信じていなかったのです。これは信仰ではありません。彼の信仰を聞いて、イエス様はこの人の息子から悪霊を追い出し、癒してくださいました。25〜27節。
 これを聞いていた弟子たちは、どうして自分たちは、悪霊を追い出すことができなかったのかと尋ねます。28節。それに対して、イエス様は、祈りによらなければならないと言われました。29節。祈るということは、信仰のあらわれです。つまり、信仰が必要だというのです。弟子たちは、劣等感と不信感でイエス様への信頼がなくなっていたのです。信仰で生きるということは、問題から救ってくださる方を信頼して、助けを求めるということです。彼らには、隔ての壁ができていました。エペソ2:14。しかし、イエス様の十字架の血によって、神様との和解が与えられ、神様との正しい関係が回復されています。ローマ3:25。
 彼らは、劣等感と疎外感のせいで不信仰になっていました。私たちはできないから劣等感を抱くのではなく、イエス様を信頼して、信仰で取り組んでみるべきです。私たちが聖書を学んで発見する、驚くべき事実とは、イエス様を救い主と信じて助けを求める人の中で、助けを得られなかった人は誰一人いないということです。ですから、「重荷を負っている人は、誰でもわたしのもとに来なさい」と、主は言われたのです。マタイ11:28。
 主を救い主と信じる信仰は、祈りでもってあらわされます。ですから、私たちが人生の旅路で困難や問題に直面する度に、主の助けを祈り求めるならば、その瞬間から、私たちは絶望から希望へ向かうことになります。マタイ7:7〜8。「祈りによらなければ」というのは、私たちがイエス様を救い主と信じて祈るならば、聞いてくださるということです。ヨハネ15:5。私たちが人生の旅路で困難に出会う度に、イエス様に祈りましょう。
 父親は、自分に失望し、人々に失望して、癒しを願いながらイエス様を信頼しませんでした。弟子たちは、劣等感と疎外感でイエス様を信頼していませんでした。信じていたのに、不信仰でした。私たちは、自分のために十字架にかかってくださったイエス様の内に救いを見出しました。本当にイエス様を信頼していますか。私たちも、きょう「信じます。不信仰な私をお助けください」と言わなければなりません。私たちの力は、天地を造られた主から来ます。詩篇121:1〜2。イエス様につながっていなければ、私たちは何もできないのです。イエス様を信頼し、イエス様につながりながら、問題や責任に取り組みましょう。ヨハネ15:5。



マルコ9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。
9:15 そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか」と聞かれた。
9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。
9:18 その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」
9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」



マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

マタイ7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

詩篇121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

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