2018年8月19日「みなに仕える者となりなさい」マルコ9:30〜37

序−今日、過酷な競争社会になっています。世界は、競争で勝って高い位置を維持することが目的です。共生、共存が提唱されていながら、人々は、彼我を比較して妬み、競争しています。そして、今社会は、倦み疲れ、疲弊しています。聖書は、そんな人の姿の原因を見せ、どう生きるべきか教えています。

T−イエス様の十字架、聞こうしない弟子たち−31〜34
 世はなぜそのようなことを続けているのでしょうか。福音を知らないからです。イエス様は、再び十字架と復活のことを話されました。31節。イエス様は誰のために十字架にかかられ、誰のために復活されるのでしょうか。そこにいる弟子たちのためであり、全世界の人々のためです。ヨハネ3:16。私たち一人一人のためです。人は、最も大切なものを犠牲にして、大事でもないものを手に入れようとするでしょうか。主なる神様は、罪に翻弄されて滅んで行く人々を哀れんでくださり、ご自分の御子を十字架に渡されました。
 ということは、私たちはそれほどの価値ある者だということです。神様は、御子を十字架の犠牲にしても救おうとされるほど私たちを愛してくださったのです。私たちに対して「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださるのが、聖書の神様です。イザヤ43:4。人々は、競争社会の中でがんばり、傷付いています。認められようとして努力したり、業績をあげるために無理を強いられたりします。でも、そうではなくて、はじめから神の愛の中で認められているので、その福音から出発してその恵みに応えようと励んで行くことが、聖徒の生活です。私たちは、福音をつかんでいるでしょうか。福音によって仕事をし、福音によって学び、福音によって生活をしたいものです。
 ところが、弟子たちは、イエス様の十字架と復活のことを知ろうとしませんでした。聞くことを恐れたというのです。32節。救い主が来られる時は、昔のダビデ大王のようになることを期待していました。ですから、イエス様が死ぬとか復活されるなんて、聞きたくない、考えたくないことでした。人は自分の心に聞きたことがあるならば、それ以外のことは聞こえません。不要な応答が予想される質問もしません。神の御心を否定してでも自分の望みをかなえたいのが、肉の人の自然な姿です。弟子たちは、3年間イエス様と同行し、教えと訓練を受けましたが、弟子たちが主の十字架と復活の意味を理解するようになったのは、復活された主に会った後です。私たちは、イエス様の十字架をどう受けとめているでしょうか。御言葉をそのまま受け入れているでしょうか。

U−争う弟子、みなに仕える者に−33〜35
 イエス様の十字架の予告を受け入れられず、質問さえできなかったは、ほかのことで彼らの関心がいっぱいだったからです。彼らは変貌の山のことも引きずっていたようです。何と、弟子たちは、「道々、だれが一番偉いかと論じ合っていた」というのです。33〜34節。新しいイスラエル王国がイエス様によって始められるなら、当然弟子たちが高位高官になると夢見ていたでしょう。誰が、上の位に就くか、そこに関心がありました。変貌の山に同行できた弟子を残された弟子たちが妬んで、争っていたのです。Tコリント3:3。そんな弟子たちは、イエス様から何を論争していたのか尋ねられても、恥ずかしくて、黙っていました。
 イエス様は十字架の道を歩もうとされていたのに、弟子たちは栄光の座に座ろうとしていました。イエス様は罪人の代わりに低くなろうとしていたのに、弟子たちは他の者より高くなろうと争っていたのです。この競争社会の中で生きる私たちも、弟子たちを他人事と見ることはできません。人の先に立ちたい、人より評価されたい、人に認められたいという思いが強くないでしょうか。ちゃんと認められないと憤慨しませんか。頑張ったのに誉められないと面白くないと思わないですか。
 そこでイエス様は、弟子がどう生きるかを教えてくださいました。35節。改めて「おすわりになり、十二弟子を呼んで言われた」というように、大事な生き方として教えてくださいました。何も禁欲主義を言われたのではありません。努力や向上心を否定されたわけでもありません。「人の先に立ちたいと思うなら」と言われたのであって、「人の先に立ちたいと思うな」とは言われません。むしろ「みなに仕える者となる」ように生きるという過程を強調されたということです。
 いつも、イエス様はご自分を見本として示してくださいます。マタイ20:28。イエス様が人々に仕えるために世に来られたと言うのです。事実「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与え」てくださいました。「みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい」と言われたイエス様自身、神の御子であるのに、ご自分を無にして、苦難の道を歩まれまれました。仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ、ご自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われました。ピリピ2:5〜8。
 しかし、それゆえに神様は、後にイエス様を高くされ、栄光を与えてくださいました。ピリピ2:9。ですから、主の弟子である私たちも、イエス様の教えに従い、仕える者の人生を歩むならば、ちょうど良い時に高くされるでしょう。Tペテロ5:6。人の先に立ちたいと思って仕える者となることもいいでしょう。誇りを持って働き、生活したいですか。では、信仰をもって皆に仕えて生きれば、主にあって誇ることができるし、主に推薦される者になるでしょう。Uコリント10:17。主が示してくださった低い者から高くされるまで一貫していたのは、仕える姿でした。
 イエス様の十字架と復活を信じる者はどんな人と尋ねられたら、イエス様のように、「みなのしんがりとなって、みなに仕える者」ということができるでしょう。FB・マイヤーという神学者は、こう証ししました。「私は、神の恵みの贈り物は、高い棚の上にあると思っていました。だから自分を高くしてキャッチしようとしていました。しかし、私は後に気付きました。神の贈り物は下の棚にありました。したがって、自分自身を高くするのではなく、ますます腰を低くしてへりくだらなければなりません」

V−幼子をイエス様のゆえに受け入れる−36〜37
 イエス様は、仕えることを教えるために、さらに言われました。36〜37節。どうして幼子を使って教えられたのでしょう。有名な人や立派な人に仕えるなら、格好もつくでしょう。自慢にもなるでしょう。仕える遣り甲斐もあるでしょう。しかし、そうではない人に生涯仕えるとしたら、どうですか。古代社会の子ども観は、労働力とならない厄介者、役に立たない者という評価です。世話ばかりかける厄介者、そんな者に一生仕えるとしたら、どうでしょう。
 ですから、イエス様の姿を見なければなりません。イエス様の弟子教育は、子どもを受け入れて、仕えるのと同じです。弟子たちは、いくら教えても気付かず、とんでもない反応もします。仕えても成長がなく、忍耐を伴うものでした。主は、弟子たちを子どものように受け入れ、仕えられましたが、容易なことではありませんでした。問題が起きれば、後始末をするのは、仕える者です。嘆かれることしばしばでした。マルコ9:19。どんなに苦しく切なかったことでしょう。しかし、弟子たちを愛して仕え続け、育てました。後の弟子たちの成長と活躍を確信して。このイエス様の姿は、仕えることに労苦を覚える者に励ましを与えてくれます。
 このようなイエス様の教えは、神の国での人の評価する基準を教えてくれます。イエス様の神の国では、地位や業績で評価されません。どんな職務を引き受けて何をするかに関係ありません。ただ自分は「皆に仕える者」というアイデンティティーを明確にもって、自分の生活の中で実践して行くことにかかっています。「仕える者」の精神は、立派な大人を受け入れる時ではなく、子どものような者を受け入れる時に明らかとなります。
 自己中心的な幼稚な者と出くわした時、イエス様の御名によって受け入れることができるでしょうか。つまり、その人に対する態度がイエス様に対する態度と同じだと言っているのです。この小さい者とイエス様ご自身を同一視するのは、最期の審判の例えにも出て来ます。マタイ25:40,45。取るに足りないと見られるような人一人にしていないことは、主にしていないことと同じだというのです。些細なことのように見えることでも、むやみに人に接することができない理由がここにあります。「最も小さい者」も、私たちの主と同一視される大切な人なのです。
 結局は、人を受け入れ、仕えることが、私たちの主を愛することであり、神を愛する方法なのです。もし「皆に仕える者」というアイデンティティーを持って生きるなら、周りの人々の中に子どものような姿を発見したとしても、以前とは違って来るはずです。「あんな人があんなこと」と言う代わりに、イエス様の御名によって受け入れ、仕えることになります。皆の殿となり、皆に仕える者が、主の祝福を受けて高くされ、主の恵みを受けて事をなすことができます。Tペテロ5:6。



マルコ9:30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
9:31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。
9:32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
9:33 カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。
9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
9:36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。
9:37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」


イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

Tコリント3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

ピリピ2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

Tペテロ5:6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

Uコリント10:17 誇る者は、主を誇りなさい。
10:18 自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。

マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

戻る