2018年9月2日「反対しない者は味方です」マルコ9:38〜41

序−弟子たちは、仲間内で「誰が一番偉いか」と争っていましたが、外に対しては、高慢と特権意識をあらわにしていました。このような弟子たちの姿は、御言葉の養育による成長が進んでいないためでした。今日の御言葉は、弟子の姿を通して、私たち自身について考えさせてくれます。

T−妬み、高慢−38
 「人の先に立ちたいなら、皆のしんがりになり、皆に仕えなさい」(35節)と言われたにもかかわらず、ヨハネは何と言っているのでしょう。38節。悪霊を追い出し、癒しをしている人がいたけど、仲間ではなかったから、止めさせたと報告しています。ヨハネの言葉は、自分は12弟子の一人だという特権意識から出ています。自分を低くして、仕えるどころか、高慢、プライドの塊です。人を制して、命令する特権意識丸出しです。仕える心は、人を自分に従わせるよりも、自分自身を主に慕わせます。
 ちょっと前、変貌の山のふもとでは、弟子たちはかわいそうな少年から悪霊を追い出すことができませんでした。いくらやってもだめでした。いっぱい恥をかきました。イエス様から、信仰がないと叱責されました。それなのに、12弟子でもない、弟子たちの知らない人が、イエス様の御名を唱えて悪霊を追い出しているではありませんか。弟子たちには、大変なショックです。妬みが生じました。それで、止めさせてしまいました。こんな感情の動き、私たちにもないでしょうか。
 ヨハネには、イエス様に従う12弟子だというプライドと特権意識がありました。イエス様の御名でする占有権でも持っているかのように、その人の活動を禁止したのです。自分たちのようにイエス様に従っていないくせに、我われを差し置いて生意気だと癇癪を起こしたのです。妬みも生じ、プライドが傷付き、余計癪に障ったのです。すぐに怒る激情の人です。イエス様が付けたヨハネのあだ名は、「雷の子」でした。マルコ3:17。
 このような姿、誰にもありますね。学生同士でも、主婦仲間や職場でも、妬みやプライドから癪に障り、怒りが生じ、ついそれが態度や言葉にあらわれるのです。人の心を傷つけます。誰にも見られるからと言って、このような姿は、愛の反対の姿です。「愛は人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」Tコリント13:4。私たちは、イエス様の愛を受けています。神の御子イエス様が、私の身代わりに十字架にかかられるほどに愛してくださった。ですから、私たちは、人を愛し、仕えることができます。Tヨハネ4:10〜11。ヨハネの福音書、手紙には、愛が満ちています。
 それを記したのは、ヨハネです。ヨハネのあだ名は、ずっと雷の子であったわけではありません。イエス様との人格の交わりを深めながら変化しました。ヨハネは、イエス様の御言葉の養育を受けて行くうちに変えられました。癇癪持ちが克服されました。すぐに怒り、感情が噴出していた感情量の多さは、感受性豊かな愛のあらわれに変えられました。後には、愛の使徒と呼ばれる人になりました。私たちの性格も、イエス様を信じて、御言葉に養育されて、良いものへと変えられて行きます。

U−寛容、受け入れ−39〜40
 ですから、イエス様の御言葉の養育を受けましょう、どうすれば、このような妬みやプライド、怒りや不寛容を克服できるのでしょうか。39〜40節。ヨハネの言ったことは傲慢なのですが、イエス様はペテロを叱るような言い方はされないで、優しく教えてくださいました。叱りつけられれば、感情で受け止めて、益にならないかもしれないからでしょうか。誤りを指摘するより、信仰的な受け止め方を教えてくださいました。このイエス様のヨハネへの対応から、人への対応を学ぶことができます。それぞれに合った対応も必要なのです。
 イエス様は、そのような働きを止めさせる必要はないと言われました。イエス様の名をかたって良いことができたなら、イエス様のことを悪く言うことはないからと言うのです。確かに、それは、主の働きの助けとなります。イエス様は、私たちに反対しない者は、私たちの味方だと言われました。感情的になると、敵か味方かに分けたくなるのですが、「反対しない者は、私の味方だ」という心の広さが必要です。神の国の進展に役立つので、そのままにさせなさいと言われたのです。イエス様を批判したり、邪魔したりするのではなく、主の働きに有用だからいいと言うのです。
 「反対しない者は味方だ」という信仰の視点を学びましょう。ヨハネが見た人は、イエス様に反対していたのですか。ヨハネの邪魔をしたり、敵対していたのですか。ヨハネが妬みや肉のプライドで反応したので、癪に障ったのです。私たちも、反対や敵対していない人の言動を肉の思いで見て、受け止めたために、敵対視してしまうことがないでしょうか。ただ、気に入らない、癪に障るということで怒り、敵対するのです。愚かなことではないでしょうか。
 使徒パウロが同じようなことを言っています。ピリピ1:15〜18。ヨハネの見た人は、悪気も敵対心もありません。善意でしていたのでしょう。しかし、パウロの言う人々は、パウロに対して「ねたみや争いをもって」宣教する人々でした。彼らは、投獄されて宣教ができない「パウロをさらに苦しめるつもりで」していたのです。でも、パウロは苦しんでいません。怒ってもいません。かえって喜んでいます。彼らの動機は悪意です。しかし、イエス様の福音が宣教されるから喜ぶというのです。
 不寛容と利己的な思い、妬みとプライドで見ると、良いことも良く見えなくなります。自分の利益にならず、癪に障るならば、怒って、人を貶めてしまいます。しかし、信仰の人は、教会の徳になるか、神に栄光になるかでよく見て、良いものと受け止めるのです。自分の肉の感情、不寛容と利己的な思い、妬みとプライドで反応していたら、信仰で生きることはできません。どれほど癪に障り、感情をぶつけることになるでしょうか。苛っとしたら、カチンと来たら、主の御前に生きていることを思い出しましょう。「コラム・デオ、主の御前に」です。
 パウロ自身、かつてはユダヤ社会の指導者の評価を受けようとしてクリスチャンを迫害することに熱心でした。使徒8:3。そんな自分がイエス様に出会って救われて、赦されました。聖徒たちもそんな自分を受け入れてくれました。使徒9:27〜28。イエス様の赦しと愛に触れて、パウロは変えられました。信仰による寛容と愛を身につけました。敵対されても、敵対しません。寛容と愛で受け止めました。私たちも、イエス様に出会い、あわれみと愛を受けて救われ、罪赦された者ではありませんか。

V−仕える、とりなしの祈り−41
 不寛容と利己的な思い、妬みとプライドを乗り越えて、仕える者になるように教えてくださいました。41節。キリストの弟子とは、キリストにある者、属する者という意味です。キリストに属する者、クリスチャンとしいうことで、水一杯でも飲ませてくれる者は、主の報いを受けられると祝福してくださいました。
 日本では、水一杯なんてと思われるでしょうが、聖書の中では、飲み水を得られず、命の危険にさらされた人々の話がたくさん出てきます。ですから、この「水一杯」とは、旅人が水がなくて苦しんでいるところに差し出される水にもなります。従って、水一杯でも飲ませることは「小さなこと」ではなく、命を生かす非常に大きなことです。私たちが人に仕え、助けることは、誰かの命を助ける働きになるかもしれません。
 まさに、ヨハネが見た、イエス様の御名で癒しをしていた人は、そういう働きをしていたわけです。ヨハネら弟子たちの働きを助けていたことになります。ただ、この無名の人は、イエス様を信じて、その通りやってみたのです。この人は、弟子たちが持っていない心を持っていました。悪霊につかれ、病んでいる人をあわれみ、かわいそうに思いました。イエス様の熱い心で祈りました。イエス様なら癒してくださる、そう信じて、主の御名で祈ったのです。奇跡が起こりました。なぜでしょう。彼の中に主の心があったからです。
 私たちの周りにも、苦しむ人がおり、助けを必要とするたましいがあります。イエス様の熱い心で祈ってみましょう。私たちの能力ではありません。本当に自分にそのたましいを愛する心があるのか、本当にイエス様を信じて、信頼する心があるのかということです。私たちをイエス様が愛してくださる愛で、その人を愛してみましょう。それとともに、私たち自身も、自分自身のために熱心に祈りましょう。私を助けてくださいと涙を流して祈ってみましょう。
 使徒の働きを見ると、多くの奇跡が起きています。その際、弟子たちは、たましいを愛する熱い心で尋ねています。復活の主が生きておられるから、祈ります。信仰をもって祈らなければなりません。信仰をもって祈るのなら、主のあわれみと祝福があらわれます。誰が何と言っても、私たちのうちに主の御霊がおられます。Tコリント3:16。問題が発生するたびに、イエス様の御名で祈ります。ローマ10:13。


マルコ9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
9:41 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。



マルコ3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

Tコリント13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

ピリピ1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

Tコリント3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

ローマ10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

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