2018年10月14日「切実な願い、切実に祈る」マルコ10:46〜52

序−人生は、多事多難、様々な問題や艱難に出会います。逆境に会えば、絶望を経験します。しかし、逆境の中で希望をつかみ、勝利する話も聞きます。厳しい状況でも、希望を失わないでいれば、困難を克服する時が来ます。そのような例を聖書の登場人物から学びましょう。

T−絶望の中で、切実な願い、切実な祈り−46〜48
 それは、エリコという町に住んでいた、バルテマイという目の見えない物乞いでした。46節。彼は、目が見えないために、毎日道端で物乞いをして生きるしかありませんでした。どんなに辛い人生だったのでしょうか。私たちも、問題を抱えながら、懸命に生きています。人は、多くの問題を持って人生を生きていきます。その問題のために悲しんで、悩んで、苦しんで、絶望しています。しかし、それらの問題が、私たちに人生を考えさせてくれるきっかけにもなります。
 ある日、バルテマイは、エリコにイエス様が来るという話を聞きました。それまでもイエス様について噂を聞いていました。様々な癒しや奇跡の話を聞いていました。そのイエス様が自分の町に来られると聞いて、彼は会いたいと切実に思いました。ですから、イエス様が近づいて来られたこの機会を逃すまいと、大声で叫びました。47節。人々からは「ナザレ出身のイエス」と聞いていたのに、彼は「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください」と叫んでいます。
 ダビデの子とは、メシヤ、救い主の別な言い方です。イエス様を救い主だと呼んでいたということです。彼は、イエス様こそ自分の人生の問題を解決してくださり、逆境から救い出してくださるお方だという望みを持ったのです。ですから、「わたしをあわれんでください」と叫びました。目が見えないので、大声で叫ぶしかありません。切実に願っています。祈る時、神様がどのようなお方と信じているかが重要です。神様が私の祈りを聞いてくださると信じて祈ると、事が動きます。箴言8:17。
 ところが、人々が黙らせようとしたというのです。48節。そう言われても、黙っているわけには行きません。目が見えない彼にとって、群集が自分を黙らせようと騒げば、ますます大声を出して、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫ぶしかありません。イエス様が通り過ぎてしまったら、もう機会がなくなってしまうからです、切実に願ったのです。ヘブル10:35〜36。大声で叫ぶ彼の声を、イエス様が聞いてくださいました。いのちを尽くしてご自分を呼ぶ彼の声を主は聞かれたのです。もし彼が声をあげて叫ばなかったら、どうでしょう。彼がどんなに大きな切実な願いを持っていたとしても、「私をあわれんでください」と叫ばなかったら、機会はなくなったでしょう。イザヤ55:6。
 ですから、私たちは、祈らなければなりません。彼が必死で主を呼んだので、イエス様は答えられたのです。49節。いくら問題を抱え、危機に瀕していても、主に祈らなければ、主に叫ばなければ意味がありません。切実な願いを持っておられますか。切実に祈りましょう。

U−何をしてほしいのか、イエス様の癒し−49〜51
 切実な願いをイエス様が聞きました。バルテマイが必死に叫び、イエス様を呼んだので、イエス様は答えてくださいました。49節。イエス様が、「あの人を呼んで来なさい」と言われると、人々は一転して、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言ったのです。環境は、一変しました。どんなに感激したことでしょうか。主は、私たちの切実な祈りを聞いてくださり、答えてくださいます。主なる神様が介入される瞬間から、状況が変化して行きます。人々を動かし、問題を動かしてくださいます。絶望の扉が開かれます。
 彼は、それを聞いて、すぐさま行動しました。50節。毛布のような上着を脱ぎ捨てて、身軽になって急いで行きました。見えないのに危ない、上着はどうするなんて考えません。自分の人生の問題を解決してくれるイエス様が呼んでくださるのですから、喜んで急いで行くでしょう。あなたも、イエス様に呼ばれています。マタイ11:28。切実に祈って、イエス様に会ってください。イエス様に出会ってください。
 みもとに来たバルテマイに、イエス様が「わたしに何をしてほしいのか」と言われました。51節。あなたの願いは何ですかと聞かれています。すかさず、彼は「目が見えるようになることです」と答えました。この願いって、当たり前ですか。物乞いならば、施しを求めるのが当たり前でしょう。彼はイエス様を救い主と信じていたので、目が見えるようになることを願ったのです。みなさんは、いつもどんなことを求めていますか。願い事は何ですか。では、イエス様から「あなたは何をしてほしいのか、あなたの願いは何ですか」と聞かれたら、何と答えますか。
 彼は、すぐさま見えるようになりました。52節。私たちは、バルテマイを通して、祈る姿勢、主に願う熱心を学びました。切実に願うのですから、祈りは、切実でなければなりません。人々から妨げられても、叫ぶことをやめませんでした。邪魔が入ったら、祈りをやめるのですか。状況が進まなかったら、祈らないのですか。それでも、切実に祈るのが、きょう教えられている信仰者の祈りです。
 聖書を見ると、イエス様に祈り、求めたことで、応えられなかったことは1つもありません。イエス様は、今も生きておられるので、私たちの切実な祈りを聞いておられます。天地の造り主なる神様に祈る時、確信をもって祈らなければなりません。

V−あなたの信仰が直した−52
 彼の切実な願いに対して、イエス様は彼を癒してくださいました。52節。この癒しの奇跡を通して、イエス様が私たちに強調されている重要なことは、「あなたの信仰があなたを救った」という事実です。奇跡が現れるためには、信仰が必要です。イエス様は、いつもその人の信仰を確認しておられます。信仰は、神の恵みを受け入れる器のようなものです。信仰がなければ、恵みを受けることができません。神様に近づくためには、信仰という器をもって進まなければなりません。
 では、あなたの信仰があなたを救ったという、その信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。きょうの出来事の随所にでています。まず、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」という叫びは、信仰告白でした。イエス様の何をしてほしいかの問いに対して、目が見えることですという答えも、信仰告白です。心で信じて、口で告白して救われます。ローマ10:10。
 バルテマイは、機会をとらえる信仰の人でした。47節。一所懸命叫んで、イエス様と会う機会を逃がしませんでした。恵みにも、チャンスがあります。与えられた機会を逃せば恵みを受けられません。彼は、なぜ機会を逃さなかったのでしょう。イエス様のことを聞いて、信じていたからです。イエス様のことを聞いても信じなかったら、彼の人生には何も起こりません。恵みのチャンスをつかんでください。エペソ5:16, コロサイ4:5。
 彼は、持っているものの可能性を最大に用いる信仰の人でした。確かに目が見えませんでした。でも、彼には、口があり、手や足がありました。それらを最大限に用いました。そこに信仰がありました。人は、何々がないから無理、できないと考えますが、彼は、目が見えないけれども、口で叫んでイエス様を呼びました。足で立って、イエス様の所に行きました。ないもので失望するよりも、あるもので可能性を考えるのが信仰です。ファニー・クロスベーという賛美歌作家は、生まれて6ヶ月で視力を失い、30歳まで絶望の中で生きていました。しかし、初めて賛美を聞いた時、心に感動が押し寄せ、涙が流れました。私のために死んでくださったイエス様に何をささげようか、目の見えない私にあるものは、小さい時から好きだった音楽と文学だと、95歳で死ぬまで、8千の賛美歌を作りました。
 また、妨害で諦めない信仰がありました。彼がイエス様を呼び求めた時、人々は彼を叱って黙らせようとしました。48節。恵みをとらえようとする時、妨害が起こるものです。サタンがねたむからです。私たちも、信仰で事を行おうとする時、妨害を経験します。信仰の情熱が大きければ、妨害も大きいのです。悲観してはなりません。めげないでください。バルテマイはどうでしたか。妨害が大きいほど、諦めないで、必死に叫びました。
 そして、決断して、行動する信仰がありました。彼はイエス様に呼ばれた時、すぐに立ち上がって、上着を脱ぎ捨てイエス様のところに行きました。50節。すぐに立ち上がるという決断、物乞いにとって、唯一の大事な財産である上着を置いて行く決断をしました。昼は強い日差しを防ぎ、夜には寒さから守る毛布になる大事なものです。上着を握って生きるのではなく、イエス様の御言葉を握って生きて行くように変わったということです。イエス様があなたのために十字架にかかったという福音を聞く皆さん、イエス様を信じる決断をしてください。躊躇しないでください。
 結果、イエス様に従って生きる信仰者になりました。52節。きょう切実に願い、切実に祈って人生が変わったバルテマイの信仰を学びました。
きょう私たちは、信仰を深く省みなければなりません。祈りは信仰で祈らなければなりません。信じて祈るところに神様の恵みがあらわれます。私たちにも、イエス様が何をしてほしいのかと問われます。信仰を持って切実に願ってほしいからです。切実に祈りましょう。



マルコ10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。



箴言8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

ヘブル10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

イザヤ55:6 【主】を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ローマ10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

エペソ5:16 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。

コロサイ4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

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