2018年10月21日「ホサナ、救ってください」マルコ11:1〜11

序−イエス様の十字架からの復活、イースターの一週間前、受難週の始まりの日曜日は、棕櫚(しゅろ)の日曜日、パームサンデーと呼ばれます。その日人々が、棕櫚の枝を道に敷いて、イエス様のエルサレム入城をホサナと迎えたからです。ろばの子に着目しながら、大切なことを学びましょう。

T−ろばの子、救い主に出会おう−1〜6
 いよいよイエス様がエルサレムに入られることになります。その時、奇妙な滑稽なことが行われています。1〜2節。なぜ、イエス様はろばの子を必要としておられたのでしょうか。イエス様は、ご自分がろばの子に乗ってエルサレムに入られる姿を通して、ご自分が誰なのか、救い主がどのようなお方なのかを知らせるためです。
 並行記事のマタイ21:4〜5によれば、救い主の予言の成就のためだと説明されています。それは、ゼカリヤ9:9からの引用です。ですから、イエス様は旧約の昔から約束された救い主なのだと教えているわけです。この地方では、その時代乗り物は馬かろばでした。馬は、戦争で用いられ、王や兵士が乗るものでした。一方、ろばは人々が旅行や荷物を運ぶ時に用いられました。ですから、イエス様が王様のようではなく、平和のために来られた柔和な、謙虚な方であることをあらわしているのです。
 ここには、弟子たちの従順も示されています。3〜6節。弟子たちは、文句の1つも言わずに、イエス様に言われたとおり行動しています。考えてみれば、不思議なことです。今まで誰も乗ったことのないろばの子であること、縛られていること、なぜそんなことをするのかと聞かれること、イエス様に言われたように答えれば許してくれたこと、すべて前から知っていたかのように、その場にいるかのように明らかにされておられます。
 私たちがろばの子になって考えてみましょう。ろばの子のすべてをご存知でおられたイエス様は、私たちのことのすべてもご存知だということです。どのように育って来たのか、何をして来たか、何を考えているのか、どのような状態にいるのかを知っておられるということです。そのようなお方が私の救い主なのです。私がこのお方を信じるなら、主は私のすべてを知って、私のすべてを助けてくださるのです。本当にこれを知るならば、勝利の信仰生活をすることができます。信仰は、理解して信じたというところに止まるのでなく、この真実な救い主と出会うことが必要です。
 ろばのイメージは何でしょう。ドンキーと言い、愚かという意味があります。人々は、十字架の出来事を愚かだと言います。十字架に死刑になった者が救い主だなんて、愚かだというのです。確かに、聖書も、「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められ」と言っています。Tコリント1:21。信じない者には、愚かに思えても、信じる者にとっては、イエス様の十字架による救いは、神の力、神の知恵なのです。Tコリント1:23〜24。

U−自分勝手な信仰を変えよう−7〜10
 ろばの子が連れて来られると、なんとイエス様は、そのろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。すると、人々が自分の上着や棕櫚の枝を道に敷いて、イエス様がその上を通るようにしました。7〜8節,ヨハネ12:13。そして、ホサナと叫んで、イエス様を迎えました。9〜10節。ホサナとは、「救ってください」という意味です。ホサナ、ホサナと賛美したというのです。素晴らしい救い主を歓迎する光景と見えます。
 しかし、人々は、誤解してホサナと言っていたのです。彼らが言うのは、ローマの支配から救ってくれと言っているのです。ろばの子に乗ってエルサレムへ入られたのに、人々は、かっこ良く馬に乗って来る支配者、征服者のようにイエス様を迎えたのです。勝手にそのように期待していたのです。人々は、ほどなくして自分たちの期待が間違っていたことに気づき、イエス様を十字架につけろと叫ぶようになります。マルコ15:12〜14。自分勝手な期待、欲でした。悲しい残念な姿です。
 このような誤解、間違った期待は、私たちの信仰にも決定的な問題となります。イエス様は、私たちを罪の裁きと滅びから救うために来られたのに、たましいの平和をもたらす方として来られたのに、自分の欲を満たしてほしい、自分勝手な期待に応えてほしいと思っていたら、どうでしょう。そのような主に対する思い違いは、私たちに不幸をもたらします。イエス様の王国で右と左に座らせてくれと願った弟子たちの言うことは聞いてもらえませんでした。エルサレムの群衆も聞いてもらえません。征服者は、力で治めようとしますが、平和の主は、愛で治めます。
 ホサナと叫んでいたのは、人々が賛美していたということです。ルカ19:37〜38。私たちは、賛美するように求められ、私たちが賛美する時、主が働かれます。詩篇100:1〜2,22:3。祝福あれと賛美するのは、主に栄光を帰することです。そのように彼らは、イエス様の栄光をあらわし、賛美していながら、彼らは、自分たちの肉的な必要を満たしてくれる方として賛美しています。自分の栄光を求めていました。彼らは、自分たちが罪と滅びから救われなければならないという事実を知らずにいました。これもまた、悲しい姿です。
 罪の赦しには、ささげものが必要です。賛美は、私のためにご自分を十字架にささげてくださった救い主イエス様に感謝して、褒め称えるものです。この時、エルサレムには、過ぎ越しの祭りのために世界中からイスラエルの民が集まっており、贖いのための動物をささげました。犠牲の動物は屠られて、全焼のいけにえとされました。しかし、イエス様は、動物の血によってではなく、ご自分の血によって永遠の贖いを成し遂げられました。ヘブル9:12。
 私たちは、このイエス様の犠牲の死を覚えて、感謝して賛美するのです。罪から解放して、天国へ入れてください、私を救ってくださいと叫ばなければなりません。ホサナ、今私たちを救ってください。私たちにはたましいの救いが必要ですと叫ばなければなりません。様々な必要なもの、期待することはありますが、それらは一時的であり、本質的なことではありません。罪と滅びからの解放、永遠のいのちが不可欠です。霊的に死んでいるものに何があっても意味がありません。

V−ろばの子になろう−
 今偉大な救い主イエス様が、ろばの子に乗って、エルサレムに入って来られました。この偉大なことに用いられたのは、ろばの子でした。取るに足りないものと見られても、イエス様の栄光をともにしました。ろばの子というセルグループの名前は、きょうの箇所から取られています。イエス様をお乗せするような生き方をしたい、イエス様に用いられるような子どもを育てたいという願いからでしょう。私たちも、主に用いられる者になる必要があります。イエス様の栄光を一緒に味わい、祝福を受けることが必要です。
 どうしたら、主に用いられるのでしょうか。このろばの子は、主に召し出されました。私たちも、主の召しが必要です。人が誤解し、間違ってしまうのは、自分が特別だから用いられると思うことです。主が召してくださるから用いられるのです。反対に、自分には何もないから用いられないと思うことも間違いです。主がお入用なのですと呼んでいただければ、用いられるのです。
 ここに用いられたろばの子は、それまでまだ誰も乗ったことのないろばの子でした。そのようなろばの子が、イエス様に用いられるために選ばれたのです。ですから、そのように、私たちも選ばれるのです。このろばの子は、イエス様に召されて用いられるまで、杭につながれていました。もし、イエス様に呼んでもらわなかったら、ずっと杭につながれて生きなければならなかったでしょう。一生涯重い荷物を背負うだけで終わったでしょう。私たちがイエス様に召しだされているということは、何と言う栄光でしょう。
 ところが、この時のろばの子も、自分がイエス様に召しだされていることがどれほどの栄光なのか分からないまま引き出されています。救い主を乗せ、人類を救う働きに用いられたのです。ひょっとしたら、私たちも今主に用いられていることが分からないでいるのかもしれません。
 弟子たちを見てください。彼らの誰一人として、用いられる能力があるから召された者はいません。Tコリント1:27〜28。何も知らない少年サムエルを使われました。Tサムエル3:10。臆病なモーセを出エジプトの道具として用いられました。出エジプト3:10。聖徒たちを迫害していたパウロをダマスコ途上でお呼びになりました。使徒9:4。召しを受けた時、彼らはみな自分は役に立たない存在だと思っていました。しかし、神様はそのような取るに足りない、不足している者たちを召しだして、用いられたのです。そして、呼ばれた彼らも、最善を尽くして用いられました。
 私たちも同じです。弟子たちや神のしもべたちを呼んで、用いられたように、今日も私たちを召し出して、救いの働きに参加させてくださいます。教会での奉仕ばかりではありません。家庭や職場、学校などにも召しだされて、主の栄光のために用いられるのです。その召しにこたえて、従順になる時用いられます。私たちは、それぞれの生活の現場で主の栄光をあらわして生きるのです。それぞれの生活の現場で、イエス様をお乗せするろばの子として用いられることを願います。エペソ1:18〜19。



マルコ11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」
11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
11:11 こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。



マタイ21:4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

ゼカリヤ9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

Tコリント1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

ヨハネ12:13 しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

ルカ19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

ヘブル9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

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