2018年9月23日「永遠のいのちを得るには」マルコ10:17〜27

序−歴史上の権力者をはじめ、人は不老長寿を願い、永遠の命を求めます。しかし、年を取らない人はいません。死なない人もいません。しかし、聖書には「永遠のいのち」が語られています。どういうものでしょうか。どうしたら得られるのでしょうか。聖書の登場人物を通して学びましょう。

T−救いを誤解していた−17〜18
 ひとりの人がイエス様のもとに来て、永遠のいのちを得るには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。17節。「走り寄って」来たというところに、イエス様を探し求めて来たというこの人の思いがあらわれています。どんな人なのでしょうか。他の箇所を参照すると、金持ちで、役人をしていた青年です。マタイ19:20,ルカ18:18。金持ちで社会的地位があり、若さにもあふれていて、申し分ないように見えます。ところが、彼には、永遠のいのちを得るにはどうしたらよいかという切実な悩みがありました。
 皆さんは、問題があったら、どうしますか。世の方法で解決しようとしますか。絶望して現実から逃避しますか。この人はイエス様に来ました。このような純粋さ、まじめさがありました。しかし、イエス様を先生と呼んでおり、救い主とは認めておりませんでした。ですから、尊い方は神だけだと言われたのです。18節。努力家のこの青年は、イエス様を自分の見習うべき師とくらいに見ていたようです。
 永遠のいのちを得るにはどうすればというところに、彼の信仰観があらわれています。彼の信仰は、自分が中心であり、永遠のいのちを得るには自分が何をしなければならないかという人間中心の信仰観です。しかし、神様中心の信仰は、神様が私のために何をしてくださったか、私をどのように救ってくださるのかということです。この青年は、一生懸命勉強して、役人になり、金持ちにもなっていたようです。ですから、永遠のいのちも努力や行為によって得られると思っていたようです。まじめな現代人も、同じように、自分の努力で道徳を守ったら救われる、善行を積んだら天国へ行かれるなどというようにです。しかし、救いは得られず、努力して何かを得ても、充足することはありません。空しさは残るのです。
 聖書の言う「永遠のいのち」とは、イエス様を信じて救われて、罪赦され天国へ入ることを言います。25節,ヨハネ3:15〜16。そして、救いは、人の力によるのではなく、神様の一方的なあわれみと恵みによる、慈愛と賜物だと聖書は教えています。エペソ2:4〜8。神の恵みで永遠のいのちが与えられ、救われることになります。人は、難しいことを言われれば努力してみようと思うでしょう。しかし、信じるだけで救われ、永遠の命が得られると言うと、信じようとしないのでしょうか。

U−欠けたことが−19〜22
 イエス様は、この青年の信仰観の間違いを悟らせるために、1つの質問をしました。19節。誰でも知っている有名な十戒ですね。でも、後半の対人関係の部分だけです。前半の神様と関係する部分は出ていません。なぜ、イエス様は、前半部分を省かれたのでしょう。この人が、目に見えない神様に対することより、人の目に見えて評価される後半の部分を重要視していたからです。このように社会的地位にある努力家は、社会の評価をまず求めるからです。
 ですから、彼は、得意分野を聞いてくれたとばかり、「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と堂々と答えています。20節。ユダヤ人は、6歳の時から十戒を暗唱し、守るようにします。実際に、この人は、女性を見ても誘惑されないようにし、納入業者からの賄賂を受け取らず、与えられた給料で満足していたのでしょう。こんな人も世の中にはいるのです。人々から評判も良く、羨ましがられたことでしょう。
 しかし、本人の心の中には、喜びと平安がありません。たましいは、何か満たされない。永遠のいのちがない人生に満足がありませんでした。「すべての人の心には、空白、空間の部分があって、世のものではそれは満たされない」とパスカルは言います。この青年の心の空間は、自分の努力や富、世の評価では埋めることはできませんでした。
 そのようなことをみな小さい時から守っていると言う青年に対して、イエス様はこう命じます。21節。欠けたこととは何でしょう。イエス様は、十戒の後半部分を、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とまとめておられます。ルカ10:26〜28。この青年は、命令をすべて守っているようでした。殺人はしなかった、姦淫したこともない、盗んだこともなく、他人を騙したこともなかった。ただ律法を熱心に守っても、隣人を自分自身のようには愛していなかったのです。
 イエス様が姦淫の現場で捕まった女に対して、罪のない者から石を投げなさいと言うと、年長者からその場を出て行って、誰もいなくなったという話があります。ヨハネ8:7〜9。まだ若かったこの人が、自分は律法をみな守って来たと思い込んでいたので、守っていないことを知ってもらうために、イエス様は極端なことを言われたのです。そもそも、律法は、人が自分には罪があることを分かるためでした。ローマ7:7。
 世に生きて行くのにお金は必要ですが、いのち以上にお金が大事なのではありません。いくら蓄えても、いのちをなくしたら、お金は誰のものになるのでしょうか。ルカ12:20。この人は、他の人と比べて、自分は守って来たと思い込んでいたに過ぎません。何々をしないことは守っても、人の犠牲になったことでもないようです。
 永遠のいのちとは、天の御国、救いのことです。この世のすべてを売ってでも手に入れる価値があるものです。マタイ13:44。若さと情熱と人生をささげても惜しくありません。神様からの一方的な贈り物です。救いは、天国のいのちは永遠です。地上の生涯は一度しかありません。一度しかない貴重な人生をどう生きるのでしょうか。今永遠のいのちを得て、天国という行き先が決まっているなら、平安に今を生きて行けるでしょう。

V−だれが救われるのだろうか−22〜27
 世の宝より永遠のいのちを大切に考えなければなりません。この人の反応はどうですか。22節。物質、富を愛するこの人の本性があらわれました。永遠のいのちの大切さを知ってはいても、宝を取り替えてもとは、切迫していないのです。考えてみてください。世に生まれ来る時、何か持って来ていますか。世のすべてを握るような手で生まれて来ますが、世を去る時は何も持って行くことはできません。ヨブ1:21。
 この人や金持ちをよそ事と考えないでください。イエス様が金持ちが神の国に入るのは難しいと繰り返し言われた時、弟子たちは、何と言っていますか。23〜26節。弟子たちも繰り返し、イエス様の言葉に驚きました。なぜ、驚いたのでしょう。弟子たちも、この青年と同じ思いを持っていたからです。自分たちも、今は貧しくても、いつか金持ちになりたいという夢を持ち、イエス様の王国ができる時には権力を手にできると思っていたからです。富の危険がありました。Tテモテ6:9〜10。ですから、富める青年が去った後、金持ちと神の国の話を弟子たちにされたのです。
 イエス様は、金持ちは悪い、金持ちはみな天国へ行けないなどとは言っておられません。金銭を偶像視して、救いを求めなくなってしまう危険が多いと言われたのです。人は、富を頼りにして、地位を頼って、自分の健康に依り頼みます。地位も若さも偶像になります。既得権を持っている者は、それを放棄することは容易ではありません。何かイエス様以外のものを偶像のようにしているなら、神の国に入れません。私たちも、自分にとって、そのようになっているものがありはしないか、省みてみましょう。
 誰が救われるでしょうという弟子たちの疑問に対して、イエス様は、「人にはできないが、神にはできることだ」と言われました。27節。救いは、人の能力や努力、修養によるのではないと言われたのです。イエス様より別な何かを愛していませんか。イエス様は、私の代わりに十字架に死なれたのです。それほどに私を愛してくださったのですから、ただイエス様をつかんで、イエス様に付いて行きたいという信仰だけ必要です。
 有名なウェスレー牧師は、「神は、将来私たちに、世でどのような地位にあったかとは尋ねないで、その場でどのように生きたかを尋ねます。どのように財産を集めたかと問わず、それをどのように用いたかを問われる。どれほど知識を得たかを聞かずに、その知識で世にどんな益を与えたかを聞くだろう」という言葉を残しました。心に蓄えたい言葉です。
 今日の箇所を読んで、せっかく救いを求めて来た者を厳しい言葉で追い返したという印象を持つ人もいるかもしれません。21節を見てください。イエス様は、「彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」のです。「いつくしんで」とは、アガペーの動詞、「愛する」です。イエス様は、この人のためにも十字架にかかってくださいました。イエス様は、この人を大切に思い、愛してくださいました。あなたのためにイエス様は世に来られ、十字架に苦しみ死なれました。このイエス様の愛に応えて、イエス様を自分の救い主と信じて、イエス様に付いて行きませんか。エペソ2:4〜5。





マルコ10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」
10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」



ヨハネ3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

エペソ2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

ルカ10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

ローマ7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

マタイ13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

ヨブ1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」

Tテモテ6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

使徒14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。

エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

ローマ5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。


テトス3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

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