2018年10月7日「みなに仕える者に」マルコ10:32〜45

序−子どもから大人まで、どうすれば一番になれるか、どうすれば偉い人になれるかと人々は考えています。誰にでも、人より評価され、より尊敬されたい思いがあります。今日の箇所には、その方法が記されています。

T−ヤコブとヨハネの要求−32〜39
 エルサレムに近づいて行き、イエス様が3度目の十字架と復活の話をされました。8:31,9:31。3回繰り返されたということは、とても重要な話だということです。しかし、それを聞いた弟子たちは、そのことがまったく分かっていませんでした。2人の弟子ヤコブとヨハネが、イエス様にお願いしました。35〜36節。イエス様は、「頼み事がある」という彼らの肉の思いを知りながら、受け入れて、温かい声で、「何をしてほしいのですか」と聞いてくださいました。私たちも、何でも「頼み事」があるなら、祈ってみましょう。ちゃんと聞かれて、修正されます。
 それで、2人は、イエス様がエルサレムへ行って王様になったならば、自分たちを右大臣、左大臣にしてくださいとお願いしました。37節。韓国でも、一番の大臣は、右議政、左議政と言うそうです。マタイ20:20〜21を見ると、その場にヤコブとヨハネのお母さんも来ていて、同じことをお願いしています。彼らの母とマリヤは親戚だという学者もいますから、だから特別に扱ってくれという感じです。
 以前から、弟子の中で誰が一番偉いかと争っていたくらいですから、イエス様がエルサレムへ行って王様になれば、自分たちは右大臣、左大臣になりたいと思ったのです。弟子たちの関心は、このようなことだったのです。大事な十字架の話をしているのに、なんて情けない俗物感情でしょう。どれほどイエス様の心を痛めつけていたことでしょうか。でも、霊的な御言葉を聞きながら、人間的なことだけを考えて、文句を言ったり、悪態をついたり、自己中心になったならば、私たちも弟子たちと同じなのです。このような誤った姿は変えられなければなりません。
 がっかりし、心を痛めておられたイエス様は、「私の杯を飲むことができますか」と聞くと、雷の子と呼ばれた彼ららしく、考えなしにすぐに「できます」と答えました。38〜39節。権力とか地位に執着している時は、何を言っても聞く耳がありません。いらいらしながら、「できます」と答えたのでしょう。イエス様の言われた「杯」とは、イエス様の苦難の死のことです。マタイ26:39。彼らは、何も分かっていなかったのです。できますと言いながら、後日エルサレムでイエス様が捕まった時、弟子たちは逃げてしまいます。14:50。
 40節で「イエス様の右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々がある」と言われましたが、神の国の祝福は、弟子たちの努力の結果ではなく、父なる神の定めに従っていただくもので、御父の権限に属するということです。救いは律法を守れたとか努力の結果とかではなく、ただ一方的な恵みなのだということを徹底して覚えなければなりません。エペソ2:5,8。その恵みに応えることが、信仰者の努力や頑張りなのです。

U−みなに仕える者になりなさい−41〜44
 このやり取りを聞いていた他の弟子たちが怒りました。41節。他の弟子たちが「腹を立てた」というのは、彼らも同じ考えだったからです。そこで、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、弟子としてどう生きるべきなのか、大事なことを教えてくださいます。42節。今私たちも主の前に呼び出されています。世の支配者たちは人々を抑圧し、偉い人たちは権力をふるおうとするが、あなたがたは、そうしてはなりませんと言われました。この弟子たちの姿は、私たちのうちにもある、罪の性質だからです。
 では、イエス様の弟子としてのあり方、私たちの生きるべき姿は、どうだというのでしょうか。43〜44節。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」と教えてくださいました。
 まず、イエス様は、「偉くなりたいと思う」とか「人の先に立ちたいと思う」こと自体を問題にしておられません。そういう思いを認めておられます。最初から純粋な思い、崇高な霊性がなくてもいいです。偉くなりたい、人の先に立ちたいと思うなら、みなに仕える者になり、みなのしもべになるのです。そうして続けて生きて行けば、どうなりますか。偉くなりたい、人の先に立ちたいという思いは、いつしか消えているでしょう。そして、結果、偉くなり、人の先に立つようになっているでしょう。もちろん、偉くなり、人の先に立つようになったからと言って、仕えることをやめたりしません。
 人は、他の人より高い地位になりたい、人々に仕えてもらいたい、人々から認められたい、尊重されたい気持ちがあります。私たちのうちにも、そういう気持ちがあるでしょう。それなら、なおさら私たちは、人々に仕えることが必要です。人を認め、人を尊重する必要があります。
 「しもべとなりなさい」と言われましたが、しもべの姿をもって生きることが必要です。イエス様が、しもべの姿を教えています。ルカ17:7〜10。これが、しもべの姿です。いくら疲れていても、大変でも、主人に給仕して先に食べさせます。しもべは主人のために存在し、やったからと言って、賞賛や感謝を受けることもありません。ただ、しもべとして当然のことをしただけとするのです。これが、しもべの精神です。やってあげたという思いで仕えると評価を期待して、不満も出て来ます。もう仕えてやるもんかとなります。やらせていただいて当然、賞賛も入りませんという謙遜な気持ちが必要です。
 ある修道院の食卓には、長いスプーンとフォークがあったそうです。長くて大皿から自分の皿に持って来ることはできないが、互いに相手の皿に給仕することで食べることができます。謙遜に人に仕えることを体験させたそうです。狂言の題目に「棒縛り」というのがあります。主人が、自分の留守の間に下人の2人が勝手に飲み食いをしないように、2人の両手を長い棒で縛って出かけました。2人は何とかできないか考えた末、互いに給仕して飲み食いをしてしまうというお話です。互いにしもべとなって、互いに仕えることを身につけたいと思います。私たちの教会が、何よりも仕える共同体、愛の共同体になるようにと願います。

V−贖いの代価として、自分のいのちを与えるために−45
 それでも、仕えるなんて損だ、しもべなんて嫌だと思われるでしょうか。イエス様は、仕える者になりなさい、しもべになりなさいと弟子たち、私たちに命ずるだけではありません。最後に何と言われましたか。45節。イエス様は、最初から仕えるために世に来られました。ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われました。ピリピ2:6〜8。
 そうです。イエス様は、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために世に来られました。私たちは、このイエス様の十字架の死が自分のための犠牲だと信じています。言い尽くせないほどの感謝でいっぱいです。イエス様の十字架は、死ぬまで仕えたということです。イエス様の十字架に込められた、仕える精神は、自分が死んで人が生きるということです。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」の精神です。ヨハネ3:30。
 大丈夫です。仕えるならば、祝福を受けます。ヨハネ3:30のように言ったバプテスマのヨハネも、イエス様の評価を受けています。マタイ11:11。十字架の死にまでも従われました主も、父なる神によって高められています。私たちも仕えるだけで終わりません。必ず祝福を受けます。仕えて侮辱や嘲りを受けたとしても、「よくやった。良い忠実なしもべだ」とイエス様の賞賛を受けるでしょう。マタイ25:23。
 私たちは、自分の人生において仕える姿が必要でしょうか。私たちの家庭や職場、学校という生活の現場において、どのような仕える姿が必要でなければならないか、考えてみましょう。私たちの主は、仕えるしもべとして来られたイエス様のように、私たち一人一人が、仕えるしもべ、仕える専門家になることを望んでいます。
 イエス様を信じる者、聖徒たちは、どのように生きなければならないのでしょうか。それは、「仕えるしもべの精神」です。43〜44節。なぜですか。イエス様が私のために、そうしてくださったからです。ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われたからです。それほどまでに私を愛してくださったからです。
 今日は、聖餐式を受けます。聖餐式は、仕えるしもべとして来られて、十字架の死にまで従われた、主の十字架を記念するものです。聖餐式には、主の臨在の祝福があります。主の肉と血を記念するパンと杯は、私たちを愛された主が、十字架に至るまで仕えてくださったことを覚える場です。私たちは主の愛を受けました。私たちの生活の現場にいる方々も同じ愛を受けた方々です。私たちは、お互いの存在を尊く思って、お互いにしもべの精神に仕え生きていく時、主は私たちを偉い者、人の先に立つ者としてくださいます。私たちが、世にあってしもべの精神で生きて行く時、主の祝福と恵みがありますように祈ります。マルコ10:45。



マルコ10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」



マタイ20:20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
20:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。

ルカ17:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。
17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

ルカ22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

ヨハネ3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

マタイ11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

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