2018年11月4日「信じて、祈って、赦して」マルコ11:21〜25

序−日本人の多くの人が、何も信じていないと言います。しかし、人は何かを信じて生きています。それがお金であったり、自分自身であったり、地位や権力であったり、それらのものが偶像になっていたのです。ですから、キリスト教を信じる時、コンバージョン、改宗と言います。その意味は転換です。神の民が信じているつもりでも、葉ばかりの実のない信仰でした。神を信じる信仰へ転換が必要です。

T−信じなさい−21〜22
 いちじくの事件の翌朝、いちじくの木を見ると、根まで枯れていました。21節。弟子たちは、びっくりしました。21節。自分も葉っぱばかりで実のない信仰ではないだろうかと思った弟子たちは、根まで枯れてしまった木を見てとても恐れました。それで、イエス様は、恐れる弟子たちに「神を信じなさい」と言われました。不安や恐れを抱く者に必要なのは、神を信じることです。弟子たちは、これまで神様を信じていなかったのでしょうか。神の民なのですから、そうではありません。信じていたけれども、葉ばかり形ばかりの信仰でした。
 形だけの信仰は枯れてしまいます。根まで枯れたいじちくの木が、そのことをまざまざと示していたのです。世の中に何も信じない人は一人もいません。それが、まことの神を信じるのか、何か他のものを信じているかという違いだけです。それまでの偶像を信じ、ご利益を求める信仰ではなく、まことの信仰に転換しなければなりません。信仰とは、それまで肉の思い、世の価値観に支配されていた者が、まったく別の聖書の価値観に立つ者に転換すること、天地を創造された神様に従う生き方に転換することなのです。
 神を信じるということは、救いの神を信じるということです。人は、罪に陥り、神様から離れ、滅びに向かう者となってしまいました。それで、人を創造された神様は、そんな人をあわれみ、愛してくださり、救い主イエス様を世に遣わし、その十字架の犠牲によって、人に罪の赦しと天国への命を与えてくださいました。私たちは、この神を信じたということです。人々の身代わりにイエス様を十字架の死に渡されたというほど、私たちを愛してくださいました。ヨハネ3:16。

U−疑わないで信じる−23
 創造主なる神様、これほどに私たちを愛してくださる神様を信じているのですから、疑わないで信じなさいと主は言われるのです。23節。山と言えば、動かざること山の如しというイメージでしょう。私たちの人生において、山のようなものとは何でしょう。ここに出てくる山とは、人々が解決できない問題のことです。私たちには、家庭での問題、職場での問題、学校での問題、地域や社会での問題があります。それが困難であり、難しいものであれば、まさに動かない山のごとくでしょう。
 私たちは、それらの問題をどのように解決できるのでしょうか。イエス様は、「山が動いて、海に入れ」と疑わずに言えばそうなると言われるのです。そんな荒唐無稽な、無茶苦茶なことをどうして言われるのでしょう。これは、人々は、問題について明確な目標や、夢がありません。山に押しつぶされそうになっています。しかし、山が動いて海に入れという明確な目標を持つということは、私たちが人生の中で明確な目標や夢を持つということです。私たちが明確な目標や夢を持つならば、神様が働かれます。
 その目標や夢も、自分勝手なものではありません。神様が私たちに立ててくださるビジョンや夢です。ピリピ2:13〜14。神様が、事を行わせてくださいます。例えば、使徒パウロは、アジアで伝道したいという目標を持っていましたが行くことができません。なぜなら、神様の与えてくださったビジョンは、それを越えたヨーロッパ伝道だからです。やがて、ローマ帝国という山が動いて、キリスト教の国になります。
 夢やビジョンを持って行くのを妨げることがあります。疑いです。イエス様は、山が動くことについて1つ条件を付けました。疑わずに信じることです。疑いという言葉は、判断する、区別するという意味です。つまり、御言葉や神の導きに対して、これは無理、これは違うという心の状態が求めなくさせ、祈らなくなるのです。疑いは、神様に対する不信仰です。疑いが、神様に対して絶対的に従うことをさせなくします。
 肉の思いや環境が疑いを植え付け、私たちを失望させます。停滞や悪化が夢を奪います。では、どうしたら、疑いに打ち勝つことができるのでしょう。神の御言葉により頼むことです。私たちは、御言葉を読み、黙想し、信頼することが必要です。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるからです。ローマ10:17。御言葉の約束をしっかり握ることです。
 言語治療というものが最近注目されています。たとえば、治療が進み、回復できるということを繰り返し、継続する治療です。実際に治療効果が出ている例があるそうです。可能なことです。例えば、できないと継続的に言えば、することができたこともできなくなります。

V−受けたと信じる信仰−24
 イエス様は、続けて祈りについて教えてくださいました。24節。「祈って求めたことは何でも、すでに受けたと信じなさい」というのは、まだ受けていないことでも、受けたと信じなさいということです。また、そんな無茶なことと思われますか。時間を超越されておられるお方が祈りに応えてくださるのですから、応答してくださることに変わりはありません。人の思いでは遅いと思えることでも、神の時にかなっているのです。伝道者3:11。
 例をあげてみましょう。信仰の父と呼ばれたアブラハムは、空の星を見せられて、子孫について素晴らしい約束、夢を受けていましたが、どう考えても無理だ、もうだめだという状況になりました。しかし、アブラハムは、まったく望みが見えないときにも望みを抱いて信じ続けました。不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、神の力を堅く信じ続けました。ローマ4:18〜21。最終的には、神様の約束どおりになり、アブラハムは勝利を得ることができました。
 「そうすれば、そのとおりになります」というのは、祈ったら、必ず答えを受けるということです。ですから、祈ったらすでに受けたとみなすことができるのです。すでに祈りの答えを得たならば、あとは何をしますか。感謝の賛美をするだけです。祈ったら、すでに受けたと信じて、賛美します。そのように私たちが信じる時、主は「あなたの信じたとおりになるようにと言ってくださいます。マタイ8:13。

W−赦されたのだから、赦しなさい−25
 祈りにおいて、問題となるのが、罪の問題です。私たちの罪が祈りを聞かれなくしてしまいます。イザヤ59:1〜2。ですから、イエス様は、信仰について教えられた時、こう言われました。25節。人は、赦さない心で復讐心を抱いたまま祈ることをします。そんな祈りを神様が聞いてくださるでしょうか。でも、その自明なことをまったく考えないまま、赦さない心で祈っているのです。
 私たちが神様に罪の告白をして、罪の赦しを受けた時、神様との正しい関係が築かれて、祈りが聞かれるようになります。そして、自分に対する人の罪を赦すように求められます。ところが、人の罪を赦すことは、簡単なことではありません。だからと言って、人の罪や過ちを赦していないなら、祈りは聞かれません。神様の恵みと愛を知ることができません。なによりも、自分の罪が許されません。恨み言を赦してやったら、自分も赦されるというのです。どうしたら、人を赦すことができるのでしょうか。もとより、罪ある者が人を赦すなんてできません。私たちの罪の性質や本性では到底不可能です。
 でも、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。   イエス様を信じた者は、十字架の赦しの恵みを受けています。イエス様の尊い犠牲でもって罪赦された者は、赦された者として人をも赦すようにされているというのです。マタイ18:33〜35。人を赦せない、人に恨み言があるというなら、イエス様が十字架にかかられた時に言われた言葉を思い出しましょう。ルカ23:34。十字架上で、私の罪のために、赦しを祈ってくださいました。人を赦すことのできない私たちが、自分が何をしているのか分からないのですととりなし祈ってくださいました。
 いちじくの木の話から、今回の信仰の話が出ています。いちじくの木が根こそぎ枯れたという事件であきらかになったことは、主の御言葉は、お言葉通り実現するということです。この3つの信仰の勧めは、神の御言葉はそのまま実現するということが貫かれています。私たちが、この信仰を持つように転換することを願います。ピリピ2:13〜14。



マルコ11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」



ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ピリピ2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

ローマ10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

伝道者3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

ローマ4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

マタイ8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

イザヤ59:1 見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。


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