2018年9月9日「小さな者に躓きを与えない」マルコ9:42〜50

序−イエス様の弟子たちが、互いに誰が一番偉いかと争ったり、高慢と特権意識をあらわにしたりしていました。イエス様は、そのような弟子たちの姿勢が、どれほど危険なものになるのか警告してくださり、健全な信仰生活の姿を勧めてくださいました。躓きというキーワードで始まります。

T−小さい者を躓かせるなら−42
 弟子たちが誰が一番かと争ったり、高慢になって人を退けたりしていたら、早晩人を躓かせることになるでしょう。そこで、イエス様は、「小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、海に投げ込まれたほうがましです」と言われました。42節。人は、自分が人の言動や問題に躓いても、人が自分のことで躓くのはあまり分からないでしょう。ここでは、自分が躓くことではなく、人を躓かせることが取り上げられています。同じ話が記されている並行記事では、「つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ」と言われています。マタイ18:7。
 どんな人を躓かせることが問題だと言っておられるのでしょうか。「小さい者」とは、年齢的や身体的に小さい者というのではなく、イエス様を信じる弟子たちを小さい者と言っています。マタイ25:40。弟子たちは、「取るに足りない者や見下されている者、愚かな者や弱い者」とも言われています。つまり、誰でも、イエス様を信じる者は誰でも、小さい者に属するのかもしれません。Tコリント1:27〜28。私たちの周りの人たち、家族や地域の人、職場や学校の人にも適用してもいいでしょう。私たちを通して信仰を知る人々です。そのような人々を躓かせるなら、イエス様から、救いから遠ざけてしまうことになるからです。
 ですから、小さい者を躓かせる者は、大きな石臼を首につけて投げ込まれたほうがましだと言われたのです。この石臼とは、家畜に引かせるような何mもある大きなものです。どんなことが人を躓かせるのでしょう。罵倒され非難されることで躓くでしょう。ぞんざいな扱いや嘲笑でも躓くでしょう。世の中ではよく起こる、問題ないことと思われるでしょうか。人は躓くと簡単に傷を受けます。問題は、傷を受けるに留まらないことです。躓けば、天国も、救いも嫌になるのです。だから、イエス様は、このように大げさに言われたのです。一度躓くと、5年10年続き、数十年難しいこともあります。なぜ、石臼を首に蒔かれて海に投げ込まれるくらいに言われるのでしょう。イエス様は、「小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにした」のと同じだと言われたからです。マタイ25:40。クリスチャンを迫害していたパウロ(サウロ)に対して、イエス様は「なぜわたしを迫害するのか」と言われたからです。使徒9:4。
 生活していれば、間違って人を躓かせてしまうことがあるでしょう。しかし、ここで言う「躓かせる」という言葉は、故意に障害物を置いて妨げたり、倒したりすることを言います。ある証しを聞きました。夫を罵倒し手も出す妻がいました。優しい夫も耐え切れず離婚が取り沙汰されました。そんな時妻が教会に行くようになり、悔い改めて救われ、養育で変えられ、家庭が平和になりました。しばらくして夫が教会に来て言ったそうです。「妻が信じる神様が本当の神様だと思います。私も信じます。」

U−躓かせるものを除く−43〜48
 躓きを与え続けるとどうなりますか。家庭や人間関係の混乱に留まらず、永遠の苦しみに投げ込まれる、だから切り捨ててしまえと言われました。43〜48節。この通りになれば、世の中手足目がない人だらけになります。もちろんそんなことを言われたのではなく、「躓かせる」という動詞には、「罪を引き起こす」という意味もあります。罪を引き起こす元となるなら、それを切り捨ててしまえと言われたのです。罪の根を除いてしまいなさいということです。
 手、足、目を取り除いても、「ゲヘナに投げ入れられるよりよい」と言う「ゲヘナ」とは、どんな所でしょう。ゲヘナとは、ヘブル語のゲ・ヒンノム、つまりヒンノムの谷をギリシャ語で表音化したものです。この谷は、エルサレムの南西に実際にあった所で、忌むべき偶像に人のいけにえをささげた跡地をごみ捨て場としました。ごみが焼かれて火が消えることなく、うじ虫がいつもわいていた所でした。まさに48節のような所でした。地獄の人生がどのようなものかを実感できるように、ゴミ捨て場に変わった、呪われたヒンノムの谷を比喩的に用いられたのです。
 旧約聖書では、罪の赦しを受けるために羊、山羊、牛をささげなければなりませんでした。自分たちの罪のために、あがき死んでいく動物を見て、より罪の代価を深く実感したようです。私たちは、神の御子が自分の罪のために十字架の悲惨な死の代償となってくださったので、罪赦されました。それなのに、私たちはあまりにも簡単にその事実を忘れてしまっているのではないでしょうか。小さな者を愛される父なる神の心を知ってほしいから、このような表現をされたのです。
 私たちは、目で見ることで、欲や罪の誘惑を受けます。目で見て生じた悪を行うために足で行動します。そして、手で罪を実行することになります。でも、手や足よりも先に動き、人を躓かせて、心に傷を与える器官があります。それは、口です。ヤコブ3:8〜10。私たちの発した言葉をすべて録音して聞いたとしたら、どうでしょう。不用意に発した言葉で、小さい者を躓かせ、どれほど傷を与えているか分かりません。神を賛美しながら、悪を吐いて、人を躓かせるのです。悲しいことです。ですから、口から悪を出さないためには、良いこと、徳を高めることを言うように心がけるようにと教えられています。ローマ15:1〜2。
 イエス様は、なぜこのような恐ろしい印象を与える比喩を用いられたのでしょうか。手、足、目を切り捨てろというのは、断固として徹底的に罪を捨てなさいということです。ここで、なぜ44,46節がないのか、説明する必要があるでしょう。聖書のオリジナルは今日失われています。しかし、古い写本には、44,46節がなかったのに、後の時代の写本には、44,46節に48節と同じ文が記されていたのです。書き写す者たちがこの深刻さを際立たせるために43,45節の後にも48節の文を載せたのでしょう。そう筆写した人々の思いだけは、私たちの心に記さなければなりません。そうでなければ、サタンが喜ぶだけです。人を躓かせる張本人は、サタンだからです。

V−躓きを起こさせないために、和合して−
 イエス様は、次に塩の比喩を用いて、積極的な勧めをしておられます。49〜50節。塩は、どんな役目をするのでしょうか。食べ物を腐らないようにします。それから、塩は味を出す役割をします。とても、重要な働きをします。塩がなければ、腐ってしまい、食品は味の無い、不味いものになります。それでも、塩は、大抵その中に溶け込んで目立ちません。まさに、クリスチャンの生き方そのものではないでしょうか。地の塩として世を悪の腐敗から守る存在であり、人々の生活に恵みの味を出し、人々の間に溶け込んで仕えるのです。辛らつな自己主張をするのではなく、肉のプライドをなくし、もっぱら人の徳を高めるようにするのです。マタイ5:13。
 なぜ、49節で、火と塩がともに出ているのでしょうか。旧約時代、神様へのささげ物は、必ず塩をまいて、全焼のいけにえとしたからです。エゼキエル43:24。誰が偉いか争い、肉のプライドをもって高慢になる弟子たちの心は浄化されなければなりません。また、塩に塩けがなくなるとは、どういうことでしょう。50節。純粋な塩は、塩けを失うことはありませんが、死海周辺には、見た目だけ塩だが、不純物が多く混ざって塩味のないものがあるそうです。世の価値観や罪という不純物が混じって、主の弟子としての品性を失ってしまったら、誰が地の塩の役割をするのでしょうか。
 旧約聖書では、永遠に変わらない契約を「塩の契約」と言いました。民数記18:19。神様は、私たちの信仰が変わらないことを望まれています。イエス様は、私たちが内面に塩の特性を持って、人々の中で役割を果たしなさいと言われたのです。塩けを失わないようにしましょう。そうすれば、家族や友人の中で、職場や学校で、溶け込んだ塩として、目立たなくても、その中で欠かせない存在となるでしょう。
 この時の弟子たちのように、誰が偉いかと争い、肉のプライドで高慢になっている姿は、塩からくて食物を駄目にするように、小さい者を躓かせてしまうのです。塩けとは、食物に溶け込んで、食物の味を引き立てることです。
 イエス様は、最後の部分で、「互いに和合しなさい」と命じておられますが、十字架によって和解と平和をもたらしてくださったイエス様は、私たちに和解のつとめを与えてくださり、和解のことばを私たちにゆだねてくださいました。Uコリント5:18〜19。イエス様を信じて救われた者は、変えられて、地の塩となって、それができると言われるのです。悪口雑言、ぞんざいな言葉で小さい者を躓かせるのではなく、私たちのことばがいつも親切で、塩味のきいたものにすれば、小さい者に対する答え方が分かります。コロサイ4:6。まず、親切で、塩味のきいた言葉から始めましょう。



マルコ9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
9:43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
9:45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。
9:49 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」




マタイ18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

Tコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

使徒9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。

ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

マタイ18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

ヤコブ3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

ローマ15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

マタイ5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

エゼキエル43:24 あなたは、それらを【主】の前にささげ、祭司たちがそれらの上に塩をまき、全焼のいけにえとして【主】にささげなければならない

民数記18:19 イスラエル人が【主】に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、【主】の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」

Uコリント5:18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

コロサイ4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。


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