2018年10月28日「実を結ぶ信仰へ」マルコ11:12〜20

序−今や実りの秋です。果物をはじめ、秋の収穫物が出回る時期です。私たちの信仰の実りについて、御言葉から学びましょう。今朝の箇所は、しばしば誤解され、難しいと言われます。ここには無花果の話の間に神殿での事件が挿まれており、サンドイッチ技法と言われています。関係のないように見える二つの事件が、実際には密接に関係していることをあらわす文学技法です。二つを関連づけて見ると、信仰の実りというテーマが、霧が晴れるように鮮明になって来ます。

T−実のない葉だけの無花果−12〜14
 イエス様が泊まられたベタニア村の隣のベテパゲ村は、いちじくの家という意味の名前が付いているくらい、その地域はいちじくの多い所でした。1, 12節。お腹の空いたイエス様が、いちじくの実がないかと見ても、葉だけしかありませんでした。13節。ここからの話が、人々を惑わせるところです。葉だけで実のないのは、実のなる季節ではなかったからだというのです。それなら、どうして実はないかと見たのでしょうか。
 おかしいのは、これだけではありません。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と言われたのです。14節。あたかも実がないのを怒られたかのように、もう実なんかなるな、枯れてしまえと言わんばかりです。いくらお腹がすいたからといって、実がないくらいで、実るなと怒るなんて、イエス様がされるのでしょうか。
 いちじくの木は、本格的に実がなるのは、5月から6月なのですが、春に葉が茂りはじめる頃に小さな未熟な実がなるそうです。聖書にも、「初なり」と記されています。ホセア9:10, ミカ7:1。ですから、初なりの小さな実くらいはあるのです。13節には、「葉の茂った」とか「葉のほかは何も」と葉が繰り返され、強調されています。そして、もう実るなということばを「弟子たちが聞いた」とわざわざ記されています。
 いちじくの木は、たいてい神の契約の民であるイスラエルを象徴しています。神様は、その民イスラエルをいちじくの初なりに見ておられます。ホセア9:10。そのイスラエルの民の腐敗に対して、信仰の実のない民への裁きも予言されています。ミカ7:1〜4。ですから、エルサレムの人々の信仰が葉だけ茂っている実のない信仰だというのです。葉だけのいちじくは、形だけの信仰で、信仰の成長がなく、霊的成熟がないということをあらわしていたのです。実を結ぶ信仰の人生を歩まない神の民は、もう神の民ではないというのです。神の民として選び、祝福を与え、守って来たのに、信仰の実りがなかったのです。この葉だけ茂っていた実のないいちじくの例え、私たちの目には、どう映ったでしょうか。
 救い主イエス様が来られたのに、エルサレムの人々は、自分の肉の思い、勝手な願いを叶えてくれるご利益の対象としか見ていませんでした。イスラエルの民は、そのような神様の恵みを忘れて、自分の都合の良いことばかり願い、御言葉に聞き従うことはせず、神の栄光をあらわすことがありませんでした。その行き先は、どうなってしまうのでしょう。

U−強盗の巣と化した神殿−15〜17
 いちじくの木で教えられた信仰の実がないというのは、続く神殿での事件に引き継がれています。昨日ホサナと叫んだ人々は、どこに行ったのでしょうか。人々の期待通りでなかったイエス様に対して、群衆の熱は冷めており、神殿の庭は、彼らのいつもの姿を見せていました。15〜16節。市場のような喧騒が聞こえて来そうです。売り買いしている人々とは、犠牲としてささげるものを売っている人たちです。鳩は、貧しい人たちの犠牲です。遠方からエルサレムに来る人々が、神殿の祭司が認定した犠牲用動物をそこで買うことができるようにしていました。
 また、ローマ皇帝の顔や刻印のあるローマの貨幣を神殿にささげるわけには行きませんから、両替人がユダヤのコインに換えてくれたわけです。神殿の祭司たちは、それら商売人に許可を与えて、利益を得ていたのでしょう。そこには、巡礼者たちや器具を運ぶ者が行き交っていました。その喧騒は、まさに強盗の巣のようだったのです。17節。そこは、本当は何をするところなのですか。「すべての民の祈りの家」でした。イザヤ56:7。神様の臨在を覚え、礼拝し、祈るところでした。私たちは、こうして会堂に集まり礼拝をささげていますが、神様の臨在を覚えているでしょうか。主に出会っているでしょうか。
 神殿の広い敷地の中でも、商売がされていた所は、異邦人の庭と呼ばれるところでした。神の民ではない異邦人でも、ここまで来て祈りをささげることができました。まことの神様を慕い求めて来た異邦人がその光景を見たら、自分たちの偶像の宮と変わらないと目に映ったことでしょう。ご利益を求める人々と同じように見えたでしょう。人は、教義を学ぶ前に、それを信じている人々を見ます。私たちは、周りの人々にどんな言動を見せているのでしょうか。聖書は、イエス様を信じる私たち自身が、神の宮だと言っています。Tコリント3:16。
 このような神の民の腐敗に対して、葉ばかりで実のない信仰に対して、イエス様はそのような人々を宮から追い出されました。イエス様が頭に来てされたのかと思われるかもしれません。しかし、この事件の前に、その腐敗のために滅んでしまうエルサレムのために涙を流されておられます。ルカ19:41〜45。涙がこの宮での出来事の前にあったということは、怒りの爆発ではなく、涙を流しながら行われた愛の表現だったということです。イエス様は、涙されるだけでなく、救い主として、人々のために十字架にかかられました。
 しばしば宮清めと言われる事件ですが、イエス様は、神殿をきれいにされたのではありません。実のないいちじくは枯れてしまえと言ったのは、まさにこのエルサレムの神殿のことだったのです。都の人々は、神様にふさわしい礼拝をささげないばかりか、神様に近づこうとする者を妨げていたのです。ですから、教会では商売をしてはならない、バザーもしてはならないというような話ではないのです。私たちの教会が、家族や地域の人々が神様に近づくのを助ける存在となることを願います。
 そのためには、私たちはどのようにならなければなりませんか。

V−信仰の実を実らせる−20, ルカ13:6〜9
 次の日、このいちじくの木が枯れていました。20節。葉ばかりで実のないいちじくが枯れたことは、神殿のさばきの宣言でしょう。形だけ残って、信仰の実がない神殿は、もはや使われなくなるのです。葉ばかりで実りのない信仰は、枯れてしまうというのです。私たちも、聖なる恐れをもって、信仰の実りについて考えましょう。そもそも信仰の成長、霊的造り変えなどについて日ごろ考え、願っているでしょうか。それとも、自分の肉の思いのようになることばかり願い、自分の肉の気持ちがよくなることばかり考えているのでしょうか。
 信仰とは、勝手な肉の願いを叶えるご利益信仰なのでしょうか。自分の願い通りならなければ不満を言い、願いが叶えばますますわがままになるでしょう。結局、たましいの平安はなく、人が変わることはありません。信仰とは、救い主イエス様を信じることによって、罪と滅びから救われ、人が変えられ、たましいの救いを得て、神の栄光をあらわして生きることです。今朝の箇所も、二つの出来事を通してそのことを教えてくれました。いちじくの木を育てる目的は、実を結ばせることです。もし実を結ばない木であれば、抜かれて燃やされてしまうしかないでしょう。
 イエス様がされた1つの例え話を引用しましょう。ルカ13:6〜9。ぶどう園にいちじくの木を植えて、実を得ようとしました。ところが、園の主人は、3年間実を結ばないいちじくの木について、切り倒してしまえと園の番人に命じます。それに対して、番人は、もう一年待ってください。土地を耕して、肥料を与えて、世話をしてみますとお願いするのです。イエス様も、主よもう少し待ってください。御言葉で養ってみます。チャンスを与えてください。そうしたら、この人も成長してくれます。信仰の実を結びますからとお願いしてくださいました。Tヨハネ2:1。
 ぶどう園にいちじくを植えたというのは、神様が罪人を招いてくだり、自分の民としてくださったということです。神様は、ご自分の民とするだけでなく、神の民らしく生きることを願い、御言葉を与え、恵みと祝福をくださいました。私たちも、イエス様の十字架の恵みを通して、神の子どもとされました。生まれ変わった、新しい人として生きることを期待されました。エペソ4:23。信じた人が新しい人として生きるのは、御言葉に従うことで可能です。御霊の実を結ぶことができます。ガラテヤ5:22〜23。救われてもなお世の価値観で生きていたなら、聖霊の実を結ぶことはできません。肉のままであり、様々な罪の行いが出てきます。ガラテヤ5:19〜21。
 イエス様は、御父の御言葉に従って公生涯を過ごされました。神の御心に完全に御言葉に従う生涯でした。それが、私たちが倣うべき姿です。イエス様は、今も私たちが実を結ぶ人生になるように、いつも祈っておられます。審判の時を少し延期してもらうよう神にお願いします。これがイエス様の忍耐の心です。私たちは、この愛の心を持っておられるイエス様に感謝します。この愛に応えて、信仰の実を結ぶ人生を送りたいと願います。コロサイ1:10。



マルコ11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
11:16 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
11:17 そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」
11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。
11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。




ミカ7:1 ああ、悲しいことだ。私は夏のくだものを集める者のよう、ぶどうの取り残しの実を取り入れる者のようになった。もう食べられるふさは一つもなく、私の好きな初なりのいちじくの実もない。

ホセア9:10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。

Tコリント3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

ルカ19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

ルカ13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」

エペソ4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

コロサイ1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

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